第二千八百二十七話 眠れる竜は夢を見る(七)
緑衣の女皇が、再び咆哮した。
ラグナを中心とする広範囲の大気が物凄まじい力によって掻き混ぜられ、嵐が巻き起こる。その暴乱の中、セツナが辛くもその場に留まっていられるのは、ラムレシアが竜語魔法の障壁を展開してくれたからであり、メイルオブドーターの力だけでは吹き飛ばされていたに違いない。実際、メイルオブドーターの防御障壁では、ラグナの竜語魔法から身を守ることは出来なかった。防御障壁を貫通、あるいは無視し、セツナの全身の骨を粉砕して見せたのだ。
もちろん、メイルオブドーターだけ召喚していることも関係しているだろうが、それにしたって常識外れにも程があるといわざるを得ない。
「これが緑衣の女皇の力……か」
「いっておくが、三界の竜王はいずれも同等の力を持つ。本来ならば、な」
「そうだろうさ」
セツナは、ラムレシアの説明を否定しようとも想わなかった。それはそうだろう。三界の竜王は、三柱の古代神であり、世界の管理者だったのだ。いずれかが突出した力を持っていれば、その均衡は崩れ、世界は、その突出した竜王の想うままになっていたかもしれない。そうならなかったのは、三界の竜王が同等の力を持ち、牽制し合うことができたからだろう。
そもそも、三界の竜王には、世界を作り替えるほどの力がある。
創世回帰という、絶対的な力、権限を行使することができるのだ。それほどの力を持った存在の全力ともなれば、いまのラグナくらいの力があったとしても、なんら不思議ではなかった。
ただし、いまのラムレシアには、ラグナと同等の力があるわけではないようだが。
「しかし、どうする? ラグナシアは目覚めたようだが、おまえを受け入れてはいないようだぞ」
「敵と認識されたままだ。それも、俺を騙る敵とな」
「先程の神竜たちか、あるいはネア・ガンディアの手のものか。いずれにせよ、ラグナシアの弱点を知っているものの仕業だろうな」
「弱点?」
「三界の竜王には、元来、弱点などはなかった。いずれも世界に干渉せず、あっても眷属たちと暮らすだけがすべてだった。故に他者との繋がりもなければ、弱点となるような存在も持ち得ない。そのため、無敵の存在たり得た」
弱点がなければ、そこを突かれることもなく、故に敵もない、ということなのだろう。絶大な力を持っていたのだから、弱点を突かれさえしなければ負けることもないというのは、道理だ。
「だが、聖皇による改変によって、本来の役割を忘れ、みずからの想うままに生きるようになった竜王たちは、それぞれに世界への干渉を始めた。ラムレスもラングウィンもラグナシアも、本能の赴くまま、自分の生きたいように生きた。その結果、ラングウィンは“竜の庭”という弱点を抱え、ラムレスはユーフィリアという弱点を持ち、ラグナシアはセツナという弱点を得た」
「弱点……」
「弱みだよ。ラムレスは、その弱みを突かれ、消滅した。それは話しただろう」
ラムレシアがそれを話すとき、痛みを感じているように見えるのは気のせいではあるまい。ラムレシアは、父と慕った竜王ラムレスを自分のために失った事実をいまも引きずっている。引きずり続けるしかないだろうし、払拭することは出来まい。もし、ラムレスが死んだだけであり、転生を待つ身であったとしても、同じことだ。
セツナが、そうだった。
ラグナを失った痛みは、ラグナが転生に成功したからといって消え去るものではないのだ。そのときに感じた想い、苦しみ、無力さ、様々な感情の記憶は、死ぬまで消えることはない。いまもなお、疼き続けている。
「ネア・ガンディアは、その成功に乗じたつもりだったのだろうが……それが彼女の怒りを買った」
