第二千八百三十四話 夢より淡く、現実よりも確かなもの(二)
「あやつめ。禁を破りおったか……」
人間嫌いで知られたラムレスが人間の娘のため、竜王の禁を破り、命を捨てるなど、到底信じがたいことだ。だが、現実として、目の前の半人半竜がラムレスと同じ魂の波形をしているのだから、疑いようもない。ラムレシアはラムレスの後継者であり、その力や記憶、すべてを受け継いだ存在なのだろう。当然、竜王としての役割もだ。
「わたしを救うためだったのだ。叱責ならば、わたしにしてくれるとありがたい」
「叱責など」
彼女は苦笑するほかなかった。
「わしも同じよ」
「同じ?」
「人間のため、禁を破り、命を投げ捨てた。三界の竜王に、管理者にあるまじき行いじゃ」
もっとも、世界の管理者たるものとしての記憶が蘇ったのは、この度の転生後のことであり、当時は自分の存在意義すらあやふやだったのだが。それ故、セツナのために平然と命を投げ捨てることができた。いや、違う。
「じゃが、それでこそ、とも想う」
ラグナは、頭の上で寝そべっていたセツナがゆっくりと起き上がり、座り直すのを気配や体温で感じ取った。その一挙手一投足が愛おしく、好ましい。こうまで想うのは、やはり、彼との日々の記憶、積み重ねてきたものがあまりにも大きいからこそであり、ラムレスもそうだったに違いない。人間を毛嫌いしていた彼がなぜユフィーリアなる人間の娘にすべてを託したのか。
それは、彼がユフィーリアを愛していたからだ。
ラグナがセツナを愛し、そのために命を燃やせたように。
たとえ竜王としての記憶、管理者としての役割、禁を思い出していたとしても、ラグナは、セツナのためならば命を投げ捨てることも惜しまなかっただろう。
「世界を管理するためだけに生まれたのがわしらじゃ。それ以外に存在意義はなく、世界への干渉を行わなかった。そうあることがすべてだと想っていたからじゃな。じゃが、わしらとて、この世界の一部なのじゃと考えれば、干渉するのも悪くないのではないか、と、わしは想う」
「ラグナシア……」
「世界に悪しき影響を及ぼすようなことさえしなければ、な」
「……そうだな。それならば、竜王の道理をねじ曲げることにもならない、か……」
「いいや」
ラグナは、笑いながら否定した。すると、ラムレシアが虚を突かれたように瞬きする。
「え?」
「十分にねじ曲げておるわ。竜王の本来の在り様では、世界への非干渉こそが原則なのじゃからな」
「おまえなあ」
呆れたようなセツナの口調は、遠い記憶を呼び覚ますように懐かしい。ラグナは何度彼を呆れさせたものか。思い出すだけで数え切れないくらいある。
「ふふん。それでよいのじゃ。竜王の役割も、世界とともに移り変わる。それでよいではないか。この世に不変のものなどあろうものか」
三界の竜王とて、不変の存在ではない。そもそもが命あるものであり、命が尽きことも、死ぬこともある以上、不変の存在たり得ないのだ。変化の中で生き、死に、転生する。それが三界の竜王であり、生まれ変わるたび、多少異なる姿になるのもまた、変化の象徴といえるだろう。ならば、と、ラグナは考える。
「わしらとて、変化の連続ぞ。生まれてより今日まで、同じだったか?」
「いや……」
「じゃろう。わしらの在り様が変化しようとも、世界が滅びず、存続するのであれば、それで十分じゃ」
「……そうか。そうかもしれないな」
ラムレシアは、少し考え込んだ末、納得したようだった。
「ま、ラグナはこういうやつだからな。話半分に受け取るといい」
「なんじゃと! おぬしにわしのなにがわかるというのじゃ!」
「そうだなあ。こうされるのが好きだ、とか」
「む……むむう」
