第二千七百六十二話 愛の虜囚(四)
「ちょっと――」
セツナは、片手で自分の目を覆い隠し、もう片方の手でファリアを制止しようとした。が、掲げた右手は、あっさりと彼女の手に包み込まれてしまう。優しげな、しかし強烈な意思を感じさせる力だった。腕力においてファリアに負けることなど本来ありえないのだが、いまのセツナは全力を発揮できる状況ではないのだ。ファリアの、主張の激しい胸部を目の当たりにしてしまっている。
いま目の前にいて、セツナに覆い被さっているのは、ファリアの偽者だ。そんなことはわかりきっている。しかし、心で理解できていても、目や耳はファリアと認識し、脳もそう騙されてしまう。どう見てもファリア本人だったし、どう聞いてもファリアの声なのだ。ただいつものような冷静さはなく、ひたすらに甘く、蕩けるような声音であり、表情なのだが、しかし、想像上のファリアがそんな顔をしたこともあるかもしれなかった。
「この期に及んで待てはなしよ。いままで散々待たせておいて」
ファリアが笑いながら恨み言をいってくる。本気で恨み、怒っているという風ではないが、ずり落ちたバスタオルはそのままにセツナの腰に跨がり、セツナの右手を寝台の上に抑えつける力は本物だ。そして、左手もセツナの顔面から引き剥がす。すると、ファリアの裸体が視界に飛び込んできて、彼は想わず瞼をきつく閉じた。眼前に闇が生まれるが、その暗闇に白い裸体が浮かび上がり、むしろ逆効果だと想わざるを得ない。もっとも、だからといって瞼を開けたところで、状況は悪くなる一方なのだから始末に負えない。瞼の裏に浮かぶ彼女の肢体は、よりなまめいている。
ファリアらしからぬ、しかし、セツナがどこかファリアに求めている対応というべきなのか。いずれにせよ、偽者曰く積極的な態度のファリアは、セツナにとっては極めて刺激的だったし、一瞬でも身も心も預けてしまいたくなるほどに甘美で官能的だった。鼻腔に満ちた香水のにおいは、ファリアが目の前にいることでより強烈な力を発揮している。
これが試練なのは、わかった。だが、なにをどうすればいいのか、まったく想像が付かない。
単純な試練ならば、ファリアの偽者を斃せばいい、という解が浮かぶ。しかし、それならばセツナに突破できる可能性は微塵もなかった。たとえ偽者とわかりきっていても、ファリアを傷つけることはできない。それはかつて地下遺跡で幻影と対峙したときに証明済みだ。ファリアでなくとも同じことだ。
愛するものたちを傷つけ、殺さなければならないのならば、自分が死んだほうがいい。
それがたとえ本人ではなかったとしても。
それだけはできない。
(断じて)
「そういう甘さが最悪の事態を招くのだとしても?」
不意に、ファリアらしからぬ言葉が偽者の口から漏れ出でたことで、セツナは、ようやく自分を取り戻した。こちらの心の内を読んでの発言なのだろうし、どういう意図のものなのかもわかる。セツナを苦悩させるための質問。しかし、いまのセツナにとっては、そんな質問以上に重要なことがあり、その重大な出来事の解決策が生まれたことで、彼は質問の意図など無視して行動した。
偽者による両腕の拘束を腕力だけで振り解き、体のバネだけで跳ね起きる。すると、セツナの腰に跨がっていた全裸の女性が寝台から転がり落ちそうになるが、彼は両腕で抱き抱えると、その驚きに満ちた目を見つめ返した。
「だとしても、俺には、できないんだ」
ファリアとそっくりそのままの美しい容貌を見つめ、告げる。そして、偽者を寝台に降ろすと、すぐさまその場を離れた。逃げるように玄関へ向かい、靴を履き、外に出る。その間、偽者が追いかけてくることもなく、少し拍子抜けする気分だったが、つぎの瞬間には、別の驚きが待っていた。
(どういうこったよ)
セツナは、部屋の目の前に昇降機が待ち構えていることに気づき、憮然とした。百十一階で降ろされてから一号室に辿り着くまでかなりの時間歩かされた記憶がある。そもそも、一号室は曲がりくねった通路の突き当たりにあったのだ。部屋の目の前は通路があるはずであり、昇降機などあろうはずもない。さらにいうと、通路は前方にではなく、左右に伸びていた。
昇降機の扉が開く。
乗れ、ということだろう。
(つまり、あれでいいってことか?)
