第二千八百二十三話 眠れる竜は夢を見る(三)
金や銀の細工が施された姿見に映り込むのは、翡翠色の髪を腰辺りまで伸ばした美しい女性だった。年齢にして二十代の半ばくらいだろうか。一糸纏わぬ姿だが、幸いなことに長い髪が腰の辺りに纏い付き、股間を隠してくれていた。それを幸運と想うのは、セツナだからなのか、どうか。全体的に肉感的な印象を受け、豊満な胸にくびれた腰、太ももから爪先へと至る曲線は、官能的とさえいっていいのではないか。鏡越しに肌の柔らかさが伝わってくるような、そんな瑞々しさがある。宝石のように綺麗な瞳も特徴的だが、それ以上に全裸の衝撃のほうが圧倒的だ。
セツナにとっては見覚えのある姿だった。
ラグナの人間態だ。
ベノアに捕らわれたとき、セツナを助けるためにラグナが取った姿であり、ラグナを女性として認識し、意識するきっかけとなった出来事だった。ベノアに捕らわれている間、ラグナはその姿だった上、服を着るのを極端に嫌がり、人目のない場所ではすぐに脱ぎ散らかしたものだ。
「だ、だれ、だれなの!?」
「目線から考えて……ラグナだったりして」
ファリアは当てずっぽうでいっただけなのかもしれないが、核心を突いていた。ミリュウが愕然とする。
「え!? 嘘でしょ!?」
「髪色なんかはラグナっぽいといえばそうかもしれないが……いくらなんでも突拍子もなさ過ぎねえか?」
「綺麗……」
「ですが、鏡の前で全裸とは、破廉恥でございますね」
シーラがファリアの意見に怪訝な顔をする一方、エリナは、鏡に映るラグナの姿にすっかりと見惚れてしまっていた。確かに異性も同性も関係なく虜にしてしまいそうな美しさが、ラグナの人間態にはある。レムが怒るのもわからなくもないが。
他方、男性陣は歓喜の声を上げている。
「ひゅー、眼福眼福」
「確かに……いいですねえ」
エスクが口笛を吹き、ルウファが唸る。銀蒼天馬騎士団の男性陣も、様々な反応を見せているが、いずれも好意的なものだった。食い入るように見つめるものもいれば、女性陣の視線に気づき、すぐさま視線を逸らしたものもいる。
まったく興味もなさげなのは、ダルクスくらいのものだ。彼は別の夢を見ていた。小飛竜形態のラグナがミリュウと戯れているだけの些細な夢の景色。なにが気に入ったのか、彼はその夢を目で追い続けている。
「エミルに言いつけるわよ」
ミリュウがドスを利かせた声で告げると、ルウファが顔を蒼白にさせた。
「い、いや、いまのは不可抗力でしょ!?」
「食い入るように見ていたくせに!」
「そ、それは……」
「これだから男って奴は……」
とは、シーラの意見だが、セツナは、ルウファに同情するほかなかった。夢の光景は、周囲に無数に浮かんでいて、視界に飛び込んでくるのは彼が言うように不可抗力だ。しかも、ラグナの人間態については、全員が注目せざるを得ない状況だった。ル
(まあ……エスクに同意したのはまずかったかもな)
そのせいで悪目立ちしてしまったのが、いけなかった。女性陣のやり玉に挙げられてしまったのだ。と、
「はっ……セツナ!?」
「なんだよ……?」
ミリュウに手を掴まれ、視線を向けると、彼女はむしろきょとんとした。
「……なんでそんなにげっそりとしてるわけ?」
「どうしたんだ? セツナ」
「いや……」
なんと説明すればいいのかわからず、セツナは、頭を抱えたくなった。ラグナの人間態について、知っていることをすべて話すべきか、どうか。話せることはいくらでもある。が、それを話せば、ミリュウたちが怒り狂うのではないか、という恐れがなくはなかった。
「……きっとラグナの願望のひとつなのよ」
突然、ファリアがほかの夢の光景に視線を移しながら、いった。ウルクナクト号の周囲に浮かんでは消える夢の景色は、いずれも幸福感に満ち溢れている。多くは、セツナとの夢だが、セツナ以外の仲間たちとの夢も少なくはない。ファリアと散歩をする夢、ミリュウと昼寝をする夢、エリナと花壇の水やりをする夢、レムと大掃除をする夢、ルウファと空を飛ぶ夢、エミルに体の大きさを測ってもらっている夢、ゲインにおやつをもらっている夢もあれば、先輩らしくウルクを指導しているらしい夢もあった。シーラ率いる黒獣隊の鍛錬に付き合う夢も、エスク率いるシドニア戦技隊と戦場を駆ける夢もある。
様々な夢、夢、夢。
彼女の記憶を元にしたものもあれば、願望そのものが夢となったものもあるようだった。
「ラグナの……願望」
「なるほどな。それなら納得も行く」
「ラグナが竜としての自分の在り様を否定するとは思えないけど、それはそれとして、セツナのことは大好きだったわけだし……その強い想いが、夢の中のラグナを人間の姿に変えたんじゃないかしら」