ラグナが反論に窮したのは、セツナに撫でられることの心地よさには勝てないからだ。それこそ、ラグナにとっての明確な弱点といっていいだろう。最初にセツナが撫でてくれたとき、ラグナは初めて、ひとの手の感触というものを知った。優しく、柔らかで、慈しみに満ちた温もり。そうして撫でられることに喜びを見出したラグナは、ことあるごとにセツナに求め、セツナは、どんなときでも応えてくれたものだ。たとえ疲れ切っていても、だ。
そんなセツナの優しさを知っているから、ラグナは彼を心の底から愛した。
「いままでひとりにして、ごめんな。もっと早く迎えに来られたら、どれほど良かったか」
またしても謝ってきたセツナの心遣いが、ラグナにはなんともいえず、嬉しかった。言葉にしなくとも、彼の気持ちはわかる。
「……よいのじゃ。こうして迎えに来てくれたのじゃからな。どれだけ時間がかかろうと気にはせぬ。セツナよ。わしはこうしておぬしの魂を肌で感じられるだけで幸せなのじゃ」
「ラグナ……」
セツナがラグナの額を撫でながらつぶやく。その声音に込められた様々な感情が手のひらを通して伝わってくるようだった。
彼は、後悔と苦悩を抱えて今日まで生きてきたのだろう。自分のためにラグナが命を捨てたことを苦しみ続けてきたのだ。その苦痛が、この再会によって少しでも薄まり、消えてなくなることをラグナは願う。転生竜にとっての死は、たいしたものではない。死とは肉体の消滅であり、魂は存続し続けるからだ。力を得れば、また肉体を得ることもできる。故に、セツナがあのときのことで苦しむ必要はないし、痛みを感じて欲しくもなかった。それではまるで、ラグナが彼を苦しめていることになりかねない。
とはいえ、ラグナがそれを口にしたところで、セツナは素直に受け取り、心の在り様を変化させたりはしまい。そのような器用な人間ならば、もっと昔に割り切れていたはずだ。それができないからこそ、苦しんでいる。
ラグナは、そんなセツナが愛おしくてたまらなかった。彼を抱きしめ、慰めてやりたいと想うのだが、いかんせん、この巨体でそんなことをすれば、彼は間違いなく潰れてしまうだろう。彼の役に立つために得た強大な力は、こういうとき、邪魔になる。これでは、セツナと戯れることもできない。
そんなことを考えていると、セツナが口を開いた。
「そうだ、ラグナ」
「なんじゃ?」
「ファリアたちも一緒だぞ」
「なんじゃと!?」
ラグナは思わず素っ頓狂な声になるのを自覚した。が、仕方のないことだ。まさか、セツナ以外にも一緒に来ているとは考えてもいなかった。セツナ以外、眼中になかった、というべきか。
「ファリアもルウファもミリュウもレムもシーラもエリナも、皆一緒におまえを迎えに来たんだ。あの船でな」
セツナがどう指し示したのかはわからないものの、ラグナは、光の翼を羽撃かせながら接近してくる船の存在に気づいた。それは、つい今し方、ラグナが撃沈した数十隻の船と似ているが、感じる気配はまったく異なるものだった。敵意がないのだ。極めて友好的な気配は、野放図とさえいっていいくらいだった。そして、その気配の中に記憶と合致するものが数多にあり、ラグナは震えるような想いで船を見つめた。
奇妙な船だ。しかし、その船が見知った気配を運んでくるという事実を鑑みれば、歓迎するほかない。
ラグナは、船が目線の高さにまで降りてくるのを見ていた。そして、その船の甲板、半透明の壁のようなものに覆われた空間に懐かしい顔があった。
セツナのいうとおりだった。
ファリアは相変わらず美しく、ミリュウはいつものように活力に溢れ、レムの笑顔はいつになくあざやかで、シーラも笑っていた。エリナが両手を振ってくれていて、ルウファが嬉しそうにこちらを見ている。エスクのなんともいえない表情は、彼が苦手意識がそうさせるのだろう。ウルクが、ガンディア式の敬礼をしてくれていた。
ラグナは、喜びと興奮のあまり空を仰いで咆哮し、魔法の花を咲き乱れさせた。
これほど嬉しく、幸福なことはない。
彼女は、ただただむせび泣き、そのたびに魔法を炸裂させた。




