第二千八百二十二話 眠れる竜は夢を見る(二)
咆哮が聞こえた。
哀しみに満ちた叫び声が天を裂き、地を割るかのように響き渡っていた。
仰ぎ見る空は青く、美しい。雲ひとつなく、どこまでも突き抜けている。にも関わらず、響き渡る咆哮は哀しく、苦しく、痛みに満ちている。
天が雲に覆われ、雨が降り出した。雨脚はあっという間に激しくなり、豪雨となって世界を包み込む。もはや咆哮は聞こえない。ただ雨が降り続け、やがて止んだ。雲が流れ、晴れ間が覗く。夜空。いまにも降り注ぎそうなほどの満天の星空が広がった。星々の煌めきに癒やされるような、そんな実感がある。眼下、視線を落とせば、星明かりに照らされた大地が広がっていた。
地平の果てまで続く大地には、なにもなかった。
ただ、剥き出しの地面が凹凸も激しく存在するだけだ。起伏に富みながらもなにもない大地には、生命の息吹すら感じられない。
降りしきった雨の跡すら、どこにも見当たらなかった。
なにもかもが死んでしまい、だからこそ哀別の咆哮を発していたのか。
そんなことを思うほどのになにもない大地を見渡すその視線には、複雑な感情が宿っているように想えてならなかった。
夜が明け、日が昇る。
その間、視線の主は、身動きひとつ取らなかった。
ただ、漠然と広大な大地を眺めている。
吹き抜ける風の音だけが耳に残る、そんな状態。
夜が来て、朝を迎える。
その連続。
いつ終わり果てるともわからない光景は、やがて草花が芽吹き始めたことで変化を迎えた。
起伏に富んだ大地はそのままに、緑豊かな自然が大地を覆っていく。
空を仰ぎ、咆哮する。
その咆哮は、歓喜に満ちていた――。
現実に戻ると、セツナは自分の手の感覚を確かめた。見知らぬ光景を見ている間、自分が自分ではなくなるような感覚に囚われる。それはまるで、自分が竜になったような、そんな感覚にも思えた。つまり、ラグナ自身になっているような感覚なのだろう。
「今度はなによ……?」
「さてな……」
先程とは異なり、まるで理解の及ばない景色だった。それがラグナの記憶を元にする夢だとすれば、いつのどのような記憶なのか。
『創世回帰だ』
「え?」
『創世回帰によってすべてが原初に戻ったのちの光景なのだよ』
ラムレシアが告げてくる。断定的な口調からすると、ラムレシアの記憶にも同じような光景があるのかもしれない。彼女は、ラムレスの記憶も受け継いでいる。
「いまのが……そうなのか」
「じゃあやっぱり、ラグナの記憶ってこと?」
『そういうことになるな』
ラムレシアが肯定する。
『そしてひとつの疑問が解決した』
「なに?」
『ラングウィンがなぜ、ラグナシアが夢を見ている、などといっていたか、疑問に思わなかったか?』
「そりゃあラグナが眠りこけていたからじゃないの?」
『だとしても、夢を見ているとは断定できないだろう』
「そうかしら? あのねぼすけ、眠りこけていたなら絶対夢見まくってるわよ」
『……そうか』
ミリュウの言い分に対し、ラムレシアはなにもかも諦めたようにいった。ミリュウに言い返したところで勝ち目はないと判断したか、意味はないと思ったようだ。実際、それは正しい。ただ、ラムレシアのいいたいこともわからないではない。ラングウィンがラグナが夢を見ていると断定した理由は、いままでの現象で明らかとなった。行けばわかるといったことも、だ。
ラグナの寝床に近づくと、ラグナが見ている夢を見せつけられ、体験するということだ。おそらくはラングウィンも同じように夢を見ながらラグナに近づき、覚醒を促そうとしたのだろうが、失敗に至っている。
そうこうしているうちに、またしても光が視界を過ぎった。
そしてつぎつぎと目の前に広がるのは、ラグナの夢見る記憶の光景の数々だった。
