第二千七百六十九話 愛の虜囚(十一)
「なっ、なんだよ急に……! こっ、こっちにも心の準備ってもんが……」
彼女が慌てて声を上げるのは、わかりきっていたことだ。
「じゃあ、止めようか?」
自分でも歯の浮くような台詞だとわかっていても、口を突いて出た言葉がそれだったものだからどうしようもない。掛け布団に包まったシーラをそのまま抱きしめながら、その鍛え上げられた肉体の、しかしながらどうしようもなく柔らかく、しなやかな感触に溺れそうになる。いや、既に溺れている。シーラの魅力に溺れ、自分を見失ってさえいることはわかりきっていた。だが、そればかりはどうしようもない。彼女は、この上なく魅力的な女性だ。
本来ならば気品に満ちた美女であり、乱暴に受け取られがちな言動の端々には、育ちの良さが見え隠れした。王族に生まれたが故の整った顔立ちに類い希な肢体は肉感的かつ魅惑的であり、男ならば彼女の体つきに目を奪われること間違いない。日々の鍛錬によって分厚い筋肉を作り上げているはずだが、布団の上から抱きしめてみても、その体が柔らかいことがわかる。
しかし、その柔らかさを堪能する間もなく、セツナは彼女を腕の中から解放した。淡い光に満ちた寝室には、セツナとシーラのふたりしかいない。邪魔者などあるはずもなく、穏やかで幸福な時間が流れているのだ。
「え……」
シーラがきょとんとする。まさかセツナがここにきて引くとは想ってもみなかったようだ。
「そ、それは……その……」
彼女は、しばらく迷ったあと、こういった。
「止めなくて……いい」
そういうと、彼女はおずおずと布団の中から頭を出した。そして、目を閉じ、顔をこちらに向けてくる。口づけを待ち望むように、だ。実際、その通りなのだろう。セツナは、彼女のそんな初々しい反応にある種の感動と興奮を覚えると、彼女の望むまま、その両肩に手を置いた。ゆっくりと引き寄せ、みずからも近づく。
目を閉じ、ある種の覚悟を決めたシーラの顔をじっと見つめていると、脳裏をなにかが過ぎった。まるで雑音のようなそれは、セツナがシーラに口づけしようとするのを邪魔するようであり、彼は苛立ちを覚えずにはいられなかった。セツナの口とシーラの口の距離は、極めて近い。接吻くらい、簡単なことだ。ただ、近づけばいい。それだけで唇は重なり、あとは流れのままに愛し合えばいい。
だのに、セツナは、脳裏を過ぎる雑音のうるささに顔をしかめなければならず、そうするうちに雑音が酷くなるものだから、彼は困惑した。せっかくのシーラとの時間だというのに、なにが起こっているというのか。
シーラと愛し合い、結ばれるためにこそ、ここに来たのではないのか。互いの愛を確認し、証明するためにこそ、ここにいるのではないのか。そのために彼女はセツナが浴室から出てくるのを待っていたのではないのか。
(浴室?)
ふと、疑問が浮かんだ。
確かにシーラは先にシャワーを浴び、寝台で待っていたはずだ。いくら恋人同士とはいえ、一緒に風呂に入るのはまだ恥ずかしい、というのが彼女の意見であり、その意見を尊重したからだ。人前で手を握り合うことすら恥ずかしがるのがシーラだ。一緒に風呂に入るなど、できるわけもない。そんな彼女と真に愛を確かめ合うためにこそ、ここに来た。彼女としても相当な覚悟が必要だったはずだ。それこそ、身を切るような思いだったのではないか。
そうだ、と、セツナは考え直した。彼女の覚悟を無駄にするわけにはいかない。ここで彼女の覚悟を無下にするようなことになれば、それこそ、すべて台無しとなる。なにもかもが終わってしまう。
(そうだ。だから俺はそのあとで浴室に入ったんだ……よな?)
