第二千八百十四話 接近禁止領域(四)
「遅かったじゃないか」
ラムレシアが半透明の天蓋の上から告げてきたのは、セツナたちがウルクナクト号の甲板上に飛び出してからのことだ。
空は、突き抜けるほどに高く、青かった。太陽が天高く輝いている。つまり、正午だ。だとすればかなりの長時間眠っていたということになるが、そもそも、真夜中まで起きていたことを想えば、実際の睡眠時間は十時間には届いていないだろう。八時間は寝たかもしれない。だとすれば、十分すぎるほどの睡眠時間といえるはずだ。だから快調なのだろうか。
頭上は晴れ渡り、雲ひとつ見当たらない。ウルクナクト号が雲上を飛んでいるわけではなく、単純に周囲に雲がないというだけの話だ。風を感じず、寒さを感じないのは、天蓋の中にいるからにほかならない。
ウルクナクト号には、天蓋内部に限らず、至る所に暖冷房機構が完備されており、寒さに震えることも、暑さに辟易する心配もなかった。それ以外にも訓練施設や食堂、広間などの存在からも、船の設計思想そのものが人間のためであり、神人や神獣を運搬するためのものではないことが明確だった。それでも、手に入れたときのままでは、多少不便であり、マユリ神が手を入れる必要性を感じたというのは、どういうことなのかはわからないが。
それは、ともかく。
「緊急事態だそうだけど、なにか知ってる?」
「緊急事態となるかは、相手の出方次第だ」
「相手?」
「あれは……」
セツナは、前方に向けた目を凝らし、蒼空に蠢く無数の影を認めた。そして、その距離感が一切変わっていないことから、ウルクナクト号が空中で止まっていることを知る。おそらく、これ以上接近すれば、影を刺激しかねないという判断からだろう。そして、その判断の元、セツナたちを叩き起こした。
「竜属だ」
ラムレシアが静かに告げてくると、ミリュウが疑問の声を上げた。
「竜属? なんで?」
「なんでって」
「だって、ラングウィン様とラムレシアさまが協力的なのに、なんで敵に回るかもしれない竜属がいるのよ?」
「そりゃあ……」
「あれはラグナシアの眷属だ」
ラムレシアの断言により、セツナは自分の考えていた可能性が肯定されたが、だからといって素直に喜べなかった。ラグナの眷属といえば、セツナ救出のために大量に犠牲になった記憶がある。ラグナは、自身の眷属をセツナを救い出すためだけに呼び集め、そして命を捨てさせた。それだけの価値があると彼女は考えたのだろうが、その果てが自身の命を燃やすことだということについては、最初から考えていたのかもしれない。
そのことを思い出せば、胸が痛んだ。
無力な自分のために数多の飛竜が十三騎士に挑み、殺されていく光景は、凄惨としか言い様がなかった。そして、そのための死を平然と受け入れ、むしろ死ぬことにこそ誇りを見出さんとする飛竜たちの姿は、忘れることはないだろう。
「だったらなおさらじゃない。ラグナの眷属があたしたちの敵に回る必要なんてある?」
「ないわ。ないけど、向こうがそう想ってくれるかどうかは別でしょ」
「そうだな……彼らから見れば、俺たちは彼らの主の、王の寝込みを襲おうとしている最中と受け取られてもおかしくはない」
空を覆う数多の飛竜たち、その遙か後方に巨大な積乱雲のようなものが見えている。そのとてつもなく強大で分厚い雲がラグナの寝床になっているのか、寝床を護る障壁となっているのかはわからないが、とにかく、その雲の中にこそラグナがいるのはまず間違いなさそうだった。なぜならば、眷属の飛竜たちが巨大な雲を護るようにして待ち受けているからだ。
その姿は、まさに王を護る騎士のそれであり、飛竜たちは、剣と盾の代わりに翼を広げ、こちらを威嚇しているようだった。
「そんな馬鹿な話――」
「わたしも竜王の端くれだ。一応、話し合ってみるが……あまり期待するなよ。眷属が付き従うのは、直属の王のみ。自身の王以外の王に頭を垂れる眷属はいない」
