第二千七百七十八話 竜の話(一)
「“竜の庭”は、北東の地。東ヴァシュタリア大陸の北部一帯がそれだ」
ラムレシア=ユーファ・ドラースが説明し始めたことについて、ファリアは何度か聞いた覚えがあった。
“竜の庭”とは、銀衣の霊帝ラングウィン=シルフェ・ドラースが統治する領域のことだが、以前、だれからその話を聞いたかといえば、ラムレス=サイファ・ドラースからだ。ラムレスは、戦女神ファリア=アスラリアをこの混迷の時代における同盟者と定め、故に力を貸してくれていたのだが、情報提供もその一環だった。竜属にとって人間たちの置かれている状況、各国の現状など詳しく知る由もないが、竜属のことであれば話は別だった。ラムレスは、ラングウィンの勢力について、知る限りの情報を与えてくれたものだった。
「“竜の庭”は、ラングウィンが治めるだけあって、極めて安定した秩序によって支配されている。そこには竜属も人属もない。動植物たちも、な。銀衣の霊帝という絶対者の下に等しい命として扱われ、庇護下に置かれているのだ」
「確か、そういう話よね」
広い卓の上に広げられた世界地図、その右上部を見つめながらうなずく。この世界地図は、かつてラムレスがみずからの眷属に命じて集めた情報を元に描き出されたものであり、ファリアには友好の証としてユフィーリアから手渡されたものだった。“大破壊”後の変わり果てた世界を知るには、当時はこれが一番だった。ただ、ラムレシアとその眷属の活動範囲が詳しく記された地図は、完全と言い切れる代物ではなく、ウルクナクト号に記録された世界地図に比べれば不明瞭な部分は多い。とはいえ、“大破壊”以前はヴァシュタリア共同体の勢力圏だった三つのヴァシュタリア大陸においては、しっかりと調べ尽くされている。ヴァシュタリア勢力圏こそ、ラムレスら竜属の住処だったからだ。
竜は、もっぱら北を住処としたが、それはどうやらラムレスとその眷属だけの話ではないらしい。ラングウィンが現在、東ヴァシュタリア大陸北部を勢力下に置いているのも、ラングウィンが北の地に住み着いていたことが大きな理由であるらしいのだ。さらにはラグナシア=エルム・ドラースも、北の地を住処としていたといい、かつてヴァシュタリア勢力圏は、三界の竜王の住処が同時に存在していたという。
もっとも、三界の竜王は、遙か原初より一度たりとも敵対し合ったことはなく、たとえそれぞれの住処たる領域が重なるようなことがあったとしても、互いに譲り合ったり、話し合いで解決していたとのことだ。狂王と呼ばれたラムレスですら、そうらしい。竜属というのは、ファリアたち人間が想像しているよりも余程理性的で、知的な種族のようだ。
「ラングウィンは、法と秩序を司る。自由と混沌を司るわたしとは、すべてにおいて真逆の存在といっていい。故にわたしとラングウィンの相性は悪いのだが……以前もいったが、わたしは、ラングウィンに助けられ、彼女の庇護下で力の回復を待った」
ラムレシアは、窓枠に腰を下ろすようにして、座っている。場所は戦宮、ファリアの執務室だ。扉もなければ窓の戸もなく、壁や柱以外の遮蔽物の存在しない、あらゆる意味で風通しのいい建物であるところの戦宮は、真冬が近づくにつれて寒さが増していく。空中都に存在する多くの家々は、戦宮と同様に遙か昔から存在する遺跡群を改修し、再利用しているものだが、だからといって戦宮と同じように扉や窓を取り付けていないわけではない。
