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第二百八十三話 サイの失態

 話は前後する。

「どういうことだ!?」

 ザルワーン第四龍鱗軍翼将サイ=キッシャーは、敵襲の報告を聞いて、頭の中が真っ白になるというのはこういうことなのだと理解した。初めて体験する感覚。思考が停止し、なにもわからなくなる。混乱ではなく、停滞。無数の考えが浮かんで思考が乱されるというのは稀にあることだが、なにも浮かばないという経験はこれが初めてだった。

 真っ白な空白。

 まるで時が止まったかのような感覚を抱いたのは、それまでの勝利の確信が一瞬で崩れ去ったからにほかならない。

 思考が動き始めると、無数の情報が頭の中を錯綜した。いま現在、自分の置かれている状況を把握することが最優先だった。ここは彼の寝室であり、サイは寝起きだった。隣にはいつものようにレナ=ベイジーが裸で寝ている。報告しにきた兵士は、部屋の外で待機しており、さすがにこの状況を目撃してはいない、それはいい。彼女が服を着ていようといなかろうと、関係のないことだ。

 広い部屋だ。彼が権力者であることの証明として取り揃えた調度品は高級な品物ばかりであり、どれをとっても一級品といってよかった。自慢するためのものではない。自分が辿り着く高みに相応しい品物を揃えただけのことだ。いつか、室内を満たす高級品さえも物足りなくなるような地位に至るのがサイ=キッシャーという人間なのだ、と言い聞かせてもいた。

 ここは彼の夢と野望の詰まった空間なのだ。彼の城と言っても過言ではない。彼以外、だれも立ち入らせることはなかった。レナ=ベイジーを除いて。

 彼女と知り合ったのは、半年前のことだ。サイが重用する情報屋であるところのドリス=ミゲルからの紹介であり、一目見て、彼女の美しさを気に入った。地につくほど長い黒髪に、血管が透けるほどに白い肌を持つ美女は、ドリス=ミゲルが舌を巻くほどの情報通であり、特にジベルの動きに詳しい上、ベレルやガンディアにも情報網を広げているということだった。もちろん、即座に信用したわけではない。

 サイは、自分に自信を持つ故に、他人を信用するには慎重に慎重を重ねた。他人など、別の生き物なのだ。頭の中でなにを考え、心の底でなにを思っているのかなど、想像もつかない。そんなものを信用するなど、到底できることではない。

 とはいえ、才能と実力、実績は嘘をつかないものだ。レナ=ベイジーがもたらす情報は精確かつ膨大であり、サイは彼女に利用価値を見出した。彼女の情報を利用すれば、サイはさらなる高みへと至ることができるかもしれない。彼女は特に隣国の情報に詳しく、ジベルやベレルの情勢や動向を知ることは、スマアダの防衛においても重大な要素だった。

 敵を知っておくというのは、勝利の鉄則であろう。

 サイは、彼女のもたらす情報を元にして、スマアダの防衛戦力の強化の必要性を強く感じた。ジベルがザルワーンに対して攻撃してくる可能性は大いにあったし、ジベルに対抗するには、スマアダにそれなりの兵力を集めておく必要があるのだ。たった千人では、とても持ち堪えられないというのが彼の考えだった。もちろん、ナグラシアやスルークからの援護が来るまでの時間稼ぎ位なら可能だろうが、後方からの援護に期待するよりも、独自に十分な防衛戦力を持ちたいというのが彼個人の思いである。

 中央に陳情したものの、返答が帰ってくる前に戦争が起きた。

 レナ=ベイジーでも、ガンディアのナグラシア強襲に始まるザルワーン侵攻は予想だにできなかったらしい。なんの前触れもなく始まった戦争は、ガンディア軍の一方的な勝利が続いており、ナグラシアのみならず、バハンダールやゼオルまで陥落してしまっていた。それでも、サイはザルワーンの最終的な勝利を疑ってはいない。国力の差がある。総兵力ではガンディアを大きく上回っており、三都市を落とされた程度ではその差は覆されないだろう。とはいえ、スマアダの地でザルワーンの勝報を待ち続けるのは、サイには苦痛以外のなにものでもない。スマアダに篭っているだけでは、たとえザルワーンがガンディア軍を撃退したところで、彼にはなんの恩賞もない。勝利に貢献していないのだから当然ではあるが、それでは自分の将来に暗雲が立ち込めてしまう。

 サイは、なんとかしてスマアダの戦力を動かせないかと考えた。

 それが最初だ。

 レナを用い、ジベルとベレルの動きを探らせた。ベレルは以前から外征に対しては消極的であり、内政に力を入れはじめたという情報通り、ザルワーンの情勢に興味もなさそうだという話だった。つまり、ベレルは捨て置けばいいということだ。

