第二千八百三十一話 夢見る竜は現に還る
蒼天に響き渡ったのは、怒りと殺意に満ちた咆哮ではなかった。
純粋なまでの喜びに満ちた大音声。そこにいままで感じられていた苛立ちや哀しみといった負の感情は一切なく、嬉しさと幸福感こそが充ち満ちていた。そして、その大声とともに巻き起こったのは、竜語魔法だ。ただし、これも先程までとは異なり、一切の攻撃能力を持たない魔法であり、彼女の心の在り様を素直に反映したもののようだった。
翡翠色の光の花が咲き乱れ、花弁が無数に舞い踊り、幾重にも世界を飾り、彩っていく。
極大飛竜と豆粒のような人間を取り囲むように乱舞する光は、ただただ美しく、夢のような光景といっても過言ではなかった。だが、これは現実だ。彼女がこれまで耽溺していた夢想などではない。故にこそ、ファリアもまた、得も言われぬ幸福感に包まれていた。
「ラグナ……目が覚めたみたいね」
ファリアがつぶやくと、ウルクナクト号の甲板は安堵で包まれた。セツナとラグナの激闘の成り行きを、だれもが肝を冷やしながら見守っていたのだから、それが収まったとなればそうもなろう。セツナを信じていなかったわけではないが、荒れ狂うラグナを見ていると、説得も困難に思えるのも当然だった。だが、セツナはそれを成し遂げ、いまやラグナとふたりきりの世界にいるようだった。
「良かったあ……」
「本当に……」
「魔法であんなことも出来るんだな……」
「御主人様との再会を心の底から喜んでいるようですね」
「先輩が目覚めてなによりです」
「まあ、さすがは天然女誑しの御大将、といったところですな」
「そういうことじゃないと思いますが」
皆がそれぞれに感想を述べる中、ファリアは、じっとラグナを見ていた。空中で丸くなる巨大竜の様子は、セツナに戯れる小飛竜をそのまま巨大化したようなものだろう。もっとも、その巨大さ故、セツナに甘えようにも甘えられないといった様子が見て取れ、ラグナはそこに歯がゆさを感じているのではないだろうか。昔のように甘えようとすれば、セツナを押し潰すだけだ。
『これで……当初の目的は達成したな』
マユリ神の通信に、はっとなる。
「はい。ラングウィン様も安心なされることでしょう」
『わたしも安心したぞ。三界の竜王たるものがこのような場所で夢を見続けていては、示しがつかん』
「どこの口がいうのかしら」
『なにかいったか?』
「いいえ、なにもいっていないから気にしないで頂戴」
『ふむ……』
ラムレシアの発言にいちいち突っかかるミリュウが気にかかったが、いまはそんなことを気にしている場合ではなかった。目的は果たした。あとは、ラグナを連れて“竜の庭”に戻るだけだ。それがラングウィンの頼みであり、ラングウィンはラグナとなにか話し合うつもりでいるらしい。
いや、三界の竜王を揃えることこそがラングウィンの考えなのではないか。
この世界の管理者たる三界の竜王の一翼が、世界の果てで終わらぬ夢を見続けているようでは、ラムレシアのいうように示しがつかない、と想っていたのだとしてもおかしくはない。あるいは、三界の竜王の力をもって、この混沌とした世界への干渉を強めるためか。
いずれにせよ、ラグナをラングウィンの元へ連れて行かなければならないのは間違いない。
「で、どうするの?」
「どうするって?」
「セツナとラグナのことよ。もう少し、放っておいてあげる?」
「そうね。ようやく再会できたんだもの。もうしばらく、ふたりだけにしておいてあげましょう」
「そうよねえ。あたしだって、そのほうが嬉しいもの」
ミリュウが本心から告げただろう言葉に、ファリアも心底同意したくなった。数年ぶりの再会は、ふたりきりでこそ味わいたかったし、そのまま何時間、何十時間でもふたりだけの空間にいたかったものだ。立場がそれを許さなかったものの、その後、セツナとふたりきりの時間を持てたのだから、文句はいうまいが。
なんにせよ、ラグナには、いましばらく、セツナに甘えさせてあげたかった。
