第二千七百七十二話 愛の虜囚(十四)
夢のようだ、といわざるを得ない。
愛する女性たちと同衾し、愛し合う。だれもが幸福に満ち、不服も不満も不信も不安も存在しない。平等な愛と幸福のみが存在するのだ。それ以上はなにもいらず、このまま夢のような日々が続けばそれだけで十分ではないか。
戦う必要などあるものか、と思う。
だれが好き好んで血を流したいものか。
だれが不要なまでの人殺しをして、自分の心も殺していきたいものか。
もううんざりだ。
これ以上、だれかを殺し、なにかを壊し、奪い続けることになんの意味があるというのか。ただ痛み、苦しみ、疲れ、傷つき、失い続けるだけではないのか。そんなことをして、いったいなんになるというのか。
「意味なんてないよ」
ミリュウがいった。その熱っぽいまなざしに見つめられると、なにも考えなくていいのではないか、と思えてくる。彼女がいまなにを考えているのかが伝わってくるのだ。抱きしめて欲しい、押し倒して欲しい、もっとその先へ――そんな彼女の願望が伝わってきて、自分の苦悩など、消え去っていってしまう。
「確かに、ないわね」
ファリアが肯定する。見れば、彼女もまた、濡れたような瞳でこちらを見つめていた。彼女も、求めている。セツナが本能の赴くままに行動し、自分をめちゃくちゃにしてくれる瞬間を待ち望んでいる。
「そうでございます」
「まったくその通りだぜ」
レムもシーラも、ミリュウの発言を肯定した。それぞれ、セツナを待ちかねている、とでもいわんばかりの表情だった。それだけが少しばかりの不満だろう。
不意に、視界が空転した。だれかがセツナを押し倒したのだ。だれでもない、四人が示し合わせ、同時に押し倒したのかもしれない。四人の顔が黄金色の天井を映すセツナの視界に入り込んできたことで、その想像が当たっていることを知る。
『いまが幸せなら、それでいいじゃない』
四人がいった。
いま、この瞬間は幸せだ。至福の時間といっていいだろう。どこを見ても愛しい女性ばかりであり、彼女たちの愛と幸福に満ちた表情は、格別なものだ。自分がなんのために生き、なんのために戦ってきたのかを考えれば、これ以上の幸福はないのではないか。
(最初は……)
最初は、違った。
イルス・ヴァレに召喚された当初、寄る辺なき異世界に右も左もわからぬまま放り出されたのだ。ただ、がむしゃらだった。がむしゃらに戦った。ガンディアのため、自分に居場所を与えてくれたレオンガンドのため、骨を粉にし、身を砕く想いで、戦い続けた。それがすべてだったし、それ以外にはなにもなかった。戦うこと以外に自分を表現する術がなかった。戦うことだけが自分の居場所を確保する手段だった。
戦い、斃し、屠り、勝利する。
そうしなければ、この異世界に自分の居場所はない。
居場所がなければ生きてはいけない。
強迫観念に近い感情が自分を突き動かしていた。
それがいつしか変わっていった。
ただ居場所のためだけではなく、居場所となるひとたちのためにと想うようになった。それがガンディアであり、《獅子の尾》だった。そこには確かな幸福があり、その幸福を護るためならば、どのような苦難だって乗り越えることができたし、どれほどの苦痛を味わっても耐え抜くことが出来た。
ひとは、なんのために生きているのか。
それは、ひとによって答えの異なるものだろう。
金か。名誉か。地位か。それともひとか。
ひとの数だけ理由があり、答えがある。
では、自分は。
セツナは、どうなのだろう。
なんのために生き、なんのために戦ってきたのか。
「いまが幸せなら」
それでいいのか。
そんな刹那的なもののために命を賭けてきたのか。血反吐を吐き、絶望的な死を乗り越えてきたのか。無論、それが必ずしも悪いものだとは想わないし、刹那的な幸福のためだけに生きる人間がいてもいいとは想う。だが、それは違う。それは、自分ではないのだ。
セツナではない。
セツナは、刹那的な生き方をすることを願われてつけられた名ではない。一瞬一瞬を大切にするためにこそつけられた名前であり、刹那的幸福、刹那的快楽のために人生を捧げるのとは真逆といっていい考え方だ。
