第二千八百三十七話 大いなる烙印(一)
神皇宮は、静謐に包まれている。
この最大最高の勢力といっても過言ではないネア・ガンディア、その中心にして首都、神都ネア・ガンディオンの中枢に聳える獅子神皇が住まう宮殿。それが神皇宮であり、そこには獅子神皇に付き従う神将や神々、獅徒と呼ばれるものたちが主君の号令を待ちわびるようにして暮らしている。
荘厳かつ壮麗、豪奢にして美麗なる宮殿は、ひとの手によって作られたものとは思えず、また、かつてこの地に存在した獅子王宮とも比べものにならない規模を誇っていた。建物全体の大きさから構造からなにもかもが比較しようがない。
それをいうならば、ネア・ガンディオン自体もそうだった。
名こそ、かつてのガンディア王都ガンディオンに由来しているものの、実際にはすべてが違った。
同心円を描いたかつての王都はもはや影も形も存在せず、神聖なる神の都がこの地にある想い出さえも上書きし、塗る潰すかのようにその存在を主張している。旧市街や新市街、群臣街の残り香さえ、漂ってはいない。鼻腔を通り抜けるのは、なんの匂いもない無味乾燥とした空気だけだ。
都市は、美しい。
広大で荘厳、神の都と呼ぶに相応しい作りをしている。
そこに済むひとびとも数多にいて、日々、生活を謳歌している。
街を歩けば、獅子神皇万歳、ネア・ガンディア万歳という声を聞かないことはないというくらいには、ネア・ガンディアの臣民は、この国の王とこの国そのものに傾倒し、忠誠さえ誓っているようだった。ごく普通のひとびと。神人や神獣のように白化症に侵されているわけでもなければ、聖兵たちのように神の加護を受けているわけでもない、ただの一般市民たち。彼らはただ、獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアに従えば、それだけで栄光と安息に満ちた未来が約束されると想っているのだ。この混沌たる時代に救いの手を差し伸べるものがいて、そのものが絶対的な力を示したとあらば、そうなるのも無理からぬことだろう。
それはある種の信仰であり、神々の王は、まさに神そのものの如く崇め奉られているのだ。
だから、かもしれない。
彼らからは、生きた人間のにおいがしなかった。
思考さえも獅子神皇に預けた彼らは、ただ毎日を生きるだけの動物となんら変わらない。みずから考え、発言し、なにかしらの行動を起こそうとする人間は、ひとりとしていないようだった。
「まるで死者の都だな」
リノンクレアは、憮然とつぶやく。彼女と従者しかいない部屋は、ただただ広く、故に余計なまでの孤独感、疎外感を禁じ得ない。まるで部外者のようだが、そのような扱いを受けるのも無理のないことだ。彼女は、レオンガンドの妹というだけで、ここにいる。
龍府のガンディア仮政府がネア・ガンディアに事実上全面降伏したことで、仮政府が保持していた権限のすべてがネア・ガンディアのものとなった。龍府を始め、ザルワーン島の仮政府領土が召し上げられただけでなく、人材もほとんどすべてがネア・ガンディアに取り上げられたのだ。ただし、すべてが即時即刻、ネア・ガンディアに取り上げられたというわけではない。
なにごとにも順序があり、準備が必要だ。ネア・ガンディアとて、国であり、政府がある。ということはつまり、相応に事務的な処理が発生するものだ。なにもかもその場の勢いでやっていては、国の運営などできるわけもない。
ネア・ガンディアの主は、かつて大国への道を歩んでいたガンディアの国王そのひとなのだ。レオンガンドは、そういった機微がよくわかっている。
レオンガンドがグレイシアを龍府に置いたままにしたのも、そういった機微のひとつだろう。“大破壊”以前から今日に至るまで、龍府の政治を取り仕切っていたのはだれあろうグレイシアなのだ。かつては政治に関わることを極端に恐れ、みずからの城に籠もっていた彼女の母は、“大破壊”という非常事態に直面したことで奮い立ち、リノンクレアやナージュたちが驚くほどの才智を見せ、龍府を纏め上げた。無論、それには白毛九尾の加護があったればこそだということは、いうまでもない。
