第二百八十二話 ガンディア方面軍第四軍団
「上手くいったのね……」
アレグリア=シーンは、部下からの報告を受けて、安堵の息を吐いた。スマアダから来襲した敵軍が、アレグリアの戦術の前に為す術もなく撃退されたというのだ。二百近い死体が南門前広場に残されたようだが、こちらは死者をひとりも出していなかった。負傷者は多少でたようだが、いずれも軽傷ではあるらしい。
完勝といっていいのだろうか。
アレグリアは、動悸を抑えるように胸に手を当てながら、作戦室内を見回した。副官のミルヴィが伝令や部下たちに指示を飛ばしている。彼女は、情報を整理するために動いているのだろう。アレグリアは、熱心に働く部下たちの様子を、まるで遠い世界の出来事のように眺めている自分に気づくのだが、どうすることもできない。
戦闘は、初めてではない。前線に出たこともあるし、敵兵を殺したことだって何度もある。軍団長という立場になる前は部隊長を務めていたのだ。戦場の熱狂を知らないわけではない。しかし、数えきれない戦闘経験が彼女の緊張を和らげてくれることはなかったのだ。慣れの問題、というわけではないらしい。
つくづく軍人には向いていないと思うのだが、かといって他に進むべき道があるわけでもない。そして、軍人としてやっていくことに不満もないし、この緊張を克服することができれば、明るい未来が切り開かれるのではないかという予感もある。
とはいえ、敵の襲来から続く不安と緊張は、アレグリアの精神を著しく消耗させていた。この程度の戦いで消耗するのだ。彼女が後方を任されるのもよくわかるというものだが、アレグリアはむしろその判断に感謝していた。ザルワーンの最前線にでていれば、どのような失態を演じたものかわかったものではない。
もちろん、副官のミルヴィや部下たちが補佐してくれる以上、彼女が緊張からくる愚かな失態を犯すということはなかったかもしれないが、後方で各地からの勝報を待っている方が気楽ではあった。補給線を維持し、本国との連絡を保つという大事な役割ではあるのだが、ナグラシアが戦場になることはないだろうというのが大方の予想だったのだ。
予想は外れ、ナグラシア市街は戦場になったものの、敵軍の素直過ぎる突撃行動のおかげで、アレグリアの思惑通りに撃退することに成功した。
自分の立案した作戦がうまくいくものかどうか、緊張のあまり、水も喉を通らなかった。どうせなら、マリア=スコールを作戦室に連れて来ればよかったと思ったものだが、あの軍医がアレグリアのためについてきてくれるとは思えなかった。強引に引っ張り出せばきてくれるだろうし、アレグリアのわがままにも付き合ってくれるかもしれないのだが、あとが怖いというのもある。彼女の機嫌を損ねたくはない。
そんなことを考えるだけの余裕が生まれてきたことに、アレグリアはほっと息を吐いた。作戦室を出入りする人数が増えてきた。各部隊長が部隊の被害状況を報せに訪れており、アレグリアはミルヴィの横顔を眺めているだけだ。アレグリアは作戦室に入って以来軍団長らしい仕事はしてもいないのだが、それでこの第四軍団が上手く回っているのは、副長ミルヴィの手腕によるところが大きい。彼女はいずれ軍団長に抜擢されるに違いない。そのとき、アレグリアは彼女と同僚になるのだが、それはそれで面白いものだ。ミルヴィは恐縮するだろうが。
「さすがですね、アレグリア様」
「敵がお馬鹿だっただけよ」
部隊長がひとり、そっと話しかけてきたが、アレグリアは取り合わなかった。褒められるようなことをした覚えはない。
敵軍を撃退したのはナグラシアの現状を利用した戦術ではあったが、手放しで褒められるような代物でもなかった。機能しない城門の護りを薄くした上で、敵軍を内部へと誘引、南門周囲に配置した部隊による一斉射撃で殲滅する。単純な作戦であり、敵軍が慎重に慎重を重ね、門兵の誘引策に引っかからなければ即座に瓦解したような稚拙なものだ。しかし、アレグリアに自信がなかったというわけではない。敵軍の目的がナグラシアの奪還ならば、どうしたところでナグラシア市街地へと攻めこんでこなければならず、罠があるかも知れないとわかっていても、南門から突入しなければならなかった。堅固な北門か、東西の城壁か、それともぼろぼろの南門か。攻撃するとすれば、南門しかないだろう。しかも、門の守備は手薄だった。何人も、その誘惑に抗うことはできまい。
かくして、敵軍は南門に殺到し、門の守備兵たちを退けた。こちらの予定通りに。
アレグリアは、ミルヴィのまとめた報告書を見下ろしながら、敵軍の動きを脳裏に思い浮かべた。敵の数は五百ほど。こちらの戦力の半分程度である。城壁に囲われた街を砦とする軍勢を相手にするにしては少なすぎる戦力だ。通常戦力で街を攻め落とそうというのならば、二倍から三倍は欲しいところだ。
