第二千八百三十二話 緑衣を纏い、女皇は踊る
ラグナの喜びに満ちた声は、セツナの心にようやく安堵をもたらしていた。
ラグナのことは、長年、心の奥底にあって、暗い影を落としていた。ラグナの死によって救われた命だ。ラグナが転生竜であり、滅びとは無縁の、死すら超克する存在であるということが頭では理解できていても、だからといって割り切れるものではない。ラグナは、セツナにとっての大切な存在の一員だった。ファリアやミリュウたちと同じなのだ。
幸福にしたい相手が、自分のために不幸な目に遭うなど、とても耐え難いことだった。
それがいま、目の前で幸福そうに目を閉じ、セツナに甘えてきている。暗い影が、音もなく薄れていく。完全に消え去ることはなくとも、生きているラグナがそれ以上に強烈な存在感を放つのだから、なんの問題もない。
不意にラグナが瞼を開き、こちらを見た。セツナは、ラグナの視界にあって、“闇撫”でもって彼女の巨躯を撫でてやっていたのだ。セツナの手では彼女の巨躯に対しあまりに小さすぎ、撫でてあげることすらできない。
《のう……セツナよ》
「ん?」
《わしは少々大きくなりすぎたような気がするのじゃが》
「そうだな」
セツナは、笑うほかなかった。少々どころの話ではない。山脈のように巨大なラングウィンですら度肝を抜かれるほどだというのに、ラグナのそれは、ラングウィンすら比較対象にならないくらいに巨大なのだ。極大といっていい。セツナが豆粒になり、ウルクナクト号すら容易く一呑みできるくらいだ。とても、少々大きくなったで済むような話ではない。だから、セツナも“闇撫”に頼らなければ、彼女を撫でてあげることもできないのだ。
《これではおぬしの頭に乗れぬ》
「乗りたいのかよ」
《わしの寝床じゃからのう》
「俺の頭の上はおまえのものか」
《うむ!》
平然と言い切ってくるラグナに、セツナはあきれるほかなかったが、同時に懐かしさに頬が緩んだ。ラグナといえば、こうだ。こうでなくてはならない。そんな気分が湧いてくる。ラグナとこんな風な馬鹿げたやり取りばかりをしていた頃を想いだす。そんな他愛のない会話にこそ、親愛の情が生まれるものなのかもしれない。
実際、ラグナの願望が反映されていたのだろう夢の光景には、そういった他愛のないものも多数存在した。ただの触れ合いが、ラグナにとって忘れ得ぬ、大切な記憶となったのかもしれない。
何億年以上も生きてきた竜王にとってしてみれば、ごくごくわずかばかりの時間のはずだ。それこそ、刹那といってもいいくらい短い時間だっただろう。なのに、彼女にとっては、そのわずかばかりの日々こそ、いまもなお夢に見るような日々だったのだ。
セツナの頭の上でふんぞり返っているような日々こそ、彼女の幸福だったのだ。
《しかしいまは、この姿のほうが良さそうじゃな》
ラグナが落胆を隠さずにつぶやいたのは、周囲を見回しながらだった。ラグナの視力は、その巨躯に見合うだけのものがあるに違いない。遙か彼方まで見渡すことができ、故に彼女もまた、それらを捉えたのだ。
「ああ」
セツナも、完全武装のおかげで全方位に突如として出現した無数の飛翔船を認識することができていた。全部で三十隻の飛翔船が、空間を引き裂くようにして現れたのだ。つまり、空間転移だろう。飛翔船に空間転移機能など存在しないものと想われていたが、どうやら、搭載された新型が建造されたようだ。それもおそらくここに現れた三十隻がすべてではあるまい。
ネア・ガンディアの開発力は、尋常ではないようだった。数多の神々が属し、それら神々を新兵器の開発や建造のための労力にしているのであれば、納得も行くことではあるが。
《まったく、わしとセツナの逢瀬を邪魔するとは、不埒な奴らめ》
ラグナは怒り心頭といった様子だったが、その怒り方は、眠りを妨げられたときよりは大人しい。セツナに撫でられたおかげで落ち着きを取り戻したからかもしれない。
「たぶん、あいつらだ」
《なにがじゃ?》
「俺と偽り、おまえを殺そうとした奴がいたんだろ? その仲間だよ、おそらくな」
《なんじゃと!》
「ネア・ガンディア。奴らはそう名乗っている」
《ガンディアじゃと……?》
