第二千八百七話 白銀纏う霊帝(三)
「ラグナが……」
思わず声が上擦ったのは、予期せぬ名前を持ち出されたからだったし、想像すらできない言葉だったからだ。
「教えた?」
「どういうこと? どういうことよ?」
「ラグナがいるのか? 無事なんだな!?」
ファリアが怪訝な顔をすれば、ミリュウが取り乱し、シーラがラングウィンに歩み寄ろうとする。無論、甲板から遙か上空にあるラングウィンに近づくことなどできるわけもないが。ラングウィンの発言に驚いているのは、セツナやその三名だけではない。レムもエリナもルウファもエミルも、ウルクやエスクだって、ラグナに言及されたことに衝撃を受けていた。
エリルアルムのようにラグナのことを話でしか知らないものたちには、なんのことだかさっぱりわからないのは仕方のないことだ。
「皆さん、どうか落ち着いてください」
ラングウィンの柔らかな声音には、鎮静効果でもあるのか、セツナはその声を聞いただけで心が落ち着くのを認めた。もしかすると、魔法を使ったのかもしれない。竜の言葉は魔力そのものであり、力有る言葉は魔法となって発揮される。
「あ……ああ、すみません、つい気が動転して」
「仕方がないわよ、ラグナの名前を出してくるんだもの」
「だな」
落ち着きを取り戻しながらも、それぞれに反応を示すセツナたちの様子を見てだろう。ラングウィンが微笑んだように見えた。
「ふふ……皆さん、ラグナシアのことを本当に気にされているのですね」
「当たり前じゃない!」
ミリュウが断言すれば、シーラを始め、ラグナのことを知るものたちは皆、強くうなずいた。
「ラグナは大切な仲間なんだ。俺たちとともに戦っただけじゃない。一緒に過ごしてきたんだ」
「しかし、ラグナシアはあなたを護るため、命を燃やした。あなたのためだけにすべての力を費やしたのです。それは、三界の竜王にあるまじき暴挙。愚行というほかありません」
「愚行だと……」
セツナは、瞬時に怒りを覚えたのは、脳裏にラグナの最後の瞬間の記憶が過ぎったからだ。絶大な力を誇る真躯ワールドガーディアンから逃れるため、結界に閉ざされたベノアから脱出するため、ラグナはすべての力を使ったのだ。それは、ラングウィンのいったとおり、命を燃やすということであり、ラグナはそのために死んでいる。セツナを救う、ただそのためだけに、彼女の命は費やされた。そのときの無力感、苦しみ、哀しみ、怒り、嘆き――様々な感情が一瞬にしてセツナの心を埋め尽くし、拳を握り締めさせる。
「三界の竜王は、世界の管理者。このイルス・ヴァレを滅びから護ることだけがすべてであり、それ以外の一切の事物にみずから関わることを由とはしません。それこそ、三界の竜王が禁なのです。なぜならば、わたくしたちほどの力を持つ存在が世界に干渉すれば、それだけで世界の有り様は変わってしまう」
「はっ……いうにことかいてそんなことかよ。三界の竜王たるもの世界に干渉するなというのなら、ラングウィン、あなたこそその禁を破っているじゃないか」
「そうよそうよ!」
「セツナのいうとおりだ!」
ミリュウやシーラが加勢してくるのを肌で感じながら、セツナはラングウィンを睨み付けていた。ついさっきまで敵意のかけらも向けなかった相手だったが、ラグナのことを引き合いに出されては、黙ってはいられない。先もいったようにラグナは大切な仲間なのだ。彼女とともに歩んだ日々は、いまもなお、セツナたちの心に息づいている。
ラングウィンは、大きな宝玉のような目を細め、いった。
「その通りです」
「は……」
「認めるんだ?」
「なんだよそりゃ」
セツナたちは、ラングウィンのあっさりとした反応に、振り上げた拳の下ろしどころを見失い、憮然とした。
「わたくしもまた、三界の竜王たるものの務めを果たそうともせず、この“竜の庭”に籠もり、世界を眺めていたのです」
「だったら、ラグナをどうこういう権利は――」