 つぎにもっとも気になるジベルの動向についても、同様の報告があった。ジベルはかねてよりザルワーンに対して敵愾心を抱いており、いつか牙を剥くだろうというのはだれの目にも明らかだったが、グレイ=バルゼルグが離反して以来、そちらへの支援に注力しており、ザルワーン領土への侵攻は計画さえしていないのだということだった。

 サイは、レナの情報を信用した。

 女の目が、いつの間にかこちらを見ていた。サイが黙考している間に起きたのか、それとも、最初から目覚めていたのか。冷ややかなまなざしがサイの目を見据えている。

「どういうことだ?」

「なにがです?」

 女は上体を起こすと、あられもない格好のまま寝台から飛び降りた。軽快かつ俊敏な動作は、とても情報を売って生計を立てている人間のものとは思えない。レナ=ベイジーは、サイの視線など気にすることもなく、着衣を身に着けていく。手慣れた動き。いつもの光景。サイは、さっきの報告が幻聴だったのではないかという錯覚に襲われ、頭を振った。これは現実だ。

 ジベル領から敵軍が迫ってきており、朝にもスマアダに到着する。

 窓の外はまだ暗い。だが、数時間ほどの猶予もなかった。全軍、彼の命令を待たずに動き出しているはずだ。敵軍が接近してきているのだ。防衛のための配置につくのは当然のことだ。彼だけが、遅れている。本来ならば、報告を受けた瞬間に跳ね起き、衣服を整え、第四龍鱗軍の本部に向かうべきだ。だが、いまはそれよりも追求しなければならないことがあった。

 サイは、レナの肢体が黒い装束に包まれていくのを見ながら、視線を鋭くした。そんなことをしても、彼女にはなんの意味もない。そんなことはわかっているのだが、睨まずにはいられない。

「騙していたのか?」

「サイ様がそう思われるのなら、そういうことなのでしょう」

 女は、取り合おうともしない。薄く、笑っている。

 サイは、ようやく、目の前の女がただの情報屋ではないということに気づきはじめていた。愕然と、己の失態を認める。なにもかも自分の責任だ。彼女を重用し、信頼してしまったのは、すべてサイの判断によるものだ。他人の意志はなにひとつ介在していない。ドリス=ミゲルの紹介ではあったものの、彼女を信用し、使ったのは、ほかならぬサイ個人の意志なのだ。

「ジベルが攻めてきたぞ」

「気が変わったのでしょう」

 レナはそういったが、気が変わったからといって即座に戦備を整えられるはずもない。整えられたとして、軍を動かすのは簡単なことではない。ただ敵地に攻めこむことが戦争ではないのだ。長期的な戦略を建てる必要がある。ジベルはずっと前からスマアダを攻撃する準備をしていて、その後のことも考えていたに違いない。ザルワーンの注意がガンディア軍に集中しているいまが好機と見たのだ。だから、攻めこんできた。

 しかし、ただ攻めこむだけではジベルの軍も損害を被る。そこで、スマアダの防衛戦力を減らす算段を建てた。

 それが、第四龍鱗軍の分断。

「……ナグラシアの防備が薄いという情報も、嘘か」

 サイは、レナ=ベイジーの情報を信用し、ナグラシアの奪還を決意した。二日前のことだ。軍議においては大きな反発もなく、彼の策は採用された。ナグラシア奪還部隊は、指揮官に副将ゲイリー=ドークンを据え、彼の選び抜いた精鋭を中心とする五百人からなる部隊であり、第四龍鱗軍の全戦力の半数を投入したことになる。

 それもこれも、レナの情報を信じたからこそできた芸当だった。ナグラシアの奪還のためにスマアダの防衛が疎かになることがあっては本末転倒も甚だしいのだが、彼女の情報ではベレルもジベルもスマアダへの興味を失っており、いまが好機だと思えたのだ。しかも、レナ曰く、ナグラシアの防備は薄く、五百人程度の戦力でも制圧できるだろうという。

 だからこそ、サイは奪還部隊を結成し、派遣したのだ。ナグラシアの奪還に成功すれば、ザルワーンの勝利に貢献すること間違いない。補給線を断ち切られたガンディア軍は長期戦になればなるほど不利になり、先細り、破滅を迎える。そしてザルワーンが勝ち、サイの名も讃えられる。

 欲に目が眩んだ、ということかもしれない。

「運が、良かったのです」

「なに?」

 黒い装束を着込んだレナが、横目でこちらを見てきた。異彩を放つ瞳が妙に綺麗で、彼は呼吸を忘れた。

「半年前、わたしはサイ様と接触することができました。それから半年、サイ様がわたしを信用してくださるようになり、ガンディア軍が攻め寄せてきました。ガンディアの行動はまったく予測できなかったことではありますが、おかげで、わたしは使命を果たせたのです」

「使命……」

 彼女の言葉を反芻するようにつぶやく。半ば惚けていたのは、レナ=ベイジーの容貌がいつになく美しく見えたからだ。それが本来の彼女なのかもしれないと思ったのも束の間、レナが、懐から取り出した仮面で顔を隠す。

