第二千八百五話 白銀纏う霊帝(一)
やがて、船を先導するイネイルカーラギアが高度を落とし始めたのは、空を闇が覆い、星々が瞬き始めた頃合いだった。
地上の楽園たる“竜の庭”上空に至って、半日以上が過ぎていることになる。障害物もなにもない空の上をかなりの速度で移動しているにも関わらず、だ。それほど広大な領域を“竜の庭”という楽園に作り替えたのがラングウィンの力ならば、その偉大さがわかるというものだろう。竜属はただでさえ強靱であり、強大な力を持っているが、とはいえ、ただの竜にこれほどのことができるとは思えない。
さすがは古の神とも呼ばれる三界の竜王、その一柱、とでもいうべきなのかもしれない。
満天の星空の下、影に覆われた“竜の庭”の広大な領域には、人間が住んでいる証とでもいうべき光が無数に見受けられた。澄み渡った空は、月や星の光をまっすぐに地上に降り注がせるが、やはりそれだけでは物足りないと思うのが人間というものだ。特に“竜の庭”は、背の高い木々が大量に生えていて、影が濃い。人家の集落こそ開けた場所に作られているものの、それでも夜の闇は濃く、深かった。
その闇を払うべく、人家の集落にはいくつもの魔晶灯が立っていた。魔晶石が発する青白く冷ややかな光は、この楽園の如き“竜の庭”において酷く浮いているようにも思え、決して馴染んでいるとは言い難かったが、数多く見受けられるそれらにより、かなりの数の人間がここで生活していることがわかるのだった。人間ほど暗闇を恐れ、光を欲するものもいまい。
実際、皇魔の集落と思しき場所には魔晶石の光もなければ、篝火のようなものもなく、闇に溶ける自然の中に完全に融合しているようだった。
もちろん、魔晶灯を掲げる人間が悪いとは想わないし、楽園の主催者に受け入れられているのだから、なんの問題もないということだ。
そうするうち、人間や皇魔、様々な生物たちが共存する領域とは異なる雰囲気に包まれた領域へと到達する。なにがどう異なるのか、言葉としては形容しがたいし、星明かりの中ではその違いが明確にわかるわけではないのだが、セツナはそう感じたのだ。
“竜の庭”の北部も北部、大陸最北部に近いその場所は、峻険な山々に囲まれているようであり、星々や月の光を浴びて輝く白銀の尾根は、この楽園にあって異様なほどの冷徹さを帯びているのだ。まるであらゆる生命の存在を拒絶するような凄まじさが、並び立つ銀嶺にはある。イネイルカーラギアは、その山脈へと向かっているようだった。
「銀衣の霊帝は、どうやらあの山間で待っているようだな」
機関室の空中に投影された映写光幕を見遣りながら、セツナはいった。セツナたちは、“竜の庭”に入ってからというもの、常に機関室にいたわけではない。全員が全員、暇人ではなかったし、日課としている鍛錬もあれば、それぞれにやりたいことややらなければならないこともある。食事も取らなければならない。機関室を出入りすること何度目か、覚えてさえいなかった。
そうするうちにようやく目的地が見えてきたのだ。
いまは夜中。
だれもがやるべきことを終え、機関室に集っていた。昼間にはいなかったゲインやミレーヌもいる。残念ながら、銀蒼天馬騎士団の面々は勢揃いしているわけではないが、それは機関室の広さを考慮してのことだった。全員が機関室に入れば、座る場所もなくなるだろう。エトセアの騎士たちの気遣いにより、いつもの面々が勢揃いできているというわけだ。もちろん、その中にはエリルアルムの姿もある。セツナ、ファリア、ミリュウ、レム、シーラ、エリナ、ウルク、ルウファ、エミル、エリルアルム、エスク、ネミア、ゲイン、ミレーヌ、イル、エルに加え、騎士団幹部数名が映写光幕に注目している。
マユリ神は、普段とは比べものにならないほどの密度の機関室にご満悦らしい。
「そうみたいね」
「綺麗……」
ファリアがうなずき、エリナがうっとりとした様子で映写光幕を覗き込む。エリナはどうやら地上の景色を眺めるのが好きなようだ。それも美しい景色ならばなおさらだろう。そんなエリナの様子を見守るミレーヌの表情はとても柔らかだ。戦い続きの船の中にあって、このような幸福な瞬間が訪れるとは露も想わなかったが、悪くはなかった。
