第二千七百七十六話 翼(二)
ルウファの頬を涙が伝う。
「……だれも責めないさ」
セツナは、やっとの想いで口を開き、想いを伝えた。
「ロナンはおまえのたったひとりの弟だろ? 肉親を殺せる人間なんて、そうはいない。戦国乱世といったって、だれもが肉親と相争っているわけではないし、実の家族、兄弟を手にかけられる人間がどれほどいる。覚悟の有無じゃなく、な」
決意や覚悟があれば親兄弟を殺せるかといえば、そうではあるまい。肉親を殺すなど、手にかけるなど、並大抵のことではない。尋常のことではないのだ。
かつてミリュウがそうだった。実の父親を心の底から憎しみ、殺すためだけにその刃を研ぎ澄まし、機会を窺い、実行に移そうとした。だが、できなかった。ファリアもまた、母親の姿となった敵を手にかけることはできなかった。だれだってそうだ。実の家族を手にかけるなど、簡単にできることではないのだ。
ときは、戦国乱世。親兄弟が敵味方に分かれ、血で血を洗う闘争を繰り広げる時代。それでも、すべての人間がそのような意識をもって戦っているわけではないし、実際のところ、血縁が相争う事自体、それほど多い事例ではないのがこの時代だったのだ。
特にルウファは、ロナンを溺愛していたといっても過言ではなかった。ロナンの天真爛漫ぶりに手を焼き、とくに口悪く叱り、窘めることはあっても、それはいわば愛情の裏返しだ。愛しているからこそ、ロナンの言動を注意し、忠告していたのだ。兄として、しっかりと弟を見ていた。
その愛情の深さを想えば、あの瞬間、手を止めてしまうのは致し方のないことだ。
そして、目の前で殺されたことの怒りや恨みをぶつけられたとして、文句もいえない。いうつもりもない。ただ受け入れ、認めるだけだ。
「だからって、隊長に手を汚させてしまったんですよ、俺は」
「……俺の手は、もうとっくに血まみれだよ」
セツナは、苦笑しつつもどういう表情をすればいいのかわからず、なんともいえない顔になるのを自覚した。この手は、肌の色が見えなくなるくらいに血みどろだ。もちろん、現実にははっきりと手のひらが見えていたし、指紋だって血管だってしっかりとわかる。だが、血塗られているのも事実だ。これまでどれほどの命を奪ってきたのか数え切れなかった。大量の返り血を浴び、血の中に生を求め、喘ぎ、駆け抜けてきた。それが正しいことだと想った。
それが、唯一の道だった。
そう信じて生き抜いた挙げ句、わかったことがある。
それは、奪う必要のない命まで奪ってきたのだろうという事実だ。そしてその事実に気づいたとき、セツナは、茫然としたものだ。もはや取り返すことは出来ない。もう二度と、取り戻せない。なにもかもが遅すぎる。遅すぎ、遠すぎるのだ。
だから、いまさらのように命を奪うことを躊躇い、極力避けるようにしているのだが、そんなもので過去が許されると想ってもいない。
「いまさらそれがひとつやふたつ増えたところで、どうということはないさ」
レミリオンの、ロナンの命を軽く見ているわけではない。
同じ命だ。
これまで奪ってきた数多の命と同じ命なのだ。
違うところがあるとすればそれは、レミリオンが獅徒であり、死者であるということ、それだけだ。そして、レミリオンは、たとえいま滅ぼさなくとも、いずれ滅び去った事実があるということ。
獅徒の命の源は、獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ザイオンだ。獅子神皇を討ち滅ぼせば、獅徒たちの命も消えて失せる。
ヴィシュタルたちも滅び去るのだ。
「隊長……」
「俺は、おまえが俺を恨まないことのほうが不思議だよ。俺はおまえに恨まれて、憎まれて当然のことをしたんだ。怒りをぶつけられても文句もいえねえ」
自分だったら、どうしただろう。
