第二千七百七十話 愛の虜囚(十二)
扉を閉じた昇降機は、加速度的な急上昇を始める。
なんともいえない浮遊感と違和感に苛まれるのもこれで五度目となる。
百十一階ごとに試練が待ち受けているのはわかりきっているが、しかし、それがどこまで続くのかはわかったものではないし、九百九十九階まで上り続けるというのは勘弁願いたかった。
百十一階、二百二十二階、三百三十三階ときて、四百四十四階の試練を辛くも突破してきたのだ。最初こそ簡単なものだったが、二百二十二階以降となると、ともすれば魅入られ、夢に溺れそうになるほどの罠が待ち構えていた。
ファリア、ミリュウ、レム、シーラ。
これまで試練として立ちはだかったのは、いずれも魅力的な女性だ。もし、セツナとなんの関わりもなければ、彼女たちと知り合い、恋仲になろうとする男は掃いて捨てるほどに現れたに違いない。そんな彼女たちの好意や愛情に気づいていないセツナではなかったし、彼女たち全員を幸せにしなければならないという使命感にも似た想いを抱いてもいる。だからこそ、偽者に身も心も許すわけにはいかないのだが、とはいえ、許しかけた自分がいることを忘れてもいけない。
(術中に嵌まりつつあるというわけか)
音もなく上り続ける昇降機の中で、彼は拳を握った。ファリアにせよ、ミリュウにせよ、レム、シーラにしてもそうだが、いずれも、彼女たちの偽者に過ぎない。しかも、セツナの記憶から構築された偽者であり、それ故、セツナの心に訴えかけるものが強いようだった。つまり、偽者たちは得てしてセツナの心の琴線に触れる言動や仕草を用いてくるのだ。
セツナの弱点を理解し、そこを精確に突いてきている。
(気をしっかり持てよ、俺)
自分に強く言い聞かせたところで、それが意味を為すとは想いがたい。
なぜならば、相手はこちらの弱点を知り尽くしていて、そこを突くためならば偽者をどういう風にだって使うことができるのだ。どれだけ気をつけていても、心の隙を突かれれば、脆くも崩れ去るのが人間というものだ。特にこういう状況に慣れていないセツナにとっては、なにもかもが脅威となった。
昇降機が止まった。
電光表示板は、五百五十五階を示している。
扉が開くと、小さな空間が横たわっていた。通路とも小部屋とも違う、なんともいえない空間だ。その先には黄金色の壁があり、壁の中心には大きな扉があった。扉は両開きで、それもまた黄金で出来ているようだ。扉には肉感的な肢体を誇る女たちが輪を為すように彫刻されているのだが、それはなまめかしいというよりは芸術的なものに見えた。
(趣味悪ぃな)
セツナは、昇降機を降りると、背後で昇降機の扉が閉じる音を聞いた。ふと、振り向くと、昇降機は影も形もなくなっており、広い空間に様変わりしていることを知る。まるで夢でも見ているような気分だが、この建物に入ってからというもの、ずっとそんな感じだ。慣れている。
しかし、どうにもこれまでの階層とは雰囲気の異なる気がした。これまでは、階層ごとに異なる迷宮を抜け、最奥の部屋に辿り着く必要があったのだ。そして、最奥の部屋は一号室の札が掲げられていた。だが、目の前の部屋には、一号室という札はなかったはずだ。
前方に向き直り、扉を見遣っても、札は見当たらない。もしかすると、扉の先に迷宮が広がっているのかもしれない。そう思うと、このこれまでとは異なる雰囲気にも、なんの意味も理由もなかったりするのではないか。各階層の迷宮が通過するためだけのなんの意味もない空間だったように。
考えていても埒が明かない、と、彼は扉に歩み寄った。扉に刻まれた女性たちの裸体は、近くで見ても、芸術作品として受け止めざるを得ない。と、思いきや、彼はあることに気づき、愕然とした。
(どういう意図だ)