少なくともいまは、だれもが戦いとはかけ離れた心理状態にあり、この地上の楽園とでもいうべき“竜の庭”の様々なことに感嘆の声を上げたり、心から驚愕したりと、いままでにないくらいに穏やかな時間が流れていた。
「ちょっと待って」
「なに? どうしたの?」
「いまさら怖じ気づいたか?」
シーラがミリュウを見遣れば、ミリュウが彼女を睨めつける。
「違うわよ。あの山、リョフ山並みに見えるんだけど、そんな山々がヴァシュタリアの北東部に存在しているなんて話、聞いたことないわよ?」
「そういえば……そうね」
ミリュウの疑問をファリアが肯定する。
リョフ山は、ヴァシュタリア共同体勢力圏において最高峰とされる高山だ。峻険も峻険、ひとが登るような山ではないのは一見して明らかであり、そこになぜひとびとが住み着いたのかがわからないといわれていたほどだ。実際、リョフ山が登山には向かない山であることは間違いないし、リョハンのひとびとがそこに住み着いた理由は山の峻険さ故なのだろうが。
それはそれとして、リョフ山に並ぶほどの峻険なる山々が存在しながらも、それがヴァシュタリアによって認知されていなかったというのは、確かに不思議だった。
「それのなにがおかしいんだ? “竜の庭”の中だから、確認されていなかっただけなんじゃねえのか」
「その可能性も高いけど……“竜の庭”って、昔から人間を受け入れてきたはずよね。だったら、“竜の庭”にリョフ山に並ぶ山々が存在するっていう話が広まったとしても、不思議じゃないわ。ううん、当然よ」
「それにヴァシュタリアは神の国だった」
「そうよ!」
セツナの意見にミリュウが飛びついていく。それこそ、全身で抱きつかんばかりの勢いだった。
「至高神ヴァシュタラがこの山々を知らないとは思えないんだよな」
「でしたら、不思議でございますね」
「なにか隠す理由があったとか、ですかねえ」
「“竜の庭”の存在を知られたくなかったから、かも」
「ふむ……」
そして、セツナたちが怪訝な顔で夜の闇に浮かぶ銀嶺を見遣っているときだった。
『さっきからなにをいっているんだ?』
船外からラムレシアが疑問の声を上げてきた。そして竜王は、当然のように告げてくるのだ。
『あれはラングウィンだぞ』
「え……!?」
「は?」
「嘘……」
「なっ!?」
機関室にいただれもが絶句したのは、いうまでもない。
セツナは、一瞬、彼女がなにをいっているのか理解できなかったし、理解できても瞬時には受け入れがたいことだった。頭が理解を拒むのだ。なぜならば、映写光幕に映し出されているのは、巨大な山々そのものであり、その巨大さたるや、セツナたちを案内してくれていたイネイルカーラギアが豆粒のように見えるくらいだ。つまり、とてつもなく巨大であり、比較しようがないほどなのだ。
「あれ……って、あの山々だよな?」
『だから、山ではないといっている。よく見ろ。あれのどこが山に見えるのだ』
「山にしか見えないわよ!」
「そうでございます!」
「そーだそーだ!」
『……目が悪いのか』
「なにその言い方! すっごく同情されてる気分!」
「同情されてるんだよ」
「なんでよ!?」
「まあまあ落ち着きなさい」
「ファリアからもなにかいってやってよ! 山にしか見えないでしょ? 見えないわよね!?」
「それはその通りだけど……」
ファリアがミリュウを抑えながらちらりと映写光幕を見遣った。
セツナは、映写光幕の大画面を食い入るように見ている。
そのとき、銀嶺が、震えた。
月明かりに照らされた銀の尾根が揺れ動く様は、大地が激しく震撼しているかの如くであり、いままさに天変地異が起こっているかのような、そんな衝撃的な映像だった。だが、その麓、“竜の庭”そのものが震撼している様子はない。大地震が起きている様子も、天変地異の前触れもない。
山だけが震えていた。
そして、銀嶺の先端が持ち上がり、こちらを見た。
それは確かに竜の頭部だった。巨大ながらも丸みを帯びた頭部は、どこか慈愛に満ちた表情を浮かべているように見える。
『よく来てくれましたね、セツナ』
それは、柔らかな声を発し、またしてもセツナたちを仰天させた。