「詳しい話は後だ。いまは、あの船を――」
どうにかしなければならない、そういおうとした瞬間だった。四方八方、全方位を遠巻きに取り囲む三十隻の飛翔船、そのすべての船首に光が奔った。神威砲による一斉砲撃。莫大な神威の光が轟音とともに押し寄せ、視界のみならず、世界を白く塗り潰す。セツナは咄嗟に防御障壁を展開し、さらに“闇撫”で全身を包み込んだが、はっとなった。これではラグナを護れない。
そう想った瞬間だった。
咆哮が、響き渡った。
先程の柔らかで幸福感に満ちたものとは違う、凄まじいまでの怒りに燃える咆哮。それはラグナの魔力を限りなく解き放ち、翡翠の光が世界を瞬く間に侵蝕する。そして、全方位から迫り来る神威の光と激突すると、それこそ世界そのものが震撼するほどの爆発が起きた。猛烈な衝撃が防御障壁越しに伝わってくるようだった。神威と竜の魔力の激突。そこに勝者はいない。つまり、互いに消滅したということであり、光が消えると、静寂の世界が戻ってくる。
「は……」
セツナは、あまりの出来事に絶句するほかなかった。
三十隻の飛翔船は、おそらく新型で、リョハンを包囲した飛翔船とは性能も大きく異なるようであり、神威砲の威力も違うのかもしれない。が、それにしたって、リョハンを滅ぼしかねない威力を誇るだろう、神威砲による一斉砲撃を消し飛ばしてしまうなど、とてもではないが考えられないことだった。
一瞬、思考が停止するのも無理からぬことであり、セツナは、神威と竜の魔力、その光が消えたあと、しばし茫然としていた。
そして、その間にラグナが吼え、全身が翡翠色の輝きを帯びていくと、その口腔から莫大な量の光が放出された。翡翠色の光の奔流は、大気を焼き尽くしながらまっすぐ突き進み、遙か遠方の飛翔船を貫いて見せる。神威砲を発射したばかりで防御障壁の展開が間に合わなかったからだろう。光の奔流は、途切れない。ラグナはそのまま首を回していくことで、つぎつぎと飛翔船を光の奔流で飲み込んでいく。
セツナは、ただただ唖然とするしかない。
その間にも飛翔船は破壊の奔流に飲まれ、撃墜されていく。
防御障壁を展開した飛翔船すらもだ。防御障壁ごと飲み込まれ、光の中で打ち砕かれる。
「はは……」
ラグナの怒りに任せた咆哮と竜語魔法は、瞬く間に無数の飛翔船を撃ち落としていき、気がつくと、セツナたちを包囲していた三十隻の飛翔船すべてが撃墜されていた。セツナの出る幕もなければ、ウルクナクト号が攻勢に出る暇もなかった。
ラグナの独壇場であり、三界の竜王ここにあり、とでもいわんばかりだとセツナは想った。
飛翔船が消滅すると、敵の気配も消えた。
神威砲を発射してきた以上、三十隻の船のいずれかには神が乗っていたはずだが、その神は戦況を不利と見て撤退したようだ。空間転移の残滓があった。
《わしとセツナの邪魔をするものには容赦はせぬ》
ラグナは、憤然と言い放つと、途端にこちらに目を向けた。もう戦いは終わった、さっさと撫でろ、とでもいっているような、そんなまなざしだった。
「……すげえな……」
セツナは、感嘆の声を漏らしながら防御障壁と“闇撫”による防御を解除すると、ラグナに手を伸ばした。巨大化した闇の掌で、ラグナの背や首筋を撫でる。それだけでラグナはとても心地よさそうな表情をする。その表情はまるで小動物のようだが、実際には、比べものにならないほどに巨大であり、なんとも不思議な気分だった。
「全盛期の竜王ならば、これくらいはできて当然だ」
と、頭上からラムレシアが降りてきながら、いった。
「ラムレシアも?」
「全盛期ならば、といっただろう。わたしもラングウィンも、全盛期とはいえない」
「へえ……」
もし、ラングウィンとラムレシアも全盛期の竜王の力を持っていたのであれば、それだけで様々な問題が解決したのではないか、と想わざるを得なかった。
全盛期の三界の竜王が力を合わせれば、ネア・ガンディアを滅ぼすことも難しくはないのではないか。
もっとも、三界の竜王が度々死に、転生を繰り返してきたらしいことを考えれば、そう簡単な話でもなさそうだが。
ともかくセツナは、ラグナを撫でながら、彼女との再会を喜んだ。