ファリアの偽者から逃げただけだが、それで正解だとでもいうのだろうか。
それで正解というのであればなにもいうことはないし、セツナとしてもあれ以上ファリアの偽者と対峙していたくもなかったが、なんだか釈然としなかった。釈然としないまま、昇降機に乗り込む。そこで逡巡している暇もない。乗り込まなければならないのだ。でなければ試練は終わらない。
昇降機の扉が閉じ、上昇が始まる。
浮遊感と加速感がセツナの意識を包み込む。
(つぎは何階だ?)
そして、つぎはだれの偽者が待ち受けているのか。
セツナは、もはやこの試練がどのようなものなのか、漠然とではあるがわかりかけていた。セツナの愛するひとたちの偽者による誘惑を打ち払えるか、否か。
それが本当に正しいのかはわからない。しかし、そうとしか想えなかった。いや、この先、まったく別の試練が待ち受けていたとしてもなんら不思議ではないが、これまでの最終試練は一貫性のあるものばかりだった。おそらく、この上の階でも同じようなことが待ち受けているに違いない。
やがて、急上昇が収まり、昇降機の電光表示板には二百二十二階と記された。
(百十一のつぎは二百二十二……)
さらに上の階が有るとすれば、三百三十三、四百四十四と続くのだろうか。
(最終的には六百六十六か……七百七十七かな)
獣の数字にラッキーセブン。
地獄の最終試練ということを考えると、獣の数字こと六百六十六階が最終地点になるのではないだろうか。
だとすれば、あと五人は偽者が出てくるということになるが。
(……あんなのがあと五回もあるのか)
セツナは、憂鬱な気分になった。だれがどんな方法で攻めてくるのかわかったものではないし、想像するだけで心苦しくなる。本人ならば、いい。いくらでも、どんな方法で攻めてこようと構わない。だが、偽者なのだ。本人とは無関係のところで、本人そっくりの偽者が裸を見せつけるようにして、セツナを誘惑してくるのだから、本人に悪い。そして、そんな風にして彼女たちの尊厳を傷つける試練の主には、目にもの見せてやりたくなるのが人情というものだろう。
昇降機の扉が開くと、二百二十二回の通路が視界に飛び込んでくる。まず目に付くのは、床や壁、天井の色が百十一階までとは様変わりしていることだ。暖色ですらない。壁は水色で、水玉模様がある。いや、よく見ると水玉模様というよりは、水泡のようだった。床は深い青。天井はさらに薄い水色だ。まるで水中にいるような雰囲気を作り出している、とでもいうのだろうか。
(だからなんだって話だが)
階層の雰囲気と部屋で待ち受ける相手に関連性がないのは、ファリアの偽者で通った道だ。階層の様子からだれが待ち受けているのか想像するのは不毛だろう。
通路の進み方は、百十一階と同じだ。天井に設置された蛍光灯が照らす道を進めばいい。ただそれだけのことであり、それ以上でもそれ以下でもない。ただ、百十一階とは明らかな違いがあった。
それは階層全体の構造が複雑化しているということであり、ほぼ一本道だった百十一階に比べ、二百二十二階は、右折左折を何度も繰り返さなければならなかった。まるで迷路だが、この構造にどんな意味があるのかはわからない。
やがて長い長い通路に辿り着くと、突き当たりに扉があった。青い扉には一号室と記されている。偽者は全員各階層の一号室で待ち受けているのだろう。