「そ……そういえばラグナ、あたしたちによく聞いてきたっけ。人間の恋や愛やあれこれについてさ」
「で、あの美女になるわけか。ううん、さすがは御大将。羨ましい限りだ」
「ネミアにいうわよ」
「どうぞ、お好きに。俺とネミアの絆は、その程度で揺らぐようなものではありませんのでね」
「ううう……むかつく」
「まあまあ、ミリュウ様。ラグナの夢想する姿が美しいのは事実でございます。口惜しいといいますか、なんとも言い難い感情がこみ上げて参りますが」
「レム?」
「なぜあのような体型を夢想しているのでございましょう。御主人様とともに在りたいというのであれば、わたくしという例があるというのに……」
ふつふつと沸き上がる怒りを抑え込むようにして、レムがつぶやいた。彼女としては、姿見に映るラグナの人間態の体型が許しがたいものだったようだ。自身の華奢な体型に引け目を感じていた彼女にとってそれは、裏切りに等しいものだったのかもしれない。特に彼女はだれよりラグナを可愛がり、息もぴったりだった。先輩後輩と呼び合い、阿吽の呼吸で騒動を拡大する様は、様式美とさえいえたものだ。だのに、ラグナはファリアやミリュウの体型を参考にして、人間態を作り上げた。
ラグナへの行き場のない怒りを抑え込もうと必死なレムに対し、ミリュウもファリアも触れないようにして、夢の光景に視線を戻した。姿見に映った美女が視線を巡らせる。視線の先には、寝室が広がっていて、歩いた先に寝台があった。寝台に眠りこける男がひとり。セツナだ。
やはり、それはどう足掻いてもベノアの記憶を元にした夢だった。
「……で、セツナか」
ラグナの目線で進む夢は、寝台で眠るセツナの上にのしかかるようだった。無論、セツナは寝間着を身につけているし、危ういことにはならないはずだが、これがラグナの夢であればどうなるかわかったものではない。セツナは、この夢が速やかに終わることを祈った。
「セツナとこうなることがラグナの願望ってこと?」
「ラグナがセツナを溺愛していたのは、わかりきっていたことでしょ」
「でも、ラグナって雄か雌かわからなかったし……」
『竜王には元来、雌雄の別はない』
「ほら」
「なにがほら、なのよ」
ファリアが呆れたようにいうと、ミリュウは勝ち誇ったように言い返す。
「ラグナにだって、性別はなかったんじゃないの」
「でも、ラムレス様は父性の強い方だったし、ラングウィン様は母性の塊のような方に思えるのだけれど」
『それも正しい。ラムレスは、眷属たちの父となり、ラングウィンは眷属たちの母となった。竜王は、みずからの性別を決めることができるのだよ』
「じゃ、じゃあ、ラグナはどうだったの?」
『さて……。ラグナシアは、わたしの記憶に有る限り、無性だったように想う』
「それってラムレス様の記憶よね?」
『ああ。ラムレスの記憶の中では……な。ラングウィンもそう記憶しているはずだ。だから……ラングウィンがラグナシアのことを彼女と言い始めて不思議だったが……そうか、そういうことだったのか』
ラムレシアが、合点がいったとでもいうようにひとり納得する。
「どういうことよ?」
『ラグナシアは、セツナとともに在りたいと願い、それにはどうするのが一番いいのかを考えた結果なのだ』
「はあ!?」
ミリュウが素っ頓狂な声を上げると、船が揺れたような気がした。きっと気のせいだ。
「ラグナが女になったってこと!? セツナのせいで!?」
「人聞きの悪い言い方をするなよ!」
セツナは思わず叫ぶ。
「いやでもだって、そうとしかいいようがないじゃない……」
「そりゃそうかもしれないけど……」
「さっすが大将……竜王を女にしちまうなんて、女誑しの次元が違うぜ」
「本当、そういうところ、尊敬しまくりですよ、隊長」
「嫌味と皮肉は間に合ってるから」
「いや、まったくもってそういうつもりはないんですがね」
「そうですよ、賞賛は素直に受け取りましょう」
「なにが賞賛だよ……ったく」
セツナは、憮然とするほかなかった。どう受け取ろうとも、賞賛には聞こえない。たとえ彼らが本気で賞賛しているのだとしても、皮肉や嫌味以外にどう受け取れというのか。それに、そんな風に褒められて喜ぶものがどこにいるというのか。
「で、セツナ」
不意にファリアが声の調子を落として、話しかけてきた。どうせ皮肉や嫌味でもいわれるのかと覚悟しながら、彼女を見る。
「なんだ……?」
「ラグナのあの姿を見て、セツナがたじろぎもしていないってことに気がついたわけだけれど……どういうことなのか、説明してくれるかしら?」
背筋が凍るほどの眼力に見据えられ、セツナは、ただうなずくほかなかった。




