第二千七百六十六話 愛の虜囚(八)
(とはいえ……)
取っ手から手を離すも、室内に上がり込む気が起こらないのは、だれが待ち受けているかがわかったせいもある。
レムは、ミリュウに次ぐ頭痛の種なのだ。
常日頃、セツナの忠実な下僕として健気かつ献身的に働いてくれていることはわかっているし、ありがたいし、感謝もしている。言葉と行動で感謝を示すことも忘れていない。が、それだけでは彼女には物足りないのか、時として想像だにできないような騒ぎを起こすのが彼女だった。溜まりに溜まった鬱憤を晴らすかのような騒動の数々は、いま思い起こすだけでも頭を抱えたくなる。それすらも彼女の愛嬌のひとつになりうるのは、彼女が普段、どこまでも熱心にセツナのために働いてくれているという事実があるからだろうし、彼女がセツナのことを想ってくれていることをだれもが知っているからだろうが。もし、彼女が我が儘で自分勝手な人間ならば、そういった騒動を起こすたびに嫌われていったはずだ。
セツナも、レムを嫌ってなどいない。むしろ、騒ぎを起こすことを含めて、愛しく想っている。
(行くしか……ないよな?)
自問したところで、答えは出ている。試練を終えるには、部屋の中に進み、待ち受けるレムの偽者の誘惑を打ち破らなければならないのだ。
(偽者だ。偽者なんだ)
言い聞かせ、室内に足を踏み入れる。
セツナは、奥に進み、寝室を視界に入れた瞬間、ぎょっとして思わずその場に凍り付いてしまった。
部屋の作りも、階層同様それぞれの部屋で大きく異なっていたが、これまで巡ってきた三室の中で三百三十三号室が一番驚いたかもしれない。
まず視界に飛び込んできたのは、照明器具の昏い光が暗闇の中に浮かび上がらせた白い素肌だ。一糸纏わぬ姿の少女が寝台の上に座り込んでいたのだ。十数年前から成長の止まった体は、あまりにも華奢だ。十三歳のままなのだから当然といえば当然だろう。しかも、彼女は発育がよくなかった。そんな状態で死に、仮初めの命を与えられたのがレムであり、それはセツナが主となってからも変わっていない。彼女の肉体年齢は十三歳のときのまま、止まっているのだ。
が、セツナがぎょっとしたのは、彼女が全裸で座り込み、セツナを待ち構えていることではなかった。
寝室の構造が問題だった。まず、レムの偽者が座り込んでいる寝台は円形で、その点では二百二十二階を思い出させたが、黒い掛け布団や敷き布団や寝室そのものの構造の違いが明確であり、そのことがセツナの度肝を抜いたのだ。回転しない円形の寝台、その頭上になにかが輝いていた。見上げれば、天井が鏡張りだということに気づかされ、さらに寝室を囲う三方の壁もまた、よく見ると鏡張りになっていることを知ったのだ。
これまでの部屋とは比べものにならない作りだと想わざるを得なかった。
そしてセツナが呆然としていると、レムが口を開いた。
「女を裸で待たせ続けるだなんて、男らしくないのではありませんか? 御主人様」
「……だれが待っていろなんていったんだよ」
本人そのものといっても過言ではない声音で問うてきたレムの偽者に対し、セツナは思わず毒づいた。相手は偽者だ。構うことはない。なによりこれは試練だ。相手と同じ土俵で戦う必要はない。少しでもこちらが有利となり得る状況を作らなければならなかったし、その状態を維持しなければならなかった。いまはまだ、自分を見失ってはいないのだ。
セツナは、極力レムの裸体を見ないように注意しながら視線をさまよわせたが、どこを見ても寝室の中心に座り込んでいるレムの姿が映り込んでいて、憮然とするほかなかった。目が、部屋の暗さに慣れてきたせいだ。そのせいで、薄明かりでも十分過ぎるほどの光量になってしまい、壁や天井に映り込むレムの白い肌が目についてしまっていた。天井を見上げればレムの頭頂部から見えたし、その後方を見遣れば彼女の背中が見えた。左右の壁には、彼女の小さな胸が映り込んでいる。