龍府およびザルワーン島をネア・ガンディアの支配下に置きつつも、人民に混乱をもたらさず、すみやかに新たな秩序を形成するためには、グレイシアの指導者としての力を借りる方が得策である、と、レオンガンドは考えたようだ。実際、ザルワーン島は、ネア・ガンディアの大船団が去ったあと、混乱もなく、平穏を保っているという。それは、とりもなおさず、グレイシアがこの数年で築き上げた信頼と実績の賜物だろう。
その代わりといってはなんだが、仮政府の根幹に関わっていた多数の人材がネア・ガンディオンに連れて行かれることになり、リノンクレアは、みずからその一員に名乗りを上げた。グレイシアやセイル=アバード、ミレル=ラグナホルンらには引き留められたが、リノンクレアは、その気遣いには感謝しながらも、みずからの意思を押し通した。
レオンガンドに直接逢うためには、龍府に残っているわけにはいかない。
なにより、ナージュのことが心配だった。
ナージュは、レオンガンドの妃であり、リノンクレアにとっては義理の姉となる。レマニフラの王女であり、政略結婚によってガンディア国王レオンガンドに嫁いだ彼女は、政略結婚によってルシオン王子ハルベルクに嫁いだリノンクレアとは、似たもの同士といってよかった。違う部分があるとすれば、リノンクレアはハルベルクのことをよく知っていて、ナージュは、見知らぬ国の見知らぬ王の元に嫁がなければならなかったという点だろう。
それはともかくとして、リノンクレアは、誰に対しても分け隔てなく愛情と慈しみを注ぐナージュの精神性が好ましかったし、彼女ならばレオンガンドを任せられると確信し、故にすぐさま打ち解け、本当の姉妹のようだといわれるほど仲良くなれたのだ。
最終戦争以来のナージュのことを想えば、胸が痛む。
かつて、レオンガンドは、ガンディアという国を残すための最大限の努力をするといいながらも、王家の血を絶やさないための手を打った。それがナージュとレオナの龍府行きであり、龍府の地下に隠れ、最終戦争をやり過ごすことこそ、ガンディア王家の血筋を将来に繋ぐための方法だったのだ。リノンクレアも、グレイシアも、ナージュとともに龍府に送られ、そこで最終戦争の終結と世界の崩壊を迎えた。
ナージュは、レオナの成長だけを心の拠り所とし、懸命に生きていた。ともすればレオンガンドのことを考え、暗く沈んでしまう心をなんとか踏み止まらせることができたのは、ふたりの愛の結晶たるレオナの存在があったからだろう。レオナがまっすぐに育ち、いかにもガンディア王族らしく輝いていく様を見ているのは、教育係のリノンクレアとしても喜ばしいことだったし、レオナは、崩壊後の世界に光をもたらすものだと信じられた。
レオナ姫さえいれば、生きていける。
龍府のひとびとさえ、そう囁き合うほどだった。
ナージュにとってもそうだったはずだ。
だが、ナージュにとって本当の心の拠り所は、レオナではなかったのだ。
最愛の夫レオンガンドこそ、彼女のすべてだった。
寄る辺なき異郷の地において、常に彼女を支え、彼女の側にあろうとしたのがレオンガンドであるように、ナージュもまた、そんな彼の想い応えるべく在り続けた。ふたりは、心の底から愛し合っていたし、それは、ルシオンの王子妃だった彼女から見ても眩しいくらいだった。
レオナが生まれ、レオナの成長を心の支えにしながらも、その奥底では、レオンガンドとの再会を夢見、願い続けていたのだろう。
そして、その願いは叶った。
ナージュが歓喜のあまりレオンガンドに駆け寄り、瞬時にして魂すらも明け渡してしまうのは、必然だったのだ。