最初、その報告に触れた時は敵に武装召喚師でもいるのではないかと緊張したものだが、そうではなかった。武装召喚師がいたならばアレグリアの稚拙な戦術など、簡単に蹴散らされたかもしれない。アレグリアの頭の中には、戦場を蹂躙する黒き矛の少年の姿が浮かび上がるのだ。武装召喚師といえばまず彼が思い浮かぶ。セツナ・ゼノン=カミヤ。武装召喚師の基準を彼に求めてはいけないのだろうが、彼が基準になってしまうくらいに強い印象をアレグリアの記憶に刻んでいた。バルサー平原での戦いの記憶は、未だに鮮明に思い出された。
では、敵軍の考えはどこにあったのか。なにを目的とし、なんのためにたった五百人の戦力を派遣してきたのか。本当に、ナグラシアの奪還が目的だったのだろうか。そこにまで疑問を感じてしまうのは、敵軍が、あまりにあっさりとこちらの仕掛けた罠に引っかかり、あっという間に戦力を失って逃走していったからだ。
敵軍は、南門前に展開した守備兵を蹴散らせたことで勢いに乗り、ナグラシア南門前広場に侵入してきた。そのまま市街地へと進んでこなかったのは、指揮官が冷静さを失っていなかった証左であろう。広場に集まった敵軍は陣形を構築し始め、その士気の高さは、近場の自軍兵士が見ても恐ろしいほどだったという。つまり、その時点では彼らは勝つ気でいたということだ。ということは、やはり、ナグラシアを奪還する意志があったということにほかならないのではないか。
ナグラシアを奪還されれば、遠征中のガンディア軍にとって大きな痛手となり得る。補給線が断ち切られるのだ。前線への兵糧や物資の補給が滞るということは、前線の部隊が立ち枯れていくということだ。もちろん、中央軍はゼオルを落とし、西進軍はバハンダールに拠点を築いている。そう簡単に悪影響が出てくるとは思えないが、本国との連絡路のひとつが失われるというのは、あまりいい傾向ではない。そしてその結果は、ザルワーンを勢いに乗せかねないものだ。それは現在連勝中のガンディア軍としても歓迎できないだろう。
撃退できたことに安堵する反面、たった五百人で攻めこんできた敵軍の蛮勇には感心するとともに呆れる想いがした。たった五百人だ。たとえ精鋭を揃えたところで、戦力差を覆せるとは考えにくい。こちらには地の利がある。ナグラシアは小さな町とはいえ、要塞に立て籠もっているのと同じだ。そのうえ、敵の侵入路をひとつに絞り込めるという状況にあった。敵は二倍から三倍の戦力を用意するか、武装召喚師を帯同するべきだったのだ。そうなれば、ナグラシアの戦場は熾烈なものとなり、多くの自軍兵士も命を落としたかもしれない。
無論、そうなって欲しかったわけではない。自軍から死者がひとりも出なかったという事実は、アレグリアを大いに安心させたし、これ以上ない戦果であるとも思えた。それもこれも、たった五百人の戦力で馬鹿正直に正面から攻めこんできた敵軍のおかげなのだ。ほかに方策がなかったとはいえ、愚直に突っ込んできてくれたから、こちらの用意していた策がばっちりとはまったのだ。敵軍がなんらかの策を弄していれば、こうまで上手くいかなかったかもしれない。
「とはいえ、皆が無事で何よりよね」
アレグリアは、いつの間にか作戦室に充満していた部下たちの様子に笑みをこぼした。敵を撃退できたことの喜びを分かち合おうと戦場から馳せ参じたのだろう。甲冑を着込んだ部隊長たちは傷ひとつ負っておらず、その事実を確認できたことはアレグリアを大いに安心させた。
緊張は、いつの間にか消えていた。
気にかかることはある。だが、いまは勝利の余韻に浸るのもいいだろう。ナグラシアに押し寄せた敵軍を撃退し、守備部隊としての使命を果たせたのだ。撤退する敵軍は追撃しなかった。追撃部隊くらいすぐに編成することもできたが、それはしなかった。敵軍の殲滅が目的ではないのだ。ナグラシアの防衛にこそ全力を注ぐべきだったし、撤退した敵軍が再びナグラシアに攻め込んでくる可能性は極めて低いと推測したのだ。
ナグラシアに攻め込んできた敵軍は、総勢五百人ほどの部隊だ。南門前広場には、そのうち二百人近くの兵士の死体が残っていたらしく、撤退したのは三百人くらいということになる。たった三百人で再度ナグラシアに攻撃しようなどと思うまい。無論、相手は五百人でこの街に突入してくるような無謀さと蛮勇の持ち主であり、三百人でも決死の突撃をしてこないとも限らない。が、彼らの潔い撤退ぶりを鑑みるに、そこまで愚かではないはずだ。死を覚悟して特攻するのならば、撤退という選択肢はなかっただろう。
結局、彼らが五百人程度の戦力で攻め込んできた理由はわからなかった。