この一瞬に溺れてはならない――。
「愛してる」
「大好きよ」
「お慕い申し上げております」
「……好き」
彼女たちの声が聞こえ、思索を断ち切ろうとする。その上、なにかの力によって強引にこじ開けられた瞼を閉じることもできず、四人の肢体が迫り来るのを見つめなければならなかった。下着同然の黄金色の装束を身に纏った四人の美女が、寝台に仰向けに押し倒されたセツナにのしかかってきているのだ。それを幸福といわずして、なんというのか。男からしてみれば、楽園の光景といっても過言ではあるまい。その四人が四人、嫌々やっているわけでも、誰かに命じられて実行しているわけでもなく、本心でもってセツナに覆い被さろうとしているのだから、たまらない。
たまらない、のだが、セツナは、どうにも空虚な気分だった。ついさっきまでの盛り上がりは急激に冷え込み、薄ら寒さすら感じていた。もちろん、彼女たちがとてつもなく魅力的で、男ならば涎を垂らして喜ぶような状況だということはわかっている。ファリア、ミリュウ、レム、シーラ、異なる魅力を持つ四人の美女が全身全霊を込めて奉仕してくれようというのだ。興奮しない男などいまい。
だから、彼は困惑する。
「俺はなにをしている?」
「なにって……まだなにもしていないけど?」
「そうでございます。お楽しみはこれからにございますよ、御主人様」
「そしてそれはこれから先、未来永劫に続くのよ」
「永遠にだぜ、喜べよ」
だれもが幸福に満ちた表情でいってくる。
「永遠に」
反芻し、セツナは憮然とした。
「つまり、帰れないってことか」
「帰る?」
「なにいってんの?」
「どこに帰るというのでございます?」
「俺たちを置いて、どこに帰るんだよ」
「そうよ、ここがあたしたちの居場所でしょ?」
「居場所……? ここが? ここが俺の居場所?」
呆然と、彼は上体を起こした。その勢いの凄まじさによって四人が四人、嬌声を上げながら寝台に倒れ込んだのは、それさえも愉しもうという意識が彼女たちを支配しているからだろう。が、そんなことはお構いなしにセツナは周囲を見回した。ミリュウとレムが勢いよく飛びかかってくるのを尻目に、黄金の神殿にも似た空間に違和感を覚える。こんな見知らぬ場所が自分の居場所だというのか。
違う。
頭を振ろうとして、視界が空転した。またしても押し倒されたのだが、寝台の厚みと弾力のおかげで痛みはなかった。それどころかミリュウの肉感的な肢体に押し潰されそうになることの幸福感たるや、尋常ではなかったし、このまま胸に圧迫されるのも悪くないと思えるほどだった。
「今度は離さないわよ!」
「わたくしも!」
「俺だって……だな」
「そんながっつかなくても、セツナは逃げないわよ。ねえ? セツナ」
ミリュウに続き、レム、シーラとのし掛かってくるも、ファリアだけは遠慮気味だった。ファリアらしいといえばファリアらしい反応だった。
(らしい……か)
いかにもな言動はなにもファリアに限った話ではない。ミリュウもレムもシーラも、セツナが知っている彼女たちそのものといっていい言動ばかりをしていた。それはそうだろう。これはセツナに与えられた試練だ。精巧に作られた偽者であり、その元となっているのはセツナの記憶。故にこそ、彼女たちの言動は極めて本物に似ている。
ただ、一点を除いて。
そしてその一点こそが違和感を生み、セツナの意識を覚醒させるのだ。
「逃げなくてもさあ、もういいじゃない。散々我慢したんだから」
「そうでございます。いまのいままでずっと我慢させられていたのですよ?」
「まったくその通りだな」
「……あなたたちにはそれ以外考えることはないのかしら」
「ほかに考えることなんてある? これから先あたしたちはずっとここにいるのよ」
「そりゃあそうだけど」
ファリアまでもが納得するこの状況は、受け入れたならばまさに至福の楽園となるのかもしれない。それこそ、命尽きるまで彼女たちと戯れ続けることだってできるのだろう。
だがそれはまやかしだ。
地獄の上に築かれた偽りの楽園に過ぎない。




