第二千七百七十四話 愛の虜囚(十六)
「あなたには、覚悟が足りないわ」
すべてが終わったあと、メイルオブドーターが、囁くようにいった。厚い唇が艶めかしく動くたび、げっそりとした気分になるのは気のせいではない。精も根も尽き果てて、もはや話を聞いているのもやっとといった状態だった。ただ、敗北感はない。なにせ、勝敗を競い、敗れ去ったわけではないのだ。ただ試されただけのことだ。そして、どうやらその試練には合格したらしい。
というのも、セツナに跨がったままのメイルオブドーターの表情が満ち足りたものであり、セツナを認めるようなものだったからだ。その姿は、女教師を想起させるスーツ姿から様々な変身を経て、金色の装束に戻り、いまや漆黒の軽鎧に変わっている。しかし、その軽鎧の形状は、セツナが身に纏うものとは大いに異なるものであり、彼女の肉感的な肢体を強調する形状となっていた。胸当てと肩当て、腰当てだけのそれを軽鎧などと読んでいいのかどうかすら不明だが。しかし、それが本来のメイルオブドーターの形状であるらしいということは、彼女との親和性から窺い知れる。
セツナが召喚した際の軽鎧は彼用の姿形だったりするのだろう。そんなことを考える余裕があるのも、敗北感もなければ試練に失敗したという感覚もなかったからだ。
失格の烙印を押されたのであれば、ここですべてが水泡と帰すか、最初からやり直しになるはずだ。だが、どうもそうではない。むしろ、メイルオブドーターの恍惚とした表情を見る限りでは、彼女の試練には合格したとしか思えなかった。
そのわりには発言が物騒に聞こえるのは、気のせいではあるまい。
「愛を失う覚悟。愛を奪われる覚悟。愛を隔てる覚悟。愛を断ち切る覚悟」
(そりゃあそうだろ)
言い返したかったが、なにもいえなかった。いう気力が湧かないのだ。精根尽き果て、指一本動かすこともままならない。あれからどれほどの時間、彼女の試練を戦っていたのかわからないのだ。それこそ、数時間で済む話ではない。何十時間、いや、何百時間もの長きに渡り、休憩時間も与えられることなく、搾り尽くされるようにして戦い抜いた。
これが試練であり、魂の鍛錬に繋がるのかどうかと聞かれると、繋がるのだと信じたい、としかいえない。
「あなたには、あの偽者たちを傷つけることすらできないものね」
セツナの上で、魔女は笑う。しかも至極楽しそうに笑うものだから、不快感はなかった。いまやメイルオブドーターへの怒りはどこかへ消えて失せている。どういうわけなのか、セツナにもわからない。この数百時間の死闘が忘れさせたとでもいうのだろうか。
確かにこれほどの死闘を潜り抜ければ、彼女ともわかり合えたという気分にもなるものかもしれない。それが一方的かつ短絡的な勘違いに近い感情だとしても、そう想ってしまうのも無理はないくらいの激闘であり、魂の激突だった。
(悪いかよ)
胸中、ぼやく。
たとえファリアたちが偽者とわかりきっていても手が出せないのが、セツナという人間だった。偽者を傷つけるということは、ファリアたちを傷つけることに躊躇がないということではないか。そんな風に考えてしまうと、身が竦んだ。それで自体が悪化する可能性を考えることだってあったし、実際、そうなりかけたこともある。偽者に殺されそうになったことだってあるのだ。だのに、考えを改められない。
一度、レムを傷つけたことがある。
作戦のためとはいえ、彼女の体を切りつけたとき、セツナは自分を根底から否定するような痛みに耐えなければならなかった。レムがみずから望んだことだったし、彼女の立場を考えれば、たいした問題ではないはずだ。不老不滅の存在たる彼女には、その程度の傷、なんのこともない。瞬く間に消え去り、完全に癒える。だがそれでも、セツナには想像を絶するほどの精神的な痛みがあった。