まさか、ガンディアの弱兵という評価を信じて、突っ込んできたのだろうか。たかがナグラシアに篭もる千人程度、五百人で事足りると思っていのだろうか。だとすれば心外も甚だしい。
「軍団長、これも訓練の成果ですかね」
「そういうこと。だから、訓練を怠ってはいけないのよ」
若い部隊長の言葉に、アレグリアは優しく微笑んだ。彼がたじろぐのを横目に、ミルヴィに視線を戻す。彼女の溌剌とした横顔は見ているだけで心地がいいものだ。同時に、若い部隊長のいったことを再確認する。
(訓練の成果……)
その通りだ。
なにもかも、彼のいう通りだった。
アレグリア=シーン率いるガンディア方面軍第四軍団は、他の軍団とは比べ物にならないくらいに厳しい訓練を行ってきたのだ。当初は、彼女自身が己の心身を鍛えるための訓練だった。それがいつの間にか全部隊に波及し、末端の兵士に至るまで、彼女に負けないほどの訓練を行うようになったのだ。肉体は鍛え上げられ、精神面でも成長していく兵士たちの姿は頼もしくもあり、嬉しくもあった。
同じくバルサー要塞に駐屯する第五軍団があきれるほどの猛特訓は、この戦勝によって、間違いなく結実していることが証明されたといえるだろう。敵を撃退した一斉射撃の精度も威力も、毎日の訓練の成果なのだ。訓練を怠っていなかったからこそ、第四軍団の射撃は精確に敵を射抜き、数を減らし、瞬く間に撤退へと追いやることができたのだ。これが他の軍団ならば、こうも上手くは行かなかったに違いない。もちろん、数で上回り、地の利がある以上、他の軍団でも負けることはなかっただろうが、無傷の勝利にはならなかったはずだ。
アレグリアは、第四軍団の団結と成長を誇らしく思うとともに、自分を訓練へと駆り立てた少年への感謝も忘れなかった。
数ヶ月前のバルサー平原での戦いは、彼女にすさまじい衝撃をもたらしたのだ。たったひとりの少年が、戦局を変えていく光景を目撃した。死兵と化したログナー兵のことごとくを殺戮していく様は、恐怖という言葉では足りないほどに凄惨なものだった。
アレグリアは、その夜、畏れと興奮で眠れなかったのを覚えている。ログナー兵が弱いのではない。ログナー兵といえば強兵で知られた。ガンディアの弱兵と対比されることもよくあることだったし、それを事実として認めてもいた。かといって、ガンディア軍が負け続けてきたわけではないのは、ログナー軍が必ずしも強いというわけではないからだ。兵としての質が上でも、軍組織としての質はこちらのほうが優っていたのだ。しかし、そういった優劣や比較を馬鹿げたものにしてしまったのが、あの少年の登場だった。
黒き矛の武装召喚師は、バルサー平原では開戦とともに敵軍を焼き払い、その上で敵軍の殿となった兵士たちを相手に大立ち回りを演じた。彼はその初陣によって多大な戦果を上げ、ガンディアのみならず、周辺諸国にまでその名を知れ渡らせることになったのだ。
セツナ=カミヤ。セツナ・ゼノン=カミヤ。黒き矛。王宮召喚師。王立親衛隊《獅子の尾》隊長。この数カ月で、彼の立場は大きく変わった。当然だろう。彼はそれだけの戦果を上げている。ガンディアがいまこうしてザルワーンと対等以上に戦えているのも、彼のおかげだ。彼がいたから、ガンディアは早期にログナーを併呑することができたのだ。
彼の初陣に帯同できたのは幸運だったのだろう。彼の圧倒的な戦いぶりを目撃することができたのは、幸福以外のなにものでもない。たとえそれが数日の間、悪夢となって彼女を苛むような光景だったとしても、アレグリアはセツナを恨んだりはしなかった。むしろ、畏敬の念を抱いた。彼のように強くなることができれば、戦闘への恐怖や緊張、不安から解き放たれるのではないかと思ったのだ。
厳しい訓練を己に課したのは、それからだった。
そして、ログナー戦争があり、戦後、軍団長に選出された。光栄の極みだったが、なぜ自分が、と思わないではなかった。が、ログナー戦争での戦績を考えれば、彼女が選ばれるのは自然の流れだったらしい。
彼女は軍団長となると、さらに訓練を苛烈にしていった。最初に真似を始めたのはミルヴィだ。副官の彼女がアレグリアに続くと、部隊長たちまでも訓練についてくるようになった。兵士たちに波及するまでに時間はかからなかった。そして、第四軍団は全軍で訓練を行うようになり、部隊同士の連携も緊密なものになっていった。
この勝利は、そういうことが積み重なっての結果なのだ。断じて、偶然だけのものではない。
だからこそ彼女は考える。
セツナ・ゼノン=カミヤのことを。
この戦争が終われば、お礼をするべきかもしれない。
「医者の出番がなくて嬉しい限りだよ」
「あら、姉さん」
アレグリアは、作戦室に顔を見せた軍医の姿に嬌声を上げながら、ぼんやりと、あの少年の顔を思い浮かべていた。