空中都は、リョフ山の頂にある。その気温たるや年中低く、わずかばかりの夏場だけが比較的温かいといっても過言ではないのだ。そんな場所で一切防寒に気を使わずに過ごすなど不可能であり、そういう意味でも、彼女は先代戦女神を尊敬した。先代戦女神、つまりファリアの祖母ファリア=バルディッシュは、どれだけ気温が低くなろうと、どれだけ周囲から声が上がろうと、市民さえもが心配しようとも、戦宮の構造に手を加えようとはしなかった。戦宮は、戦女神の住居であり、リョハンの中心といっても過言ではないが、だからこそ、風通しをよくしておく必要があり、一般市民さえ立ち入ることができ、戦女神と言葉を交わす機会を得られるようにしておきたい、というのが初代戦女神の願いなのだ。
ファリアは、分厚い防寒服に身を包みこむことで、この年中寒い住居で過ごすことができていたものの、祖母がここまでの防寒対策をした記憶がなかった。ラムレシアほどの薄着ではないにせよ、真冬だろうと厚着程度で過ごしていた覚えがある。記憶違いかもしれないが、だとしても、ファリアが祖母を尊敬し直すには十分過ぎるのが、戦宮の気温の低さなのだ。
「その間、わたしは何度となくラングウィンと話し合い、彼女の理解を深めることができた。ラムレスには出来なかったことだな」
「そうなの?」
ファリアにとっては驚くべきことを平然と告げてくるのが、ラムレシアだった。ユフィーリアの面影を多いに残す竜王は、その美貌でもって柔からに笑う。
「ああ。三界の竜王は、生まれ落ちたときからわかり合うということを放棄していたからな」
「ええ?」
「何万年、何億年というときの中で、まともに話し合ったのは、三度だけだ」
「たった三回……」
茫然とするのは、そのあまりの少なさだ。マユリ神などの話から想像するに、三界の竜王とは、このイルス・ヴァレにおける神のような存在であり、その三柱なのだ。三柱の神々。その話し合いすら、これまで三度しか行われていないというのは、考えがたいことだった。
「そしてその三回とも、この世界の命運を決定づけるものだった」
「創世回帰……」
「ご明察」
ラムレシアが微笑む。その笑顔は、ユフィーリアの頃となんら変わらなかったし、だからこそファリアは彼女をユフィーリアとして扱った。それが彼女にとっても心地いいらしいことは、彼女がファリアの側にばかりいることからもなんとはなしに伝わってくる。それは、ファリアにとっても嬉しいことだ。彼女が生きていて、こうして以前のように親友同然に振る舞えるのだ。これほど喜ばしいことはない。
「三界の竜王が一堂に会し、顔を突き合わせ、話し合うのは、世界の行く末についてだけだった。それはなぜかといえば、世界のことなど、この世界に生まれ落ちた生命、種族に任せるべきだという考えが根底にあったからだ。故にラムレスもラングウィンもラグナシアも、いずれも世界に関わりを持たず、みずからの住処に閉じこもり、世界の成長を見守り続けた」
「でも、そうはいかなくなった」
「そうだ。当時のイルス・ヴァレには、神々が残した創造物が数多にあり、その暴走が目に余るものだった。神々がこの世界を去るのも当然といえるくらいにな」
「神々……?」
ファリアが思わずつぶやいたのは、初めて聞く話だったからだ。イルス・ヴァレに神々が存在したなどという話は、ついぞ聞いたことがない。いや、マリク神やニヴェルカイン神のような例がある以上、イルス・ヴァレに神が存在したとしてもおかしくはないのだが、彼女の話から想像する限りは、どうやら元々、三界の竜王より先に神々が存在したかのようだ。
「神去りし後、残された世界が終わりゆくのを見届けるのが、三界の竜王の役割だったのかもしれない」
「ええ?」
「無論、世界が現在も存在している以上、そうはならなかったのだがな」
ラムレシアが窓の外を見遣る。燦然と降り注ぐ陽光は、この気温の低い部屋とは別世界の出来事のように暖かに見えた。
いま聞いている話のように、だ。
ラムレシアが語る話は、それこそ別世界の出来事のように実感の湧かないものだった。