愛するものを傷つけることほど、辛いことはない。
故に、だろう。
メイルオブドーターが不意に真剣なまなざしを向けてきた。
「たとえば、彼女たちが敵に回るようなことがあったとして、斃さなければ、殺さなければならなくなったとき、あなたはどうするのかしら」
(そんなことは――)
「ありえない?」
魔女は、セツナが胸中に浮かべようとした言葉を発し、小さく笑った。セツナの考えていることなどすべてお見通しだといわんばかりの、そんな表情。どこか優しくて、どこか儚げで、物憂げなまなざしだった。どういう意図で、どういう意味があるのかはわからない。
「ありえないことなんて、ありえないわ」
メイルオブドーターが、静かに告げてきた。
「あなたは黒き矛の使い手で、魔王の杖の護持者なんだもの。世界はあなたを敵と認定するでしょう。百万世界があなたの敵となる。あなたが愛し、あなたを愛するものたちとて、その運命を逃れることはできない」
「はっ……」
ようやく、声が出た。声を出す体力が戻ってきたのだ。想像以上の回復力だが、それはここが現実の世界ではないからにほかならない。そもそも、何百時間も死闘を続けることができたのも、ここが魂の力の世界だからであり、肉体的な力が意味を為さない世界だからだろう。肉体ではなく、心、精神、魂の力こそがすべてなのだ。故にあれほどの激闘に耐え抜き、試練を突破することができた。これがもし現実ならば、数十時間も持たずに尽きて果てたに違いない。人間の体力は、そこまで持つものではない。
悪魔ならば、話は別だが。
「だったら、どうもこうもねえよ」
「どうもこうもない?」
「俺が殺されることが最良なら、そうするさ」
それで彼女たちが幸せになるというのなら。それが彼女たちの望みとなったらな。それこそが唯一無二の道だというのなら。ほかに方法がなにひとつ存在しないのならば。
でなければ、道を探すだろうが、ほかに手段や方法が存在しないのであれば、致し方ない。
喜んで、この命を捧げよう。
それもまた、覚悟だ、と、セツナは想う。
メイルオブドーターは、目を細めた。
「……それがあなたなのよね」
まるでわかりきっていたかのように、いう。
「こればかりはどうしようもないわよね」
そして、セツナに跨がったまま、体を折り曲げ、顔を近づけてくる。長い黒髪が鼻先に触れ、そのまま顔を包み込んだのは、彼女の顔が鼻息がかかるほどの距離にまで接近してきたからだ。血のように紅い目がこちらを見つめている。瞳が揺れていた。
「知っているわ。でも、だから、少し哀しい。嬉しいけれど、哀しいわ」
そういった魔女の瞳から零れ落ちた涙がセツナの頬に当たった。
「なんで泣くんだよ」
「あなたは愛のために生き、愛のために死ぬ。それがあなたのすべて。だからわたしがもっともあなたに近いのよ」
彼女の言葉の意味を理解しようとする前に、彼女はいった。
「わたしはメイルオブドーター。色欲を司り、愛を謳うもの」
そして、唇を重ねてくると、セツナの口の中に舌ではなく、なにかまったく別のものが押し込まれてきて、彼はその違和感に顔をしかめた。すると、彼女は艶然と微笑みながら顔を離してみせる。口の中のものを吐き出してみると、それは桃色の鍵だった。
試練に合格した、というのだろうが。
セツナは、メイルオブドーターの頬を伝う涙の跡を見て、訝しんだ。
彼女はいったいなんなのか。
メイルオブドーターを始めとする六眷属は、魔王の杖の眷属だ。セツナとは無縁の存在であり、むしろ、敵愾心を抱いていてもおかしくはない。
だというのに、彼女はまるでセツナのことを思い遣ってくれているような、そんな気配さえあった。
死闘の最中からずっと感じていたことだ。
「あんたは――」
問いかけは、鍵の発した光とそれに伴う空間転移の中に掻き消えた。
つぎの試練へ、意識は飛ぶ。




