第二百七十七話 ナグラシアの女達
ナグラシアは、ガンディア軍の先発隊に制圧されてから十日以上が経過していた。
先発隊による統治が上手くいっていたのか、駐屯する部隊が後発の部隊に代わっても、問題らしい問題も起きなかった。交代の直前、ガンディアの全軍が怒濤のように流れこんできたから、というのもあるかもしれない。援軍を合わせて七千以上の軍勢が、小さな町を埋め尽くしたのだ。反抗する意気も失せるというものだろう。
その敵意も押し潰すほどの圧倒的な軍勢とともに、マリア=スコールはナグラシアを訪れたのだ。
ガンディア軍ガンディア方面軍第四軍団医療班に所属する軍医、というのが彼女の肩書きである。後方での治療に当たるのが主な役目であり、衛生兵ともども扱き使われるであろう未来を予測し、半ばうんざりしていたのだが、マリアは最前線とは程遠いナグラシアで戦勝報告を待ち続ける身分になってしまった。もちろん、前線に連れ出されるよりは余程いい。負傷者がでないということは、彼女の仕事もなく、暇を持て余すということだが、軍医の仕事がないというのは本来喜ぶべきことなのだ。マリアは敵国での戦いのない日々に歓喜を隠さなかったし、持て余す時間を勉強に費やすこともできた。
そんな彼女ですら多少の興奮状態にあったのが、マイラム出陣当時のガンディア軍の異常な盛り上がりを表している。ナグラシアに到着してしばらくの間も、高揚感の中にいたのだが、いまとなっては気恥ずかしくなるほどだ。陛下の演説を聞くことができたのは幸運だったし、幸福でもあったのだが。
嘆息を胸の内に秘めながら、目の前の女性の言葉に耳を傾ける。
「で、攻めてくると思う?」
「なんだって軍医に意見を求めるかねえ」
彼女の問いかけに対し、マリアは、ため息を浮かべた。相手は軍団長だったが、構いはしないだろう。彼女もそれを望んでここにきたのだ。
ガンディア軍が接収した建物の一室が、軍医マリア=スコールの医務室として貸し切られているのだ。いくつも並んだ寝台には病人ひとり寝てはいないし、広い空間にはマリアと女軍団長のふたりしかいなかった。部屋の片隅に配置した机の上で医学書を開いているのだが、いまは見ることも敵わなかった。医学書に顔を向けると、隣の女軍団長に強引に顔の向きを変えられるからだ。
「世間話のついでじゃないの」
当然のように言い返してきた彼女の名は、アレグリア=シーンという。ガンディア軍ガンディア方面軍第四軍団長であり、ガンディア唯一の女性軍団長だった。もっとも、女性の高官といえば、右眼将軍アスタル=ラナディースがいるし、大将軍の腹心ジル=バラムも有名だ。ガンディア軍の中で特別珍しいというわけでもない。女性兵も少なすぎるという程でもないし、男に比べて女性兵の割合が少なくなるのは必然だ。
腰の辺りまで伸ばした黒髪がつややかなのは、彼女が日頃から手入れを怠っていない証拠だろう。肌の手入れも入念にされており、眉毛も綺麗に整えられている。軍団長には見た目も重要なのだ、というのはアレグリアの持論であり、ガンディア方面軍第四軍団が彼女の支持者で構成されていることを考えると、それもあながち間違いではない。年齢はマリアよりひとつふたつ下だったはずだ。独自に改良を加えた真紅の軍服が、彼女の胸を強調し、谷間を見せつけている。
「あたしが口を出すようじゃ、あんたの部下が可哀想だろ?」
「そんな部下に囲まれている可哀想なわたしの身にもなってよー」
「冗談じゃないよ、まったく」
寄りかかってきた彼女を邪険に振り払いながら、マリアは嘆息するしかなかった。軍団長らしからぬアレグリアの振る舞いは、昔からなにひとつ変わっていない。それ自体は嬉しくもあるのだが、同時に、彼女が軍団長としてやっていけるのか心配にもなるのだ。