眼下、ラグナは、こちらを仰ぎ見ていた。それまで寝そべっていた極大飛竜は、いまにも飛び立とうという体勢を取り、とてつもなく巨大な一対の翼がいままさに開かれていく。翡翠色の鱗に覆われた一対の飛膜は、それだけでも圧倒的に巨大であり、いまのラグナは、すべての規模がなにもかも段違いだった。並べば、ラングウィンすら子供に見えるのではないか。それほどまでに巨大で、故にこそ圧倒されるほかない。
「それで、神竜たちも接近を控えていたってわけか」
「その上で援軍を待っていたのかもしれない。ネア・ガンディアの戦力を揃えれば、いくらいまのラグナシアとて、滅ぼせないわけではない」
「そうか?」
「そうとも。我らは不滅の存在ではないのだ」
「……ああ、そうだったな」
三界の竜王は、正確には神ではない。不老不滅の存在ではなく、普通に死ぬのだ。ただし、いくら死のうとも、記憶を保ったまま転生し、新たな肉体を得るという性質を持つ。それが転生竜と呼ばれる所以でもあった。事実、ラグナは、セツナのために死んだ。
セツナという弱点を利用すれば、ネア・ガンディアの戦力で滅ぼすことも可能だろうというラムレシアの考えは正しい。
「だったら、早いとこなんとかしないとな」
「だが、どうする?」
「説得するさ」
それ以外に方法はなかった。
セツナは口早に呪文を唱えると、つぎつぎと召喚武装を呼び出した。カオスブリンガー、マスクオブディスペア、ロッドオブエンヴィー、アックスオブアンビション、ランスオブデザイア、エッジオブサースト――黒き矛と六眷属の勢揃い、完全武装だ。その上でランスオブデザイアとロッドオブエンヴィーを装甲化し、身に纏うと、視覚、聴覚、触覚、嗅覚などありとあらゆる感覚が最大限に増幅し、身体能力も極限にまで向上する。いや、極限、限界というのは言い過ぎだ。まだまだ伸び代はある。
なにしろ、完全武装は、これが完全体ではないのだ。
(まだ。上がある)
ただ、それはいま試すことではない。
いまは、ラグナの説得が最優先事項であり、戦闘のための完全武装ではないのだ。ならばなぜ完全武装という戦闘形態になったのかといえば、そうでもしなければラグナの攻撃を捌ききれないという判断からだった。事実、メイルオブドーターだけでは、為す術もなかった。
《もはや容赦はせぬぞ!》
ラグナが、最大限に広げた飛膜でもって大気を叩いた。それだけで周囲の大気が激しく揺さぶられ、セツナたちのみならず、ウルクナクト号まで強く影響を受けたようだった。ウルクナクト号が頭上を離れていく。ラグナの遙か上空だというのに、さらに遠くに移動しなければ安定していられないのだろう。それほどの力がラグナから発散されている。
質量は、力だ。
その巨大さは、ただ体当たりするだけで、とてつもない破壊力を生むだろうし、踏みつけるだけで大抵の相手は死ぬだろう。軽く突き飛ばすだけでも死ぬかもしれない。
「ラグナ、俺の声まで忘れたというのか!」
《セツナの声など、忘れるものか!》
「だったら――」
《セツナの声も、セツナの顔も、セツナの温もりも、なにもかも……》
ラグナは、セツナの言葉を遮り、叫んだ。
《忘れてなるものか!》
ラグナの咆哮は瞬時に魔法となり、その巨躯を包み込んだ。そして、光となって消失する。影が視界を覆う。はたと頭上を振り仰ぐと、ラグナの巨躯が空を覆い隠していた。翼を広げる極大竜は、空に浮かぶ島のようですらあり、丸くなって眠っていたときよりも遙かに迫力があった。
唖然とする。
「世界を破壊するほどの力を吸ったのだ。大きくなって当然だが……」
「それにしたって限度ってもんがあるだろ」
「まったくだ」
ラムレシアが嘆息とともに姿を消したの見たつぎの瞬間、セツナは、後方へと飛び退いた。
直後、咆哮とともに翡翠の光が流星の如く降り注ぎ、ラグナの寝床を爆砕した。




