第二千八百三十三話 夢より淡く、現実よりも確かなもの(一)
「ところで、おぬしはなにものじゃ?」
ラグナが大口を開けて問いかけたのは、セツナが撫でることにも疲れ果て、いまや彼女の頭の上に乗って休憩すると言い出してからのことだ。それではまるでかつての自分のようだと彼女が笑うと、セツナは、その比じゃないと苦笑をもらした。
実際、セツナの頭頂部を覆い隠せるほどの大きさもなかったのが、かつての小飛竜態のラグナだが、彼女の頭に寝そべるセツナは、そのときのラグナと同じほどの面積を覆えてもいなかった。
その間も、ラグナとセツナのやり取りをじっと見つめるものがいて、それに関してはセツナに撫でてもらっている最中も気にかかってはいた。しかしながら、セツナの召喚武装が生み出す巨大な闇の掌の感触は、セツナの手で撫でられているのとまったく同じであり、セツナの体温さえも感じ取れるほどのものだったがため、ラグナは、なにもいわず見つめてくる竜ともひとともつかない存在について、疑問の声を発することもなかった。
幸福感が、すべてに優先する。
それは致し方のないことだ、と、彼女は胸中でだれとはなしに弁明した。
長年、待ちわびていた。
死し、肉体を失ってからつぎの肉体を得るまでの間、意識がなかったかというと、そうではない。魂だけの存在となってこの世界を巡っていたのだ。当然、自我があり、意識もある。ないのは力であり、肉体であり、現世に干渉することもできなかった。そして、みずからの意思で動き回ることも許されないということも、大きい。世界を巡る力の流れ、その流動的な波に乗って、イルス・ヴァレの各地をさ迷うしかなかったのだ。もし、自分の意思、自分の力で行き先を決めることができたのであれば、彼女は迷うことなくセツナの側にあり、彼を見守り続けただろう。そしてそれは、復活の近道でもあったはずだ。なぜならば、セツナの魂の波長は、彼女にとって極めて心地いいものであり、彼の力は、彼女の魔力へと変換できたからだ。セツナは、闘争の中に身を置いていた。彼の側に在り続けることができていれば、闘争の際に生じたであろう大量の力を吸い、己が魔力とし、肉体を得、復活を果たしただろうことは疑いようはない。
だが、実際にはそうはならなかった。
世界を巡り、力を集め、復活のときを待ち続けなければならなかった。
そのときの孤独感たるや、彼女がいままで味わったこともない種類の苦痛であり、哀しみであり、絶望に近いものだった。
ラグナシア=エルム・ドラースは、孤高の存在だ。
眷属とともに暮らすラングウィン=シルフェ・ドラースや、眷属を付き従えるラムレス=サイファ・ドラースと比べると、彼女は、眷属と定めた竜属たちと距離を取り、世界を放浪する癖があった。一所に留まることを知らない彼女は、それでも十分だった。寂しさなど感じたこともない。元より孤高の存在であるが故、なにをもって寂しいのか、なにをもって孤独なのか、その基準がわからなかったからだろう。
それが、セツナたちを知ってしまったがために、セツナたちと触れ合う喜びを覚えてしまったが故に、孤高の存在ではいられなくなってしまったのだ。
ひとりは、寂しい。
その事実を知り、初めて、彼女は、ラングウィンやラムレスが群れる理由、意味を理解した。竜王たちもまた、孤独を恐れていたのではないか。だから、眷属たちとともに生きていたのではないか。
ラグナは、寂しさの中で叫びたくなった。
何度も、何度もだ。
魂だけの存在となり、ただ復活のときを待つ日々は、世界に干渉することも、眷属たちに働きかけることもできない、孤独な時間だった。ただセツナたちのことを想い、セツナたちとの日々を脳裏に描くことだけで、寂しさに震える心を慰めた。特にセツナの手の温もりを思い出す、その瞬間だけは、寂しさを忘れることが出来た。
だから、なのだ。
世界を破壊し尽くすほどの力を吸収し、その力でもって新たな肉体を作り上げたラグナは、復活の地に留まることを選択した。
なぜか。