試練の主に問い質したくなったのは、扉に彫刻された裸の女性たちは、セツナのよく知る人物ばかりだったからだ。これまでに偽者として立ちはだかったファリア、ミリュウ、レム、シーラは無論のこと、エリナやマリア、人間態のラグナ、ウルクにエリルアルム、なぜかアズマリアまでもが裸体の輪に加えられていた。なぜそれがわかるかといえば、顔立ちもはっきりとわかるくらい完璧に彫刻されていたからであり、それは体型の差違にも現れている。そしてその十人が輪を織り成すように配置されているのだが、その配置に意味があるのか、どうか。
右扉下部にファリアが配置され、その左上方にレム、エリナ、ラグナの順に並び、エリルアルムが右扉最上段に描かれている。エリルアルムの隣、左扉最上段にはアズマリアが刻まれ、その下方にウルク、マリア、シーラの順で並び、右扉下部のミリュウへ至る。なんの意図か、どんな意味があるのかもわからない輪ではあるが、美しい芸術品のようにしか見えない分、増しといっていいのだろう。
しかしながら、両開きの扉の取っ手は、ファリアとミリュウの乳房の位置にあり、その事実を目の当たりにした瞬間、セツナは、この扉の設計者の趣味の悪さに反吐が出る想いがした。
(とはいえ)
試練を突破しなければならない以上、この扉を開けるしかない。
セツナは、ファリアとミリュウの彫刻がせめてこちらを向いていないことに胸を撫で下ろして、両方の取っ手に触れた。軽く押し開こうとするも、かなりの重量があり、仕方なく力を込めると、扉はゆっくりと奥へ開かれていく。重量感があるのも当然だろう。扉はかなり分厚く、故にファリアたちの肢体を再現することができていたようだった。
扉を開いた先に待ち受けていたのは、迷宮などではなく、広い部屋だった。黄金の壁、扉から連想できた通り、すべてが黄金色の空間。床も壁も柱もなにもかもが金で出来ていた。半球型の広間で、四本の柱が天井を支えているような作りになっている。広間全体の雰囲気が、これまでの部屋とは異なっており、なぜか神殿を想像させたのは、きっとその荘厳な作りのせいだろう。
しかし、これまでの部屋と共通している部分もある。
それは、部屋の中心に置かれたものだ。
広間の中心に黄金の寝台が置かれており、その上には女がいた。知った顔だった。ただし、よく知っているわけではない。夢と現の狭間で見たことがある程度の、そんな記憶。長く艶やかな黒い髪を豊かな胸に垂らし、乳首を隠しているかのようにしながらも、寝台の上に股を開いて座っている。ただし、長い髪が股間を隠しているため、見えることはない。見えずともどきりとするのは当然な姿だった。
「想像していたよりずっと早かったじゃない。驚いたわ。早いのは……そうね、艶事以外なら美徳よ、美徳」
「メイルオブドーター……か」
セツナは、濡れたような女の声を聞きながら、気を引き締め直した。紅い瞳がこちらを見ている。黒髪赤目。黒き矛の眷属たちの化身というのは、全員がそうであるらしい。が、中でもメイルオブドーターの目は、魅力的に想えてならなかった。おそらくはそれが彼女の力なのだろう。
魔力、というべきか。
「ええ、そうよ。わたしの名は、メイルオブドーター。まあ、仮初めの名前に過ぎないけれど……覚えていてくれたのね、嬉しいわ」
「仮初め?」
「それはそうでしょう? なになに、もしかしてあなた、わたしたちの名前がこんなふざけたものだと思っていたのかしら?」
(……そういや、そうか)
メイルオブドーターという彼女の名も、ランスオブデザイアを始めとする六眷属の名も、黒き矛カオスブリンガーと同じく、だれかによって命名された召喚武装としての名前でしかないのだ。ほかの召喚武装も同じだ。便宜上の名前であり、同時に召喚武装として力を存分に振るうために必要な命。
召喚武装の命名は、武装召喚師において重要な儀式であり、これを怠ったものに未来はないといわれるほどだった。