「そうなんだ……」
「だから、眷属同士の争いが起こる。ラムレスが己が愚かな眷属を皆殺しにしたのもそのためさ」
「ええ……」
「いくらなんでもやりすぎだろ……」
「聞き分けのないものには、眷属といえど容赦はしない。狂王に相応しい在り様だろう」
どこか誇らしげに言い切ったラムレシアは、翼を広げると、凄まじい勢いで天蓋から飛び立った。
彼女の眷属たちが攻撃態勢を整える中、セツナたちは、ラムレシアを見守るしかなかった。
相手がラグナの眷属であり、いまのところ、どのような立場なのかがわからない以上、こちらから攻撃を仕掛けるのは得策とはいえない。仮に敵に回ったとしてもだ。ラグナの眷属だということがセツナたちには強く引っかかっていた。
「交渉が失敗したら、どうするの?」
「どうするもこうするも……ラグナは目覚めさせなきゃならないことに変わりはないだろ」
「でも、ラグナの眷属を傷つけたくはないわよね」
「当たり前だ」
「良かった」
ほっとしたようなファリアの一言にミリュウも同意するような反応を見せた。飛竜たちがラグナの眷属だというのであれば、いくら説得できないからといって、こちらから攻撃するつもりなどあるはずもない。ましてや、傷つけ、殺すことなど、あってはならない。
では、どうするのか。
「まずはラムレシアの話し合いに応じてくれることを祈るしかない」
「もし、決裂したら?」
先程と同じ問いだが、今度はその場合のこちらの対応について話さなければならない。先程伝えたのは、覚悟だ。
「そのときは、強引に突っ切るだけだ」
「……まあ。そうなるわよね」
「そんなことをすりゃあ、あいつらは攻撃してくるんじゃねえのか?」
「こちらが応戦しなければいいだけのことだ。護りに関しては、ウルクナクト号は完璧なんだ」
「完璧……ねえ」
「マユリ様に、ハサカラウ様がいるだろ」
神威による防御障壁を持つウルクナクト号は、そう簡単に撃墜されることはない。それもただの防御障壁ではない。女神に龍神、二柱の神が護りに徹してくれるのであれば、飛竜たちの強力な魔法もウルクナクト号を傷つけることもできまい。
「うむ。我に任せよ」
突如としてセツナの頭上に出現した龍神は、さも当然のようにいった。セツナは、ハサカラウがどこにいたのかはわからなかったが、船内のどこかにいることは間違いなく、なんの心配もしていなかった。彼は、シーラを神子にしたがっているのだ。シーラ以上の適任者が見つかるまでは、この船を離れることはないだろう。
「ええ……」
「なにを嫌がることがある」
「別に嫌じゃねえけどよお……」
あからさまに嫌な顔をしているシーラだったが、本心とは裏腹な言葉をいうくらいの配慮はできるらしい。もっとも、龍神にはシーラの本心が透けて見えているだろうし、だからこそ、どうすればシーラに認められるのかと苦闘しているのだろうが。
なんにせよ、シーラがハサカラウに気に入られ、そのために龍神が協力してくれているという事実がある以上、無下には出来なかった。ハサカラウの助力は、大いなる助けとなっている。
「俺たちには神々がついている。飛竜たちの攻撃を受け流しながら、ラグナに近づくのは難しいことじゃないさ」
『簡単にいってくれるものだ』
マユリ神があきれたようにいってきたのは、船内放送ではなく、腕輪型通信器からだ。
「できないんですか?」
『まさか』
「さっすがマユリん」
「さすがです! マユリ様!」
『ふふふ』
ミリュウとエリナに賞賛されると、女神の幻像はいつになく誇らしげに笑った。
「まあなんというか、わかりやすい神様たちでよかったよ、本当に」
「本当にそうね」
ファリアが同意するのを横目に見ようとしたちょうどそのときだった。
竜の咆哮が遍く響き、青空に閃光が走った。




