第二千八百三十九話 大いなる烙印(三)
「ガンディア王家……か」
リノンクレアは、様々な感情を込めて、つぶやいた。
ネア・ガンディアという国名には、ナルドラスのいうように新生ガンディアという意味がある。そもそもガンディアは、古代語で獅子の神を意味する言葉であり、そこに新たなという意味を持つネアを掲げ、新生ガンディア、ネア・ガンディアと名付けたものと想われる。なぜ、ガンディアをそのまま名乗らなかったのかといえば、旧ガンディアとはなにもかもが様変わりし、まったく同じ国ではなくなってしまったからなのか、それとも、ほかに大きな理由があるのか。
いずれにせよ、リノンクレアは、この国に自分の居場所があるとは想っていなかったし、いまここにいるのもそれを確かめるためだった。
神々の王、獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアもまた、ナルドラスのように変わり果てていた。神人や神獣の如き白き姿は、神々しくも見えたが、同時に人外の存在としてしか見えず、故に彼女は、心の内で拒絶した。拒絶しながらも、ナージュがため、レオナの将来のため、ここにいるのだ。すべては、ネア・ガンディアの実情を探り、知るためだ。知った上でなければ、行動も起こせない。
「ご不満ですかな」
「いえ、不満など」
リノンクレアは、ナルドラスの気遣い方にアルガザードの面影を見出しかけ、胸中で頭を振った。彼にアルガザードの影も形も見てはならない。それでは、彼に気を許してしまいかねないからだ。ナルドラスは、アルガザードではない。その事実を直視し、しっかりと頭の中に入れて置かなければならない。でなければ、アルガザードへの信頼をナルドラスに重ね、想わぬ間違いをしてしまいかねない。
「あるわけがないでしょう」
ガンディア王家は、レオナが受け継ぐだろう。レオナは、幼くして聡明な子だ。獅子神皇を拒絶し、レイオーンとともに姿を消した彼女は、セツナの元にいるだろう。セツナと行動をともにすることこそ、この世で一番安全だ。少なくとも、ネア・ガンディアに取り込まれる心配はない。それに、セツナたちならば、レオナのことを尊重し、レオナが間違った道に進まないように注意を払ってくれるに違いない。
リノンクレアは、ガンディアに最後まで忠を尽くし、ガンディアが亡びた後もなお、ガンディア王家のために力を尽くしてくれるセツナたちにこそ、信頼を置いていた。
ネア・ガンディアがガンディア王家を名乗るのは勝手だし、そこに口を挟む力は、リノンクレアにはない。獅子神皇がレオンガンドと名乗り、実際にレオンガンドそのひとである以上、彼がガンディア王家の代表であり、ガンディアという国の主だという事実を覆すこともまたできないのだ。しかし、受け入れようとも想わないのもまた、事実だった。
この人外と亡者の国が、ガンディア王家に相応しいとは想いがたい。
ガンディアは、人間の王者であるべきだ。
「ふむ……」
ナルドラスは、しかし、リノンクレアの発言をそのまま受け取ってはくれなかったようだ。しばし考え込んだのち、想わぬことを提案してくる。
「では、ご不満は陛下に直接ぶつけられては如何でしょう」
「なに……?」
リノンクレアは、ナルドラスの顔を見つめ、思わず茫然とした。陛下とは無論、獅子神皇のことだ。
「陛下は多忙とはいえ、リノンクレア様の、妹君たっての願いとあらば、直接話し合う時間を作るくらい造作もないでしょう」
「……陛下にお目通り適うというのであれば、それに越したことはありませんが」
「では、すぐさま陛下に話を通して参りましょう。しばし、ここでお待ちを」
いうが早いか、ナルドラスは、そそくさと部屋を後にした。扉が閉まり、リノンクレアと従者しかいなくなった空間には、再び静寂が訪れ、沈黙がその上に被さってくる。
リノンクレアは、それからしばらく黙り込んでいた。