 虎の顔を模した仮面を身につけた途端、彼女の纏う空気が変わった。いや、室内の空気そのものが張り詰め、緊迫感を帯びたのだ。仮面の奥の目が、異様に輝いているように見えた。

 サイは、彼女を注視したまま、枕元に手を伸ばした。彼女はサイを殺すつもりらしい。

「あなたの語る夢は、必ずしも悪いものではなかったわ」

 仮面の女が両腕を振ると、袖の中からなにかが出てくる。彼女はそれを掴むと、寄越すように投げてくる。気軽な動作だ。こういう状況でなければ避けようとも思わなかったかもしれない。

 サイは右に転がるようにして寝台から落ちてそれをかわし、同時に、左手で掴んでいたものを掲げた。枕元に潜ませていたのは愛用の広刃剣ブロードソードである。翼将という立場上、寝ている時でも油断はできない。寝込みを襲われることだって十分にありうる。

(いまのように……!)

 サイは、鞘から剣を抜くと、柄を両手で握った。構え、敵を見る。相手は、こちらの反応の早さに素直に感心しているようだった。しかし、両手には先ほどと同じものが握られている。戦輪と呼ばれる投擲武器だろう。寝台を見ればその威力もわかるものだが、いま彼女から目を離せば殺されるのは間違いなかった。

「ジベルの人間だったのか?」

 問いかけたのは、確認のためでしかない。ほかに考えられる国もなかった。ベレルの工作員がジベルの戦力を引き入れるための行動を起こすとは思えない。同様に、ガンディアの手のものでもあるまい。ガンディアならば、むしろジベルの動きを警戒してくれていたほうがいいだろう。スマアダから軍を一歩も動かさず、沈黙してくれていたほうがありがたいと考えるはずだ。

「それ以外になんだと?」

「ずっと、裏切っていたんだな」

「裏切る? あなたが騙されただけでしょう」

 女は一笑に付した。サイは歯噛みした。返す言葉もないとはこのことだ。女が右腕を振るう。彼は右に転がるようにして避けた。戦輪が木の壁を抉る。薄闇の中、飛来してくる物体を剣で叩き落とすほどの腕前は、サイにはない。続けざまに飛来した戦輪は後ろに飛んでかわすが、これでは攻撃する隙が掴めない。避け続けるにも限度がある。なんとしても間合いを縮め、懐に飛び込む必要がある。

「サイ様! どうされました!?」

 扉の外からの叫び声に、サイは安堵を覚えた。物音の異常さに気づいてくれたのだろう。室外に待機しているのは、彼に報告に来た兵士だけではないはずだ。翼将からの下命を待つ部隊長たちが、部下を従えて待ってくれているはずだ。一部は階下にいるだろうが、そのうちの半数でも加勢してくれれば、こんな女ひとりに負けることはない。

「敵に寝込みを襲われている」

「加勢しますか!?」

「当たり前だ! 馬鹿者!」

 兵士を怒鳴りつけたのは、部隊長のひとりだ。扉を蹴破るように開き、魔晶灯の光とともに室内に飛び込んでくる。サイは自分の格好を気にする暇もないが、下は身につけているのだ。問題はなかった。全裸であっても、問題があるというわけでもないが。

 ぞろぞろと室内に入ってきたのは、武装した兵士が十人程度。二名の部隊長がサイの前方に進み出る。ひとりがこちらを一瞥した。

「ここは我らにお任せを」

「頼んだ。事情は後で話す」

「はっ」

 サイは、レナ=ベイジーの様子を窺いながら、鞘を拾い、後ろに下がった。仮面の奥の瞳は、こちらを凝視しているようだったが、戦輪を投げつけてくるという気配さえない。といって、部下たちの乱入に戸惑っているという風でもなかった。余裕があるのかもしれない。

「どこへ行くというのです? 逃げ場などないというのに」

 レナ=ベイジーの甘い声は、夜の出来事を思い出させるが、彼は黙殺した。彼女の肉体を覆う黒衣は闇に溶けるかのようで、輪郭が判然としない。まるで闇の眷属のようだと思わないではない。しかし、彼女は歴とした人間の女だ。ほかの女となにひとつ違わないはずだ。

「もう、遅いのです」

 サイは、またしてもレナの言葉を無視した。彼女の対処を部下に任せた以上、もはや気にする必要はない。室外へ退避した彼は、すぐさま剣を鞘に収め、廊下を走った。邸内には魔晶灯の光が満ちている。知らせに来た兵士たちが点けてくれたのか、はたまた、家人が気を利かせたのか。どちらにせよ、道を急ぐサイにはありがたいことだった。

 別室に向かう最中、窓の外が妙に明るいことに気づいた。夜明け前。スマアダの街はまだ闇に包まれているはずだった。街灯の明るさではない。

「なんだ?」

 サイは、窓を開け、身を乗り出して、愕然とした。

 街の一角が盛大に炎上していたのだ。


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