ラグナがセツナと逢えなかった時間は、ファリアたちの比ではない。
ラグナは、セツナのために一度死んだのだ。ファリアたちにしてみれば、ラグナには感謝のしようがなかった。彼女が命を張ってくれたおかげでセツナが生きていて、いまもこうして触れ合うことが出来るのだ。もし、あのとき彼女がいてくれなければ、彼女が命を燃やしてくれなければ、いまこの瞬間すら訪れなかった。
ラグナには、感謝してもしきれない。
それは、ファリアのみならず、ミリュウやレム、シーラたちも想っていることだろう。だから、だれも不満を口にしなかったし、セツナに甘えるラグナの姿にかつてのやり取りを思い出して、嬉しそうに微笑んでいるのだ。ラグナは、だれからも愛されていた。
『そうしてやりたいのも山々だが……』
マユリ神の申し訳なさそうな声が通信器から聞こえて、ファリアはミリュウと顔を見合わせた。
「どうしたの? マユリん」
『敵だ』
「敵!?」
『ネア・ガンディアの飛翔船が三十隻、我々を包囲している』
淡々と告げてくるマユリ神だったが、その想わぬ報告にファリアたちは愕然とした。周囲の空中に映写光幕が現れ、無数の船が映し出される。それはまぎれもなく飛翔船であり、光り輝く翼を広げる船の数々は、確かにこちらを包囲しているようだった。
「はあ!?」
「三十隻!?」
「いつのまに!?」
「なんでいまのいままで気づかなかったのよ!?」
ミリュウがマユリ神の幻像に食ってかかると、マユリ神はなんともいえない顔をした。
『警戒を怠っていたわけではないぞ。いまのいままで、敵は影も形もなかった』
「じゃあなに、突然どこからともなく現れたってわけ!?」
『そういうことだ』
「はあ?」
「空間転移……?」
『うむ。ネア・ガンディアはついに船団を空間転移する手段を手に入れたということだろう』
「……でも、そうか。神様にとっては空間転移なんて朝飯前なわけで、神様の力を利用した船が空間転移するくらい、不思議でもなんでもなかったわけよね。それがいままでできなかったことのほうが不思議な気がしてきたわ」
『しかし、現実には飛翔船を空間転移することは難しいのだ』
「そうなの?」
『質量的に不可能ではないのだが……船の構造、なにかしらの機能が阻害している。おそらくは、転送装置だろう』
「転送装置……」
反芻するようにつぶやいて、ファリアは思い出した。かつて、リョハンに現れた飛翔船からその質量からは考えられないほどの敵戦力が放出されたことがあった。そのことから、船内に転送装置のようなものがあり、その転送装置を使って本拠地から大量の戦力を送り込んでいるのだという考察に至った。そしてそれは、ウルクナクト号の獲得後、存在が確認されている。
もっとも、ウルクナクト号の転送装置は、マユリ神によって破壊され、撤去されたが、それは、敵戦力が船内に送り込まれる可能性を考慮してのことだ。だが、その転送装置を撤去してもなお、船ごと空間転移するのは困難だということは、これまでの運用を鑑みればわかることだ。もし船ごと空間転移ができるのであれば、ザルワーン島での救出劇はもっと上手くいっただろうし、もっと多くのひとびとを乗せることもできたのではないか。
『ウルクナクト号と同型の飛翔船は見当たらないところを見れば、改良型、新型の飛翔船だろう。つまり、船ごと空間転移するための機能が搭載された飛翔船だということだ』
「逆をいえば、転送装置はなくなっている可能性もあるってこと?」
『空間転移を阻害しているなにかが排除されただけの可能性もあるがな』
「むう……」
『いずれにせよ、三十隻の飛翔船が相手だ。ラグナシアとセツナには悪いが、戦ってもらう』
「仕方がない……か」
ファリアは、マユリ神の考えに賛同するほかない事態にうめいた。
三十隻もの飛翔船に包囲されたとなれば、セツナに戦闘に参加してもらう以外に打開する方法はない。