龍府での邂逅と戦闘、そして転生へ至る一切の記憶が脚色もなしに展開したかと思えば、セツナの頭の上から見る光景の数々がめまぐるしく移り変わった。それらはやはりラグナの記憶を元にした夢そのものであり、取り留めもなければ際限もなく、また、ありえないような光景も多々あった。夢なのだ。ラグナの妄想が具現化したものも少なくない。ただ、そのほとんどは、現実にあった出来事を元にしたものであり、そういった光景の数々を見るたびに、セツナは、言葉に詰まらざるを得なかった。
ラグナは、セツナたちと出逢ってからのことばかり夢に見ていた。
《獅子の尾》隊舎での日常。セツナの頭の上で過ごす一日。セツナとのちょっとした口喧嘩。セツナと一緒に風呂に入ったり、セツナの鍛錬を見守ったり、セツナの鍛錬にちょっかいを出したり、とにかく、セツナに関する夢が多いのは、ラグナがセツナの側にいた時間が一番多いからだろう。もっとも、彼女の生きてきた年数に比べれば、それはほんのわずかな時間に過ぎないはずだが、どうしてこうも彼女はセツナたちのことばかり夢に見るのか。
もちろん、セツナ以外の皆も夢に登場する。ファリアにミリュウ、ルウファにエミル、マリアもいれば、エリナ、シーラ、レムもウルクもエスクもゲインも、ラグナの夢に登場し、彼女の夢を彩っていた。
それら光景は、次第にセツナたちの意識を奪うものではなくなり、周囲の空中に投影される形で展開されるようになっていた。つまり、雲海の中心に向かえば向かうほど、数多くの夢が周囲を彩り、その夢の数たるや膨大なものといってよかった。見渡す限り夢、夢、夢であり、様々な夢がセツナたちの視界を埋め尽くしている。
『不思議なものだな』
夢の合間、ラムレシアがいった。
『ラグナシアは、わたしやラングウィンと同じく、もはや数えるのも不可能なくらいの年月を生きている。だというのに、ラグナシアは、おまえたちのことばかり思いだし、夢に見ている。まるでそれ以前のことに価値がないかのようにな』
「価値がないと思ってはいないと思うが……」
しかし、彼女のいうことにも一理あった。セツナ自身、思ったことでもある。
ラグナには、膨大な記憶がある。それら記憶のほとんどは、ラングウィンやラムレス、ラムレシアのように聖皇によって封印されていたとはいえ、“大破壊”によって解放されたに違いないのだ。だからこそ、ラグナは、創世回帰直後、生命が芽吹く瞬間の記憶を夢に見たはずだ。つまり、ラグナは、すべての記憶を持ち合わせており、失ってはいないのだ。
だというのに、彼女が見る夢は、セツナたちに関するものばかりであり、特にセツナ関連の夢が多い。
「ラグナ……余程御主人様のことが好きだったのですね」
レムが涙ながらにつぶやくのを聞きながら、セツナもまた、同じように感じていた。ラグナがセツナに多大な好意とも愛情ともつかぬ感情を抱いてくれていたことは当然認識しているし、だからこそ、彼女が命懸けで自分を護ってくれたのだということも理解している。しかし、いままさに夢という形で、ラグナの願望を見せつけられるとなると、話は別だ。より深く、より強く意識せざるを得ない。
「わかりきってたことだけどね」
「ええ、本当に」
「いつもお兄ちゃんにべったりだったもんね!」
「妬けるくらいにな」
シーラがいうと、女性陣が一様にうなずいた。
ラグナはほかの女性陣には到底真似の出来ないくらい、セツナと一緒だった。寝るときもそうだが、朝から晩までずっと一緒なのは、ラグナが小飛竜だからこそ出来た芸当であり、風呂まで一緒に浴びれたのもそうだろう。ラグナに対し、性別という概念を持たなかったのも大きい。
「ああーっ!?」
「な、なんだ?」
「あれはいったいどういうこと!? どういうことよ!?」
ミリュウが悲鳴染みた声を上げながら、ある方向を指差す。彼女が指し示したのは、空中に展開する光景のひとつだった。
そこには、高級そうな姿見に映る全裸の美女がいた。




