第二千八百二十六話 眠れる竜は夢を見る(六)
宝玉のように美しく透き通り、輝いてさえいる瞳は、大きさこそ比較しようもないほどに異なるものの、小飛竜態とのそれと変わらなかった。もっとも、いま目の前で見開かれた瞼の下、輝く両目は、セツナを捕捉した瞬間、敵意をぎらつかせ、威圧感を帯びていたが。
「目が覚めたか!」
セツナは、しかし、気にも留めなかった。寝起きで機嫌が悪いだけなのだろうと想い、彼女に話しかけたのだ。ラグナは寝覚めが悪いと、そのまま機嫌が悪いときがある。それだろうと踏んだのだ。だが。
《わしの眠りを邪魔するものは何者ぞ》
威厳に満ちたラグナの聲が脳裏に響き、瞬間、セツナは、あまりの力強さに思わず飛び離れた。頭の中に響くそれは、神がよく使う手法と同じだ。大気を震わせる音声ではなく、なにがしかの力によって脳内に直接送り込む聲。周囲に拡散するのではなく、対象に集中するためか、その聲の圧力たるや凄まじいものがあり、畏怖さえ覚えかける。
それこそ、三界の竜王の一翼、一柱と呼ばれるに相応しい在り様といえるだろうが。
「ラグナ! 俺だ! セツナだ! わからないのか!?」
《うるさい。黙れ。わしは夢を見ておるのだ。邪魔をするでないわ》
ラグナは、セツナの言葉に聞く耳を持たないとでもいいたげだった。怒りに満ちた聲は、セツナの脳内の天地を激しく揺らし、魂をも脅威に曝すような、そんな力を感じる。小飛竜態が当たり前だったころに比べると、圧倒的な圧力の差がある。いまの状態こそ、ラグナの本来の力に近いのだろう。三界の竜王は、世界の管理者、古代の神々なのだ。これくらいの力があっても、なんら不思議ではない。
だのに違和感を覚えるのは、ラグナと親しく触れ合っていた頃の記憶があまりにも強いからだ。ラグナといえば、愛玩動物のような小飛竜の姿で飛び回り、あるいはセツナの頭の上に留まり、だれとはなしに絡んでいる、そんな印象がある。そして、それこそセツナたちの知るラグナだったし、いま目の前にいる極大竜をラグナと呼ぶのは、少々無理があるように思えた。
ラグナというより、緑衣の女皇ラグナシア=エルム・ドラースと呼んだほうがしっくりくる。
それでも、セツナはラグナと呼び続けた。
「ラグナ!」
《黙れといっておる!》
ついには大きな聲を叩きつけてきたラグナは、静かに口を開いた。と思うやいなや、鼓膜を破るのではないかというほどの大音声が響き渡り、強烈極まりない圧力がセツナを弾き飛ばした。一瞬にして、ラグナの至近距離からウルクナクト号の上空まで吹き飛ばされ、唖然とする。ただし、セツナの体には傷ひとつない。ただ吹き飛ばされただけだ。
先程の咆哮とともに発動した竜語魔法は、おそらくは警告だ。これ以上、夢見を妨げるのであれば、攻撃するという警告。だからこそ、最初は傷つけず、吹き飛ばすだけなのだ。
なんとも優しい対応だと、セツナは、想った。
彼女は竜王だ。その行動の邪魔をするものに対してならば、問答無用に攻撃することだってできるだろうに、彼女はそうしなかった。なぜか。
そこには、確かにラグナの心遣いを感じ取ることができる気がした。
ウルクナクト号の天蓋から、ラムレシアが話しかけてくる。
「ラグナシアは目覚めたようだが」
「俺のことがわかっていないんだ。敵と認識されている」
「つまり、まだ完全に覚醒したというわけではないらしいな」
「……そういうこと」
ラムレシアに告げ、セツナは、再びラグナへの接近を試みた。再び近づき、話しかければ、今度は警告どころか攻撃を受けるかもしれない。それでも、近づかなければならない。近づき、彼女の覚醒を促さなければ、どうにもならない。
彼女は、こんなところで夢を見続けている場合ではないのだ。
(ラグナ……目覚めてくれ)