ラグナがその身に溢れる力を以てすれば、変わり果てた世界を飛び回り、セツナを探し回ることも容易だった。いや、探し回る必要もない。セツナの気配を探知することさえ、不可能ではなかった。それほどまでの力を手に入れた以上、わざわざ待っている必要などなかったのだ。しかし、彼女はこの地に留まり、寝床を作り、夢を見るようになった。
この世にセツナの気配がなかったからだ。
世界にセツナがいない。その理由はわからない。なんらかの力でイルス・ヴァレとは異なる世界に消えたのか、それとも、世界を破壊し尽くした力に飲まれ、命を落としたのか。いずれにせよ、この世界にいないセツナを探し回ることに力を費やすよりも、ここに留まり、力を蓄え続けるほうが有意義だと彼女は考えたのだ。セツナは、約束した。約束した以上、そのために命を懸けて行動するのがセツナという人間だ。ならば、彼女は彼が迎えに来てくれることを信じ、待てばいい。そして、再会した暁には、以前とは比較にもならないほどの力を得た自分の力をセツナのために費やそう。
そうして、ラグナは夢の楽園に溺れた。
惰眠を貪り、夢を見続けた。
セツナたちの夢。
それこそ、至上の幸福だと、想っていた。
だが、違った。
彼女は、自分の頭の上に寝そべる人間の、その体温に目を細める。セツナは、召喚武装もすべて送還した状態で、ラグナの頭上に寝そべっている。それはさながら、かつてセツナの頭の上を自分の居場所と定めた彼女自身のようであり、ラグナはそれがおかしくて仕方がなかった。なにからなにまで逆転している。
(違うな)
ラグナは、胸中で否定する。
なにも逆転してはいない。
セツナに恋い焦がれているのは自分であり、だからこそ、心底嬉しいのだ。
かつてとは、違う。
かつてのラグナは、小飛竜であり、セツナにとっては護るべき対象に等しかった。竜語魔法こそセツナの役に立ってはいただろうが、それ以外に役に立ったためしがない。しかし、これからは違う。平時であれ、戦時であれ、ラグナはセツナの大いなる助けとなれるだろう。そして、もっともっと褒めてもらえるのだ。そのことを想うだけで、彼女は幸福感のあまり、頭上の存在のことを忘れそうになった。
見れば見るほど不思議な存在だった。
外見は、人間と竜、その特性を併せ持っているように見える。人間の体を基本とし、角や翼を生やし、体の一部が鱗に覆われている。人間ではないが、竜属とも言い切れない、そんな微妙な存在。ラグナはかつて人間に変身したことがあるが、それとはまったく異なるものだ。竜が人間に変身するのであれば、このような中途半端な姿にはなるまい。
ただひとつ、ラグナには、わかることがあった。
「ラムレスに似ておるのう」
ラグナが告げると、半人半竜の女は、虚を突かれたような顔をした。
「似ている? わたしがか?」
「うむ。そっくりじゃ」
そっくりなのは、もちろん、外見などではない。魂の波形、力の形がラムレス=サイファ・ドラースとまったく同じだったのだ。しかしながら、半人半竜の女がラムレスの人間態とは想いがたい。人間嫌いのラムレスが人間態になることそのものが万にひとつもあり得ない上、仮に人間態になったとしても、男の姿を取るだろうし、半端な姿にもならないだろう。ラグナのように完璧な人間に変身するはずだ。
つまり、目の前の半竜半人がラムレスと同じ波形をしている理由は、皆目見当もつかないということだ。
「……嬉しい」
「むう?」
「そういわれたのは、これで二度目だ」
「一度目は、ラングウィンにでもいわれたか」
「よくわかったな」
「ラムレスのことをよく知るのは、わしかラングウィンくらいじゃ」
「ああ……そうだな」
女は、厳かにうなずく。その立ち居振る舞いにラムレスの片鱗が見えた。似ているのは、魂の波形だけではないようだ。
「わたしは、ラムレシア=ユーファ・ドラース。三界の竜王が一翼として、認識してもらおう」
「……ふむ」
ラグナは、蒼白衣の狂女王という女の名乗りによって、すべてを理解した。
つまり彼女は、ラムレスの後継者だということだ。