アレグリアが第四軍団長に抜擢されたのは、当然、それまでの戦功や成果、実力や人格を考慮されてのものなのだろう。彼女が、ガンディア軍の他の軍団長と比較しても遜色のない人物だというのは、マリアにもわかっている。マーシェス=デイドロ、シギル=クロッター、ロック=フォックス、ケイト=エリグリッサといった軍団長たちと肩を並べるだけの実力はあるのだ。だからこそ、千人の兵を司る軍団長に選出されている。
そして、この二月あまりの間で、彼女は第四軍団の部隊長や兵士たちの心を虜にしてしまっていた。人心を掌握する才能に長けているのか、それとも、彼女の妖艶さが軍人たちの心を鷲掴みにしてしまったのか。両方かもしれない。
マリアとふたりきりのときは、軍団長らしさの片鱗さえ見せてくれないのだが。
「しかし、本当に攻めてくるのかねえ」
「スマアダで動きがあったのは事実よ」
アレグリアの目が急に真剣さを帯びたのは、冗談では済まされない話だからかもしれない。マリアは姿勢を正すと、改めて彼女と向き合った。
アレグリアがマリアの医務室に持ち込んできたのは、スマアダ駐屯の龍鱗軍に動きがあり、すぐにでも攻め寄せてくるかもしれないという情報だった。
スマアダは、ザルワーン南東部の都市だ。ナグラシアからは二日ほどの位置にあり、ジベルとベレルという二国の国境に近いという位置関係上、ガンディア軍の戦略から除外されていた。制圧する旨味も少ない上、進路から大きく外れることになるからだ。北進軍、西進軍、中央軍のほかにさらにひとつの軍勢を作れるだけの余力があれば、スマアダの制圧にも乗り出したかもしれない。
スマアダを捨て置いた理由のひとつは、スマアダがジベルとの国境に近いということもある。ジベルは以前よりザルワーンに敵対的であり、付け入る隙さえあれば、すぐにでも攻め込んできそうな空気があった。スマアダの戦力は、常にジベルの動向を警戒していなければならず、とてもガンディア軍に対して行動を起こしてくるとは考えられなかったのだ。
その都市に異変があった、という情報がアレグリアの元に飛び込んできたのは今朝のことだという話だ。彼女がスマアダに飛ばしていた斥候が、スマアダの西門が開かれ、部隊が出てくるのを目撃したというのだ。それが事実であれば、スマアダの龍鱗軍が動き出したということに他ならない。そして、スマアダの西門から出てきたということは、ナグラシアを目指して出発したという可能性がもっとも高い。
もちろん、ナグラシア以外にも向かう先はある。が、スマアダから一番近いのはナグラシアなのだ。スマアダの軍勢が攻撃するとすれば、ナグラシア以外には考えにくい。ナグラシアをザルワーンの手に奪還すれば、ガンディア軍の補給線をひとつ潰すことができるというのもある。マイラムからナグラシアに届いた補給物資は、前線の各部隊に向かって続々と送られているのだ。それが失われれば、戦線の維持も厳しくなる。
とはいえ、バハンダールを制圧したことで、レコンダールからバハンダール、バハンダールから西進軍へと至る補給線が結ばれており、そちらが無事であれば、まだまだ戦えるだろうが。
今日は九月二十一日だ。斥候がいくら早馬を飛ばしたところで、情報の伝達までには多少の日数が経過している。ナグラシアからスマアダまでの二日の距離を早馬でどれだけ縮められるものなのか、マリアには想像もつかない。
部屋の外から、どたどたという物音が聞こえてくる。
「ぐっ、軍団長! こんなところにいたんですか!」
不意に、挨拶もなしに医務室に飛び込んできたのは、第四軍団の部隊長だった。マリアは一瞬睨んでしまったものの、部隊長の表情から、怒っている場合ではないということを悟る。彼は、切迫していた。
しかし、アレグリアのほうが眉を顰めた。
「こんなところって、失礼よ」
「気にしないよ。こんなところはこんなところさ」
「姉さんがそういうならそれでいいけど。で、どうしたの?」
「は、はいっ! ザルワーンの軍勢がナグラシアに向かって進軍中とのこと!」