「それになんだこの部屋は? 鏡張りだなんて、悪趣味な」
「悪趣味だなんて、そんな酷い言い方はしないでくださいまし。鏡に映るのは、心の底から愛し合うふたりの姿。必ずや目に焼き付き、記憶にも深く刻まれましょう」
などと、レムの偽者は熱弁を振るう。その挙措動作のひとつひとつに至るまでレム本人と見紛うほどにそっくりであり、故に脳が誤認を起こしかけるようだった。レムならば、そんな風に言い返してくるに違いない。
「……そりゃあ、記憶には残るだろうが」
「でしたら、よろしいではありませんか」
「おまえは恥ずかしくないのかよ」
「もちろん、恥ずかしゅうございます」
レムは、思い出したかのように自分の体を抱きしめ、胸の辺りを隠した。いまさらだが、赤面間でして見せる。そして、想わぬことを言ってくるのだ。
「ですが、御主人様の趣味趣向御要望でございます故――」
「ちょっと待て」
「はい?」
「俺は悪趣味だ、っつったよな?」
「はて……」
レムは、セツナの反応こそ理解できないとでもいうように小首を傾げて見せた。
「この部屋を指定なされたのは御主人様でございましょう?」
「んなことあるかよ!」
セツナは思わず声を荒げて、大きく腕を振った。
「だれがこんな部屋指定するか! ってか、こんなところ来たこともないし、来たくもねえよ!」
「御冗談ばかり。本当のところ、念願叶って興奮しておられるのでございましょう? わたくしなら、どのような目に遭わせて問題ございませんし……」
「どういう意味だ! ってか、俺をなんだと想ってるんだ!?」
こちらの言い分がまったく通じない相手に、セツナは頭を抱えたくなった。ときとしてレムは強情かつ強引に押し切ってくることがある。そういう場合、どれだけ理屈や正論を並べても、通用しないのだ。そしてそうなったレムと対峙した場合、根負けするのがセツナだった。
「約束したではございませんか」
レムがにこやかに告げてくる。わずかに上気した顔が異様なまでに艶めいて見えた。
「炊事洗濯掃除に夜伽、なんでもござれ、と」
「おまえはなにを――」
「わたくしは御主人様とこうなるときを待ち続けておりましたのに……御主人様は、わたくしのことを気遣ってばかりで……わたくしなど、好きに使ってくださればよろしいのに」
「好きに……使う?」
彼女はいったいなにをいっているのだろう。そんな疑問が浮かんで消えた。
「そうでございます。わたくしは御主人様第一の下僕にございます。御主人様がお望みとあらば、どのようなことでも……」
(え……?)
気づくと、彼は寝台に引き寄せられるように歩いていた。そして寝台に辿り着くと、寝台の上に座り込んだままだった少女が這うようにして近づいてきて、セツナの手を引き、寝台の上に引き寄せる。セツナには、一切の抵抗ができなかった。いや、抵抗しようという気さえ起きなかった、といったほうが、正しい。まるで甘美な夢に誘われるようにして、レムに引き寄せられ、寝台に上がり込む。そのままレムが元の位置に座り込み、寝転べば、セツナが彼女に覆い被さる形になった。レムの紅い瞳に自分の顔が映り込む。
「御主人様はわたくしがお嫌いでございますか?」
「そんなこと、あるわけないだろう」
嫌いならば、そもそも下僕にもしないだろうし、仮初めの命を与えようともしなかったはずだ。あのとき、彼女に手を差し伸べたのは、助けて欲しいと願われたからだけではない。好意があった。彼女が嫌いじゃなかった。生きていて欲しいと望んだ。故に手を差し伸べ、彼女が手を取ってくれたことを心の底から喜んだのだ。それはいまや遠い昔のことのように思える。
「わたくしは、御主人様にならすべてを――」
「俺は……」
どうだろう。