「もちろん、ありません。わたくしも、ラムレスも、ラグナシアも……三界の竜王は皆、己の本質を忘れ、本懐を見失い、本来の在り様さえもなくしてしまっていたのです。およそ五百年前、ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンと名乗ったあの人の子の力によって」
「ミエンディアにしてみれば、我々ほど厄介な存在はいないからな。記憶を改竄し、本来の役割を忘れさせたままにしておきたかったのだ」
ラングウィンの言葉を引き継ぐようにしていったのは、ラムレシアだ。彼女は、ウルクナクト号の上空に浮かび、こちらではなくラングウィンを見つめている。
「ですが、復活の儀式が失敗し、世界が壊れたとき、わたくしたちの記憶を封じていた力もまた、砕け散った」
「三界の竜王は本来の己を取り戻し――されど、ラムレスはリョハンの戦女神と契約を結び」
「わたくしは“竜の庭”を広げることに注力しました。つまり、わたくしたちもまた、三界の竜王にあるまじきことをしているというわけですね」
嘆息するように、銀衣の霊帝が告げる。その声音には深い悔恨や苦悩が込められていて、三界の竜王と呼ばれる彼女たちにもまた、彼女たちなりの悩みや苦しみがあったのだということは想像に難くない。
「世界に干渉している……ということですか」
「ええ。ファリア。リョハンの戦女神は察しがいいというのは、本当のことのようですね」
「ええ……と」
ファリアがどう返していいのか反応に困っていると、ラムレシアが軽く咳払いをした。彼女が、ラングウィンにファリアの話をしたのは間違いない。ラムレシアは、転生からしばらくの間、ラングウィンの元にいたというのだ。そのとき、ファリアの話を数多くしていたとしても、なんら不思議ではないのだ。ラムレシアの前身とでもいうべきユフィーリアは、話によれば、ファリアと親友同然であり、ときにミリュウが焼き餅を焼くほどだったという。
そのことについてミリュウは否定したものだが、エリナやルウファの証言からもそれは間違いなさそうだ。ミリュウが嫉妬するほどの仲の良さというのは、中々にあることではない。余程、ユフィーリアとファリアの関係というのは、良好であり、親密だったのだろう。
セツナが不在の間のことであり、想像も出来ないが。
「それはともかくだな」
「はい。三界の竜王たるもの、禁を破るべきではない――が、それは世界が正常な状態であればこそ通用する掟です。いまや世界が滅亡の危機に瀕し、混沌の海に沈もうとしている危機的状況にあって高みの見物を決め込むのは、世界の管理を任されたもののすることではないでしょう」
「なるほど……だから、あなたは“竜の庭”を広げ、少しでも多くの命を護ろうとした」
セツナが尋ねると、ラングウィンが静かにうなずいた。“竜の庭”は、元々、ヴァシュタリア共同体北東部の小さな領域だったという。それが“大破壊”以降、急速に勢力を広げたという話は、ラムレシアから聞いていた。それこそ、ラングウィンが己の使命に目覚めたからだったのだ。
三界の竜王として、本格的な世界への干渉を始めたということだ。
「ラムレス様は、リョハンに力を貸すことで、多くの命を護ろうとしてくださったのかしら」
「ラムレスは、わたしの我が儘を聞いてくれただけだがな」
「そうなの?」
「ああ」
強く断言する以上、なにもいうことはない、とでもいうようにファリアは黙り込んだ。もちろん、ファリアがそのことを知らなかったわけではないのだ。人間嫌いのラムレス=サイファ・ドラースがリョハンに力を貸したのは、ユフィーリアの進言があったからだということは、よく知られた話だったらしく、当然、ファリアも熟知していた。だが、ファリアは、ラムレスにはもっと深い考えがあったのではないか、と、ラングウィンの話を聞いて、思い至ったのだ。
しかし、その考えは、ラムレシアによってあっさりと否定されてしまった。ラムレスのすべてを継承したラムレシアが、ラムレスの記憶を勘違いするはずもない。