たとえば実の家族が斃さなければならない敵として立ちはだかり、その好機が訪れたというのになにもできないとき、別のだれかによって討ち斃されたとしたら、どのような感情を抱いたか。セツナは、ルウファのどうにも情けない顔を見つめながら考える。いまにも降り出しそうな曇り空のような、そんな不安定な表情をしている彼を見るのは、そうあることではなかった。いつも明るく快活で、お調子者のように振る舞うのが彼だ。そんな彼が涙すら流している様を見ると、どうにも胸が締め付けられてならない。
それくらいのことをしたのだ、と想えば、納得するほかないし、いうことはない。
「隊長を恨むだなんてそんなこと……そんな馬鹿げたこと、するわけないじゃないですか」
「弟を殺したんだぞ」
「隊長が斃したのは、獅徒レミリオンですよ」
「……ルウファ」
セツナは、彼の真っ直ぐなまなざしを受けて、その目を見つめ返した。決然と告げてきた彼の瞳は、もはや揺れてはいない。
「ロナン=バルガザールは、俺の弟は、“大破壊”に巻き込まれ、命を落としたんです。だから、あれは弟なんかじゃあないんです。獅徒レミリオンは、ただの敵なんですよ。その敵を斃した隊長を恨むだなんてお門違いも甚だしいじゃあないですか」
ルウファが、強い口調で言ってきたのは、彼の中の複雑な感情に蹴りをつけるためのように想えてならなかった。言葉ではそういったが、内心では様々な感情がせめぎ合っていることは想像に難くない。レミリオンをロナンとして認識し、殺せなかったのは、ルウファ自身なのだ。ルウファが一番、レミリオンをロナンとして見ていた。彼が、レミリオンを滅ぼされたことに関して、なんのわだかまりも持っていないとは思えなかった。それでも彼は、自分の心に折り合いをつけようとしているのだ。
彼の心の中の葛藤をその表情から汲み取り、セツナは、瞼を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、レミリオンの最後であり、ルウファの絶叫する様だ。弟を殺せないことに懊悩していたルウファに訪れた絶望の瞬間。彼がそのとき、セツナにどのような感情を抱いたのかは、想像できなくはない。そしてその光景は終生忘れることはないだろう。
「俺は、いまも隊長を尊敬しているんです」
「尊敬? 俺を?」
「ええ、昔からね」
彼は、片目を閉じて、どこかいたずらっぽく微笑んだ。その柔らかな表情がセツナの心を癒やす。
「隊長。あなたは昔から、なにもかもひとりで背負い込もうとしがちだった。ガンディアで最強だったんだから、ある意味当然といえるのかもしれないけれど、でもそれは、当時少年のあなたにはあまりに重い荷だったというのは、考えるまでもないことでしょう。だから俺たちはいつだってあなたの力になりたいと想っていた。俺たちです。俺だけじゃない。ファリアさんや、ミリュウちゃん、レムちゃん――あのとき、《獅子の尾》にいた皆が、そう想っていたはずです」
ルウファの想い出語りは、セツナを多少なりとも感傷的にさせた。いまや遠い記憶が蘇ってくるかのようだ。《獅子の尾》の日々は、戦いの日々も同義だ。休みもあったが、それ以上に血なまぐさい戦いの記憶のほうが強く、鮮明だ。戦いの中にこそ自分の居場所を見つけたのだから、当然といえる。
「それでもあなたは、ひとり、前を突き進んだ。だれよりも先頭をひた走り、使命を全うした。それがあなたの使命であり、役割だから。あなたはどれだけ傷だらけになり、血みどろになろうとも、文句ひとついわず、不満ひとつ漏らさなかった。まるでそれがすべてであるかのように」
ルウファの言葉は、セツナにとっての事実なのだから、返す言葉もない。
「それが俺には眩しくて、でも、痛々しくて……ときどき、見ていられなくなった」
セツナは、その言葉を聞いて、なんだか嬉しくなった。初めて、ルウファが本音を話してくれたような気がしたのだ。もちろん、これまでだって本心の言葉だったはずだが、それでもここまで心情を吐露してくれたことはなかった気がする。状況や立場がそうさせなかったのだろう、きっと。
そして彼は、こういった。
「俺は、あなたの翼になりたかった」
翼。
彼のその言葉に込める想いの強さに、セツナは、心の奥底から力が湧く想いがした。




