第二千八百三十八話 大いなる烙印(二)
「そういうことは口に出さないほうがよろしいかと」
従者のひとりがいった。龍府からリノンクレアとともにネア・ガンディオンに連れてこられたものたちは、だれもが肩身の狭さに辟易としていた。それはそうだろう。ここ神皇宮は、人間の住む場所ではない。ほとんどすべてが人外ばかりだ。神々、神将、獅徒――いずれもが人間を超越した存在であり、ただの人間であるリノンクレアたちとは、とてもではないが理解し合えるものではない。
この宮殿で生活している純粋な人間など、数えるほどしかいないのだ。
ナージュとその従者たちに、リノンクレアと同行者たちだ。それ以外は、ほとんど全員が人外だった。もちろん、神皇宮の外には、人間もいる。聖兵や聖将と呼ばれるものたちもいれば、この神の都に住む一般市民も存在し、日々、生活を謳歌している。そういった市井の様子については、ネア・ガンディオンを訪れたときに見せつけられている。レオンガンドが、リノンクレアやナージュに、ここには普通の人間も住んでいるということを主張したかったのだろう。
だが、リノンクレアにとっては逆効果だった。感銘を受けるどころか、余計に気味悪く想えてならなかったのだ。そもそも、リノンクレアは、ネア・ガンディアを信用してはいない。頂点に立つ獅子神皇は、レオンガンドそのひとだ。その事実は認めるしかない。どこからどうみてもレオンガンドだったし、彼女がよく知る兄そのものだった。だからこそ解せないし、納得できないのだ。なぜ、レオンガンドが神々の王などと名乗り、実際に神々を支配することができているのか。
それがまったくわからない。
ちなみにだが、ナージュの従者とは、侍女たちであり、ナージュの身の回りの世話をさせるため、レオンガンドが連れて行くことにしたのだろう。さすがの神々の王も、みずからの妃の世話には、人外を使いたくなかったらしい。
そこも、レオンガンドのレオンガンドたる所以だろうか。
「だれが聞き耳を立てているのか、わかったものではありません」
「気にするな。ただの感想だ。ひとひとりの感想にいちいち目くじらを立てているようでは、神の都などとはいえまいよ」
とはいったものの、実際には、神々の目や耳がそこら中に隠れていることには気づいていたし、気にしてはいるつもりだった。とはいえ、彼女の一言が神々の耳に届き、レオンガンドの耳に入るようなことがあったとして、レオンガンドが気にするとは思えない。少なくとも、彼女の知っているレオンガンドならば、一笑に付すだけだろう。それがナージュを悪し様に言うものであれば、話は別かもしれないが、彼女が義姉を悪くいう理屈はない。
「はっはっは」
大地が震えるような笑い声は、部屋の出入り口から聞こえてきた。
「これはこれは姫様らしい剛毅なものいいでございますな」
両開きの大扉を潜り抜けてきたのは、真っ白な巨漢だった。頭髪から顔色、身に纏うものまで真っ白で、それだけで浮き世離れしているとしかいいようのない人物だ。だが、その容貌には見覚えがあるどころの話ではない。彼女が生まれたときには、既にガンディアの宿将として名の通った人物だった。そして、彼女にとっては、ある種の憧れを抱かざるを得ない人物でもあったのだ。
ガンディアの王を支え続ける道こそ、彼女が熱望した道だった。
しかしそれは彼女の立場が許さなかった。性別は、関係がない。いやむしろ、女に生まれたのはまだましだったというべきかもしれない。もし男として、王子として生まれていれば、愚物を装ったレオンガンドとの後継者争いが激化し、後戻りの出来ないくらいに深刻化した可能性がある。
女として生まれたからこその結果が、いまここにあるのではないか。
そういう意味でも、感謝しなければなるまい。
とはいえ、だ。
挨拶もなければ返事も待たずに部屋の扉を開けて入ってくるなど、不躾にも程がある。ガンディア時代ならば、そのようなことをすれば即座に重い処罰がくだされただろうが、ここは、ネア・ガンディアだ。統治者の側にいるのは、リノンクレアではなく、相手だった。
「……ナルドラス卿」
「アルガザードと、以前のように呼んでくださって構いませんぞ」
とは、いってきたものの、リノンクレアは、彼の意見を聞き入れなかった。むしろ、徹底して、その名を口にする。
「ナルドラス卿」
それが、彼のいまの名だ。神将ナルドラス。神将ナルガレス、神将ナルフォルンとともに獅子神皇の腹心たる神将の座にあり、ネア・ガンディアの軍事の一切を取り仕切っているという。神々も、彼らには頭が上がらないといい、それだけで彼らの立場の高さ、権力の強さが窺い知れるだろう。ただし、獅徒と呼ばれるものたちだけは特別であり、神将も獅徒を自由に動かすことはできないということだ。
様々な情報を総合した結果、獅徒とは、かつての《獅子の尾》を始めとする王立親衛隊と同じ立ち位置の存在と考えていいようだった。
そして、そのことから想うのは、レオンガンドが、ネア・ガンディアを新たなガンディアとして立ち上げたのだろうという事実だ。
神々の王たるものの力をもって、まず真っ先に行ったのが、亡びた国の再興というのは、いかにも彼らしいというべきなのか、どうか。
いずれにせよ、リノンクレアは、彼を以前の名で呼びたくはなかった。それは、記憶の中の彼への冒涜のように想えてならないからだ。防戦においては並ぶものなく、ガンディアの宿将として名を馳せた彼の記憶を白く濁らせていいはずもない。燦然と輝き続けるべきだ。
「立ち聞きが趣味とは感心しませんよ。ルウファが聞けば哀しみましょう」
「ルウファならばむしろ喜ぶやもしれませんぞ」
ナルドラスは、朗らかに笑う。
「あれは、根は真面目ですが、軽い部分もありますからな」
ナルドラスの言動や仕草を見ていると、どうしても、過去の記憶が思い起こされて、リノンクレアは沈黙せざるを得なかった。
ナルドラスは、彼が名乗ったようにガンディアの大将軍アルガザード・バロル=バルガザールそのひとなのだ。だが、彼であって彼でないのは、その姿を見れば一目瞭然だ。白く濁ったその姿は、神人や神獣と呼ばれるものたちと変わらない。つまり、白化症に毒されたものの末路であり、成れの果てなのだ。
しかし、ナルドラスには確かに自我があり、意思があるというのが解せない。神人や神獣といった怪物たちには自我はなく、破壊と殺戮を繰り返す災害そのものだという。セツナたちの話を聞く限りはそうであり、セツナたちがリノンクレアを騙すはずもない。ということはつまり、彼は、神人とは異なる存在だということになるのではないか。
神将という呼び名も、その特別性を示すためのものなのかもしれない。もちろん、軍を率いる将としての意味もあるのだろうが。
「……それで、ナルドラス卿は、わたくしめになにようですか? 世間話をしにきたわけでもありますまい」
「姫様。そのように構えられるのもわからなくもないですが、そろそろ、わたくしどもを信用して頂きたいものですな」
「信用?」
「はい。我々は、ガンディア再興のため、いえ、この新生ガンディアのためにこそ、ここにあるのです。ガンディアは、新生せど、頂点に戴くはガンディア王家の方々でなければなりませぬ。リノンクレア様も、そのおひとりなのですぞ」
ナルドラスは、リノンクレアの頭ほどもある拳を握り締め、力説した。
彼の声音からは、嘘の響きはなかった。




