第二千七百六十五話 愛の虜囚(七)
昇降機は、加速度的に上昇していく。
とはいえ、それがわかるのは昇降機内に設置された電光表示板に描き出される数字の変動によってであり、それが本当に正しいものなのかどうかを確かめる術はなかった。体感として把握できるのは、昇降機の急速上昇に伴う浮遊感があるということだが、それさえ実際に起こっていることなのか、疑い始めればきりがない。実際には昇降機は一切移動しておらず、電光表示板の数字が変動しているだけなのかもしれない。そして、昇降機の外の空間が様変わりしているだけだとしても、なんら不思議ではなかった。
ファリアやミリュウ本人そっくりの偽者が用意できることを考えれば、それくらいのことがあったとしてもおかしくはない。
もっとも、雰囲気作りのためにわざわざそこまでする必要があるのかといえば、ないだろうと想うほかなく、結論としては昇降機が上昇していることを疑う必要はなさそうだった。
そんなことを考えてしまうのは、二百二十二階での試練が精神的に堪えているせいもあるだろう。
余計なことを考えて、気を紛らわせようとしている。
つぎの階層までほんのわずかな時間さえ、そうやっておかなければならないほどに追い詰められている。
ミリュウの柔肌に包まれ、堕ちそうになったという事実は、どう足掻いても否定できないのだ。それが試練であり、試練の主の力によるものだとしても、だ。ミリュウに溺れ、沈みかけた。そのことがセツナには許せなかった。
偽者だとわかりきっていたのだ。だのに、溺れかけた。至福の時間を堪能し、耽溺しかけた。そして、甘美な夢の世界に溺れ死ぬところだった。
拳を握り、三百三十三階を示す電光表示板を睨んだ。昇降機が止まったのだ。扉が開き、試練の手がかりともいうべき空間が広がる。
三百三十三階。
昇降機を出ると、小部屋だった。昇降機を背後に前方、左右に通路があり、前方の通路のみが照明が浮かび上がらせている。全体的に白く、明るい印象を受けた。床も壁も天井も、どこもかしこも妙に爽やかで、柔らかい。百十一階、二百二十二階とも印象の異なる階層だった。
作りや内装が階層ごとにまるで違うのは、最奥の部屋で待ち受ける人物に関するなにかしらの影響であり、反映なのだろうか。
百十一階は、全体として真っ赤だった。まるで燃え盛る炎のような、あるいは情熱を象徴するかのような赤さ。対して、最奥の部屋はというと、全体的に青く、赤い階層と対照的といってよかった。待ち受けていたのは、ファリアの偽者だ。ファリアは、冷静沈着でありつつ、内に熱を秘めた人物でもある。しかしながらそれはファリア本人の投影というよりは、セツナがファリアに抱く印象の投影といったほうが近いのではなかろうか。
二百二十二階は、水泡が描かれた青ざめた空間だった。さながら水中を散歩しているような感覚を抱いたことを覚えている。そして、最奥の部屋の内装は、激しい情念を想起させるような真紅だった。待ち受けていたのはミリュウであり、赤はミリュウの好きな色であるとともに、熱情的な彼女を象徴する色彩でもあった。故に、部屋の内装が真っ赤だったのは、理解できる。ミリュウの部屋ならば、紅くなければ嘘だ、と想うくらいには、彼女の印象には赤が強い。しかし、部屋の外、部屋に至るまでの迷宮染みた階層は、彼女の印象とは程遠く、それがたとえばセツナがミリュウに抱く印象を元に構築されたものだとすれば、自分は彼女にどのような印象を抱いていたというのだろうか。
そこまで考えて想うことは、もしかすると、セツナの印象だけではないかもしれない、ということだ。
だとすれば、この柔らかで明るい白で彩られた小部屋から、最奥で待ち受ける偽者を想像することは難しい。いや、そうでなくとも、連想は困難を極めた。
(白……か)
セツナは、天井の蛍光灯が照らす道順を進みながら、考え込んだ。昇降機から正面の通路を進めば、小部屋に出る。小部屋は、正方形の小さな箱のようであり、四方に通路があった。照らされた通路以外は闇に包まれているが、うっすらと覗き見ることができないわけではない。闇に覆われた通路の先にも同様の小部屋があるようだ。
どうやら無数の小部屋と通路で構成されているらしい。
それも、偽者の手がかりとなるのかもしれないが、それがわかったところで、脳裏に浮かぶだれとも結びつかないから困ったものだった。
白といってまず思い浮かぶのは、シーラだ。美しい白髪に白鎧が彼女の象徴だった。そしてシーラといえばハートオブビーストの最大能力である白毛九尾の狐への変化もある。白といえばシーラであり、シーラといえば白なのだ。
だが、どうも違う気がしてならなかった。
ファリアやミリュウがそうであったように、シーラが待ち受ける部屋の内装こそ、象徴色である白なのではないか。偽者の部屋に至るまでの課程は、まったく無関係な色彩を用いられている可能性もあった。
セツナを惑わせるために。
(そんなことに意味があるのかは知らないがな)
苦い顔をして、セツナは先を急いだ。
三百三十三階を踏破し、最奥の部屋に辿り着くのにそれほど時間はかからなかった。示された道順を進むだけでいいのだから、迷うこともない。
扉は、長い通路の突き当たりにあり、やはり一号室と記されていた。
扉そのものも白く、取っ手に手をかけると、その冷ややかさに安堵すら覚える。まるで冷静でいることを忘れるな、と、警告してくれているようだ。実際、試練の主の警告なのかもしれない。
これは、試練なのだ。
試練の主は、セツナを試しているのであり、取り殺そうとしているわけではない。これまでもそうだった。ランスオブデザイアもロッドオブエンヴィーもアックスオブアンビションも、セツナを試してくれたのだ。もちろん、本気で、全身全霊で応えなければならないような試練ではあったが、取り殺すだけであれば、もっと楽な方法があったに違いない。が、彼らはそうしなかった。
今回もきっと、そうだ。
セツナを試し、故に警告を発している。
扉を開き、足を踏み入れた瞬間、セツナは理解した。だれの偽者がこの部屋に待ち受けているのか、部屋の内装を見ただけでわかったのだ。
(つぎはおまえか)
室内は、黒一色だった。黒塗りの建具、漆黒の壁紙、黒い調度品の数々。照明器具も黒い布で覆われていて、そこから漏れ出る光さえ昏く、黒い。なにもかもを黒く演出しているのだ。そこから連想する人物など、ひとりしか思い浮かばない。
レムだ。
レムの象徴色が黒なのだ。黒髪黒目に黒ずくめ。しまいには“死神”たちも真っ黒な影のような存在であり、彼女の立場もセツナに寄り添う影のようなものだ。
(これじゃあやっぱり、部屋の外は俺を惑わせるための演出って奴だな)
部屋の外、三百三十三階の長い通路を思い出す。明るく柔らかな白は、レムの印象からは程遠い。無論、彼女が本質的には明るく柔らかな人物であることは知っているし、白が似合わないわけでもない。が、印象から作り出された階層ではない、ということは明らかだった。
扉を後ろ手に閉じ、息を吐く。ふと思い至って取っ手を捻るが、動かなかった。鍵がかけられたようだが、その鍵をかけたのはおそらく試練の主だろう。
(なるほどな)
部屋に入っただけでは試練を突破したことにはならないのだ。偽者と対峙し、その誘惑を打ち破らなければ、扉が開くことはない、ということだ。