部隊長が声を裏返らせたのは、アレグリアを目の前にして緊張したからだろう。彼女を前に失態を見せたくないという思いが、緊張感を高めているのだ。
マリアは、その報告に驚きはしなかった。さっきから話していたのはそのことなのだ。いつ攻めてくるか。本当に攻め寄せてくるのか。それが確定したというだけのことだ。ナグラシアが戦場になる。暗鬱になりかけて、頭を振る。軍医がそれではいけない、とは思うのだが、戦いというものを好きにはなれないのも事実だ。負傷者が増大すれば、それだけ彼女の負担も膨れ上がる。が、それはいい。医者なのだ。そこに不満はない。
不満があるとすれば、医者は神ではないということだ。
すべての傷を癒やすこともできなければ、瀕死の兵士の命を救うことだってできない。救える命を救うことしかできないのだ。ときには見捨てなければならないこともある。決断を迫られ、その判断が正しかったのかどうかで懊悩するのだ。もちろん、そんなことは戦場に限らないのだろうが。
「スマアダの軍勢?」
アレグリアが尋ねたのは、別の街の部隊の可能性もないとは言い切れなかったからだろう。
「そのようです!」
「迎撃の用意を。って、いわなくても始めているわよね?」
「はっ! 各部隊長、迎撃準備に動いております!」
「あなたも所定位置に。わたしは作戦室に向かうわ」
「はっ!」
部隊長は、大袈裟にガンディア式の敬礼をすると、医務室から慌ただしく出て行った。結局、マリアに目を合わせることは一度もなかったが、いまはそんなことはどうでもいい。
マリアは、髪をかき上げるアレグリアの横顔を見つめながら、にやりとした。無駄に心配して損をした、という思いもあるにはあるのだが、彼女が部下を信用せず、軍医を頼ってきたわけでもないことがわかったのだ。安堵するとともに、アレグリアがここに来たのは、戦闘前の緊張から逃れるためかもしれないと思い至った。マリアのことを姉と慕う彼女にしてみれば、ナグラシアでもっとも落ち着ける場所というのはここしかないのかもしれない。
「なんだ、準備していたんじゃないか」
「そりゃあ、軍団長ですもの。報告が入った時点で対策を立てないなんて、無能にも程があるでしょ」
「はは、いうじゃないか」
笑いながら、軍団長がゆっくりと伸びをする様を眺める。体を反らせると、彼女の豊満な胸がより強調される。元より改造軍服によって強調されていたのだ。服がはち切れんばかりに見えた。彼女の部下の男どもがこの場にいれば、鼻の下を伸ばして凝視していたに違いない。その様子を女性陣が蔑んだ目で見ている、という状況まで妄想して、マリアは頭を振った。
アレグリアが席を立ったので、マリアも椅子から腰を浮かせた。軍団長が戦場に赴こうというのだ。見送るのは、当然のことだ。
「ご武運を」
「らしくないわよ、姉さん」
マリアが敬礼すると、アレグリアが歯を見せて笑った。
「そうかい?」
「だって、姉さんだったらわたしのおしりを叩くくらいしそうだもの」
笑顔のまま、彼女はマリアに抱きついてきた。マリアはアレグリアの腰を抱き、髪を撫でてやる。体が微妙に震えている。恐怖と緊張が、彼女の肉体を支配しているのだろう。いつものことだ。彼女ほど戦場が向かない軍人も少ない。アレグリアは、その昔、血を見るだけで気を失うような少女だった。血なまぐさい戦いには向いていないのだ。しかし、才能も実力もあり、いくつもの戦場を経験してきたアレグリアは、少女のころよりは強くなっているはずだった。それでも、戦闘を前にすれば震えが来てしまうものらしい。
「そのほうが気楽でいいかもしれないけどね」
「そうよ。気楽に待っていて、負けはしないから」
アレグリアは、マリアの腕から離れると、笑顔を消した。ガンディア軍ガンディア方面軍第四軍団長アレグリア=シーンとしての彼女がそこにあった。