だとしたらなぜ自分はしっかりと着込んでいるのか。それも見たこともない衣服だ。まるでなにかゲームかアニメのキャラクターのコスプレでもしているような格好であり、その事実に気づいた瞬間、彼は呆然とした。頭の奥で鳴り響く雑音は急速に大きくなる。
すると、シーラが薄目を開けた。セツナの口づけがあまりにも遅いから気になったのだろうが。
「セツナ……?」
彼女の疑問に満ちた声が聞こえて、セツナは、その碧い瞳をみた。碧玉のように美しい瞳には、セツナの顔が映り込んでいる。頭上から降り注ぐ淡い光に照らされたセツナの顔は、あまりにも不自然だった。ぼさぼさの黒髪、血のように紅い瞳はともかくとして、顔つきは剣呑にねじ曲がっていて、とても普通の生活を送っている人間のものではなかった。少なくとも、学生の顔つきではない。
ひとを何人も殺してきたような、そんな顔。
少なくとも、目の前の純情な女性を抱いていいものの顔ではないのではないか。そう想うと、いても立ってもいられなくなった。シーラの肩から手を離し、背を向け、寝台から抜け出そうとして、引き留められる。シーラの手がセツナの手を掴んだのだ。それを強引に振り解けないのがセツナのセツナたる所以だろう。
「なんでだよ……俺のこと、嫌いなのか?」
「そんなこと、あるわけないだろ」
「だったら、どうして……」
その瞬間、セツナが呼吸を止めざるを得なかったのは、シーラが背後から抱きしめてきたからだ。掛け布団をかなぐり捨てたシーラの姿は、セツナの視界には映り込まないものの、全裸であることは想像に難くない。そしてその姿を想像させることがこの試練の罠だということも、わかりきっている。
これは試練だ。
セツナの心を試すための罠であり、仕掛けなのだ。試されているのは煩悩や色欲といったものだろう。だからラブホテルなのだ。なんとも安易だが、故にこそ、男のセツナには刺激が強く、効果的ともいえるのかもしれない。
「なんで途中で止めるんだよ。俺は……おまえとなら……」
「理由は単純だ」
セツナは、彼女を振り返った。
「おまえが偽者で、シーラじゃないからさ」
「なっ……」
偽者は、シーラ本人そのもののようにして顔を真っ赤にすると、セツナから離れ、自分自身を抱きしめるようにしながら座り込んだ。想像通りの全裸だったが、そのおかげでセツナは彼女の拘束から逃れることができたともいえる。恥ずかしそうに豊かな胸を隠すシーラの姿は、いつか見た本人の姿に重なる。思わず本人と錯覚するほどに似ているのだから、溜まったものではない。ここが試練であり、本人がいることなどありえないという前提がなければ、彼女本人であると誤認したまま対応し続けた挙げ句、夢に溺れたのではないだろうか。
無論、それはシーラに限った話ではない。ファリアであれ、ミリュウであれ、レムであれ、同じことだ。
「俺は……!」
「シーラなら、追いかけてこなかったさ」
断言して、踵を返す。それもセツナの知っている範囲でのシーラならば、だが、それは試練の生み出した偽者には効果的だったのだろう。偽者は黙り込み、セツナが部屋を出るまで追いかけては来なかった。まるでシーラ本人として振る舞うことを優先するかのように。
玄関に至り、扉を開けば、目の前に昇降機が待ち受けていた。
安堵する暇はない。
試練は、まだ終わりを見せない。
「ったく、いつまで続ける気だ?」
思わず声に出して毒づきいたのは、この自分の力ではいかんともしがたい状況が苦痛以外のなにものでもないからだ。ランスオブデザイアやアックスオブアンビションの試練は、殺されることこそ苦痛に満ちたものではあったものの、相手を斃せばいいというわかりやすさがあったし、苦痛も決して耐え難い類のものではなかった。その点、この試練は違う。
先が見えず、終わりの見えない迷宮に迷い込んでしまったかのような不可解さと、愛するひとたちを弄ばれているような不快感がない交ぜになり、セツナは、昇降機に乗り込みながら怒りを滾らせていた。