従者たちは、そんなリノンクレアにどう声をかければいいものかと考えあぐねていた様子だったが、彼女は黙殺し、ただただ、ナルドラスのことを考えていた。
ナルドラスは、なにを企んでいるというのか。
リノンクレアがここに連れてこられてからというもの、獅子神皇と言葉を交わす機会を持てたのは、ほんのわずかばかりに過ぎない。ザルワーン島からここに至るまでの道中の飛翔船内ですら、まともに会話することもできなかった。レオンガンドがリノンクレアと逢うのを拒んでいるというよりは、獅子神皇という立場がそれを許さないといった様子であり、その点では、以前と大差ないといっていい。
ガンディア時代から、レオンガンドは多忙であり、ガンディアに戻ってからのリノンクレアとは、あまり話し合う時間が持てなかった。
その代わりといってはなんだが、ナージュとは毎日のように話し合う時間が持てていた。それこそ、リノンクレアがここにいる目的なのだから、それだけでも満たせるのは喜ぶべきなのだろう。ナージュが健康かつ幸福感に満ちた日々を過ごしているのがわかるだけでも、安心できる。ナージュにとってレオンガンドはレオンガンドであり、レオンガンドとともにいられるだけで幸せ一杯なのだろう。レオンガンドが人外に成り果てているということについては、考えてもいないらしい。
恋は盲目、という。
ナージュは、レオンガンドと離れ離れになってからというもの、日々、彼に恋い焦がれていたのだ。三年近く、消息が不明だった。それどころか、死んだと想われていたのがレオンガンドだ。それが生きて目の前に現れれば、ナージュのようにもなろう。思考停止し、ただレオンガンドを受け入れ、レオンガンドとの日々を謳歌する。
それ自体を否定するつもりはない。
リノンクレアだって、ナージュのようになっていた可能性もあるのだ。
もしリノンクレアがガンディアの姫のままであれば、レオンガンドの妹として在り続けていたならば、彼への想いを胸に秘め続けていたならば――。
頭を、振る。
それはいまや遠い過去だ。
少女時代の淡い夢。
もはや泡の如く弾け、消えて失せている。
少女は大人になり、幻想ではなく、現実の中で生きている。
故に、リノンクレアは、レオンガンドに恋い焦がれ、現を抜かすことなどはなく、むしろ冷え切ったまなざしでもって彼を見ることができていた。だからこそ、ここにいるともいえる。もし、リノンクレアがレオンガンドに全幅の信頼を置くことができていたならば、彼女も龍府に残り、グレイシアの補佐をしていたことだろう。信頼できるということは、ナージュの心配をしなくていいのだから。
信頼できないからこそ、ここにいる。
「……どう想う?」
リノンクレアがようやく口を開き、従者たちに質問したのは、ナルドラスが姿を消し、たっぷりと時間が経過してからのことだった。
「リノンクレア様を懐柔なされるおつもりなのは間違いないかと」
「懐柔……か」
「ナルドラス卿とて、我々がネア・ガンディアに対し、疑念や疑問を持っていることは承知のはず」
ナルドラスどころか、ネア・ガンディアの国そのものがリノンクレアたちの疑念に気づいている節がある。ナルドラス以外の神将たちも、獅徒たち、神々もすべて、リノンクレアたちの存在を歓迎しつつも、どこかで距離を置いているといったように思えた。それは、リノンクレアたちの中にある疑念が彼らを警戒させているようであり、疑念が晴れたとき、ようやく心から迎え入れられる、とでもいわんばかりだった。
「そのために神皇陛下と直接話し合う機会を設けよう、というのか」
そして、その機会をいますぐにでも手配しようというナルドラスの行動力の速さは、アルガザードとも思えないものだが、ガンディア王家のことを第一に考える彼らしいと考えれば、納得のいくことでもある。
ナルドラスは、アルガザードではない、が。
ついそう考えてしまう自分が嫌になり、彼女は不快な表情を浮かべ、その結果、従者たちを慌てさせた。
リノンクレアは、そんな従者たちの反応を見て、苦笑した。
彼らは、なにも悪くない。




