第二千八百四話 竜の庭へ(七)
東ヴァシュタリア大陸上空を北へ進むに連れ、大地を覆う雪は深くなる一方だった。
北へ向かえば向かうほど寒くなるのは、この世界も同じなのだろう。そして、その寒さが一面の銀世界を作り出しているのもまた、同じだ。雪と氷に閉ざされた大地には、生命の息吹を感じることはできない。だが、遙か五百年前から今日に至るまで、この大地には人間を始めとする様々な生物が生き、歴史を重ねてきた事実もまた存在する。しかし、どうやってこの過酷な環境を生き延びてきたのだろうか。
“竜の庭”は、そんな疑問に対する回答のひとつでもあった。
「あれは……?」
セツナが感嘆の声を上げたのは、映写光幕に映し出された銀世界の中、突如として色鮮やかな景色が入り込んできたからだ。それまで生命の息吹を一切感じ取ることができない死の世界の如き雪景色からは想像もつかないような光景だった。大陸北部一帯を覆っていたはずの雪と氷が突如として溶け出し、その中に閉じ込められていた春が全身全霊で咲き誇りだした、とでもいわんばかりの景色。無数の木々が緑豊かに枝葉を伸ばし、色とりどりの花が咲き乱れ、その上空を鳥たちが飛び交い、森の中を獣たちが駆け抜けている。流れる川の中にはきっと魚が泳いでいることだろう。少なくとも水面が凍り付いているようには見えない。
そこには確かに生命の息吹があった。
「凄い……」
「あれが“竜の庭”……?」
「そうとしか考えられねえな……」
「ははっ……想像していたのとは随分と違いますなあ」
「本当……」
だれもが驚嘆のあまり言葉を失うのは当然といえば当然だった。
北ヴァシュタリア大陸を飛び立つ際に見た風景とは、なにもかもが違っていた。いや、そもそも、東ヴァシュタリア大陸そのものが雪と氷に覆われているのだから、そこに突如として現れる地上の楽園の如き風景を目の当たりにすれば、絶句するほかないだろう。どこまでも続く大雪原の先に存在するべき光景ではない。
『そうだ。あれが“竜の庭”だ。ラングウィンがこの三年を懸けて作り上げた』
ラムレシアの説明を受けながら、“竜の庭”を見渡す。自然豊かな地域は、極めて広大だった。その広大な領域に無数の木々が生命を謳歌しており、その木々の間を鳥たちが飛び交い、獣たちが走り回っている。さらに見ていけば、人家の集落があり、ひとびとが暮らしている様が目に飛び込んできた。
「ラングウィンが作り上げた?」
『元々、“竜の庭”は、もっと小さく狭かったのだ。ラングウィンにしてみれば、無闇に人間に干渉するのを避けたかったというのもあるだろうし、ヴァシュタリアの目につけられるのも面倒だったからだろうな』
「それで、“大破壊”を契機に“竜の庭”を拡張したのか」
『そうだ。“大破壊”は、なにもかもを壊し尽くした。ヴァシュタリアが五百年懸けて作り上げ、維持してきた共同体もなにもかもな。ヴァシュタリアの人間たちが困窮を極めるのを見て、手を差し伸べることにしたのだろう。故に“竜の庭”を広げ、そこにすべてを受け入れることにした』
「すべて……」
『人間だけではないのさ。ラングウィンが手を差し伸べたのは』
ラムレシアの声は、いつになく優しく響く。彼女がラングウィンを慕っている様子がわかるようだった。
「皇魔もいるという話よね」
「皇魔も? 人間と一緒にいて、だいじょうぶなのかしら」
『少なくとも、“竜の庭”の中ではな』
ラムレシアが断言する。
『“竜の庭”は、元々、ラングウィンが庇護するものたちの住処だった。そこには人間も皇魔も共存し、仲良く暮らしていたのだ。彼女はそれをこの大陸全土に広げるつもりに過ぎない』
「人間と皇魔が共存共栄……ねえ」
「まあ、出来ないこともないんじゃない? アガタラのウィレドたちだって、話せばわかる連中だったし」
「そうだな……」