胸中願い、竜王の元へ向かう。竜王の瞼は、再び閉じようとしている。警告を発した以上、睨みつける必要はないと判断したのだろう。あれほどの力だ。警告だけでも十分な説得力がある。神竜たちはそれで諦めたのか、それとも、一度は警告を無視し、逆鱗に触れたのか。いずれにせよ、神竜たちがラグナから遠く離れた位置に陣取っていたのは、いまになれば当然のように思えた。
神竜たち程度では、この極大竜をどうにかできるとは思えない。
《警告はした》
聲が、脳裏に響く。
《わしの眠りを妨げるものは、何者であれ容赦はせぬとな》
やはり、ラグナの魔法は警告だったのだ。これ以上、眠りの邪魔をすれば、攻撃も辞さないという意思表明。セツナは覚悟を決めなければならなかった。セツナのこれからの行動は、まず間違いなく彼女の怒りを買うことになる。まさに竜の逆鱗に触れるような行いなのだ。攻撃を受けることになる。それも本気で敵を滅ぼすつもりの攻撃となる可能性が高い。
《放っておいてくれ。わしは夢を見ておるのじゃ。彼のものらの夢をな》
ラグナは、続ける。
《彼は……セツナはわしを迎えに来てくれると約束した。なればわしは、彼が迎えに来るのを待とう》
極大竜は、完全に瞼を閉ざした。眠りにつく体勢に入りながら、続けるのだ。
《たとえ何年、何十年……いや、何百年、何千年であろうと。彼が死のうとも、その魂が巡り、生まれ変わることを信じてな》
セツナは、一瞬、動きを止めた。ラグナの聲に意識を集中し、聞き入る。
《そして、彼が迎えに来てくれるそのときまで、わしは眠り、夢を見よう。何千、何万の年月が流れようと……》
「ラグナ……おまえ、そこまで……」
想っていてくれたのか。
セツナは、彼女の想いの一端に触れ、この数年、そうするよりほかなかったとはいえ、放置してしまっていたことに罪悪感を覚えざるを得なかった。約束したのは、セツナだ。その約束を信じるかどうかは相手次第だが、ラグナは、信じてくれたのだ。必ず迎えに行くという約束を信じ、待ち続けてくれていたのだ。
たとえセツナが命を落としたとしても、その魂が新たな存在に生まれ変わってでも迎えに来てくれるとまで、想ってくれている。
その想いの強さ、情念の深さには、感動を覚えざるを得ないし、彼女のためになにもしてやれなかった自分の不甲斐なさ、情けなさが嫌になる。
だが、だからこそ、奮い立ちもする。
いまこそ、彼女を迎えに来たのだ。
頭上まで接近し、口を開く。
「だったら、なおさら話を聞いてくれよ、ラグナ」
《何度もいわせるでない。これ以上わしの眠りを邪魔するならば、本当に容赦せぬぞ》
即座に攻撃してこなかったのは、温情なのだろうが。
セツナは、彼女の怒りに触れることを知りながら、話しかけた。
「約束通り、迎えに来たんだよ、ラグナ」
《また……か》
「また?」
《またセツナの名を騙り、謀り、わしの眠りを妨げようというのじゃな》
「違う、そうじゃない!」
セツナは叫んだが、時既に遅く、ラグナは大口を開き、咆哮していた。天地を震撼させるほどの竜の叫びは、瞬時に魔法となり、セツナの全身を包み込み、遙か上空へと吹き飛ばす。無論、警告だった先程と同じではない。全身、様々な箇所に激痛が生じた。腕や肩、足の骨が粉砕されたようだった。それも同時にだ。さすがは竜王の魔法、などと感心している場合ではなかった。激痛の余り、涙に視界が歪むほどだった。
「目覚めたな」
「こういう目覚めは、望んじゃいないが」
セツナはラムレシアの皮肉とも取れる一言に感謝しなければならなかった。ウルクナクト号とラグナの寝床、その中間地点の空中で、彼はラムレシアによって受け止められ、彼女の魔法によって全身の損傷を回復されたのだ。
粉砕された骨という骨が元通りに復元し、痛みも薄れていく。