アガタラのウィレドたちは、セツナたちが旅立ったあともリョハンとの交流を続けており、第三次リョハン防衛戦においては戦力の提供を打診してきたほどの間柄になっていた。しかし、リョハン側はそれを拒否した。ウィレドたちに頼るのを嫌ったのではなく、ウィレドたちを巻き込みたくなかったというのが一番の理由だ。ウィレドたちは、確かに人間よりも遙かに強い。だが、ネア・ガンディアとの戦闘になれば、そんなことはなんの強みにもならないのは明白だった。故にリョハンは、アガタラの協力の申し出に感謝しながら、丁重に断ったのだ。
その代わりといってはなんだが、戦後、戦女神みずからアガタラに出向き、親睦を深めたという。リョハンはいずれ飛び立つが、それまではアガタラのウィレドたちとは仲良くしていることだろう。
そのことを考えれば、人間と皇魔が手を取り合って生活することは、決してあり得ないことではないのだろうと想える。
人間と皇魔が互いに忌み嫌い合い、憎しみ合うようになったのは、最初の邂逅が問題だった。最初の邂逅。即ち、聖皇による神々の召喚は、余計なものまで呼び寄せてしまった。それが聖皇の魔性――皇魔たちだ。神々しく美しい皇神たちとは違い、見た目からして人外異形の怪物だったそれらとの邂逅は、人間に嫌悪を感じさせ、敵意を生じさせた。どちらが先に攻撃したのかは、わからない。だが、最初の出会いからして最悪であり、そこから流血の歴史が始まったのは間違いない。
人間が皇魔を天敵と呼び、恐れたように、皇魔もまた、人間を忌み嫌い、憎しむようになった。歴史が紡がれる中、両者の間で大量の血が流れていく。血が流れるたびに憎しみが増し、嫌悪と敵意が刻まれていった。召喚から五百年以上が経過したいま、人間と皇魔の悪感情は、遺伝子に刻まれるほどになっているのではないか。
それでも、互いに歩み寄ることが出来るのであれば、手を取り合うことも不可能ではない。
そのことを示しているのが、“竜の庭”なのだろう。
ラムレシアの言を信じる限り、“竜の庭”では、人間と皇魔は共存できているというのだから。
そして、ラムレシアの言を疑う道理はない。
『皇魔が人間を忌み嫌い、憎んでいるのは、受け入れられなかったからだ。彼らは聖皇の召喚に巻き込まれ、在るべき世界に還ることもできず、この世界に放り出されてしまった被害者に過ぎないというのに、この世界の住民は拒絶を示した。となれば、彼らは絶望するか、生き抜くために全力を挙げるしかない。その結果、人間との殺し合いの歴史が始まったのだろう』
「人間が悪いっていうの?」
『そうはいっていないだろう。突如異世界から現れた怪物を受け入れるなど、だれであれ無理な話だ。人間とて、被害者なのだからな』
ラムレシアが静かに告げると、ミリュウは黙り込んだ。
『さて、それでは加害者はだれだ?』
「……聖皇か」
『そうだ。この現状において、唯一、加害者といえるのは聖皇以外にはいない。聖皇の召喚が完璧ならば皇魔たちが巻き込まれることはなかっただろうし、人間と皇魔が互いに嫌い合うこともなかったのだ』
その場合、歴史は大きく異なったものになっていたのかもしれない。少なくとも、大陸のひとびとは皇魔に怯えることなく、すべての都市を城壁で覆うこともなかっただろうし、小さな街や集落も数多に存在したのではないだろうか。
「聖皇が召喚魔法を使ったのは、創世回帰を回避するためでしょ」
『創世回帰は最終手段だ。世界を滅ぼさないためのな』
「そのためにそのとき生きていたすべてのひとびとが消えてなくなるなら、だれだって抗いたくもなるわよ」
「ミリュウ……」
「わかってるわよ。聖皇がやり過ぎたってことくらい。だから六将は反発し、彼女を討った。その結果世界は呪われ、いまになって約束が果たされてこんなことになった」
こんなこと、というのは、“大破壊”のことだろう。
聖皇が約束した復活のとき、その失敗が“大破壊”を起こした。そして世界は、変わり果てた。神々が荒ぶり、神威が世界を毒した。世界は、滅びに瀕した。
「因果よね」
「そしてその因果の糸は、聖皇が紡いだ」
聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーン。
それが、すべての始まり。




