第二千七百六十一話 愛の虜囚(三)
イルス・ヴァレに召喚されて以来、数年間の生活においてまったく使用していなかったこともあり、すっかり忘れ去っていたが、セツナが生まれ育った世界の浴室には、シャワーという便利至極な器具が存在していた。その器具から流れる水の音というのは独特というほどのものでもなければ、決して大きい音でもないはずなのだが、どういうわけか部屋の玄関付近にまで聞こえている。
おそらく、試練だからだ。
(……そ、そうだ。これは、試練。試練なんだ)
自分自身に言い聞かせるように胸中つぶやくと、再び足下を見下ろした。丁寧に並べられた一足の靴には特に見覚えはないが、セツナが逡巡したのは、靴を脱ぐべきかどうかということだ。これが試練ならば、いつでも戦えるようにしておくべきだったし、そのためにも靴を脱ぐ必要性は感じない。だが、靴を脱ぐことで試練が始まるという可能性も捨てきれなかったし、靴を脱がないことが試練の失敗を招く可能性だって十二分に考えられた。
この試練を考えたものは、建物の形状からしてなにかしらの様式に拘っている風なのだ。ならば、靴を脱がないほうが危険性が高い気がした。
(ままよ)
セツナは、靴を脱ぐと、部屋の中に足を踏み入れた。青ざめた敷物が敷き詰められた床は、当然、素足でも歩き回れる作りになっている。壁も天井も青いが、部屋に足を踏み入れるなり真っ先に目に飛び込んでくるのは、広い一室の真ん中に設置された大きな寝台だ。大人ひとりが使うには大きすぎることから考えてもふたり用の寝台だろう。布団からなにから青一色だが、その青さは均一ではない。壁と床の青さがまったくの別物であるように敷き布団と掛け布団でも青さに違いがあった。
枕は、長く大きいものがひとつ。意図は理解できる。が、あまり深く考えたくもない。
寝台から目を逸らせば、つぎに飛び込んでくるのは、壁に埋め込まれる形で設置された大きなテレビだ。当然のことだが、イルス・ヴァレにかけらも存在しないものだが、この地獄ならば、試練中ならばなにがあってもおかしくはなかったし、そこに疑念は持たない。テレビの操作用の機器は、片隅の卓の上に置かれていた。手を伸ばそうとも想わないし、黙殺する。
それから、ようやくのことで水音のほうに目を向け、すぐさま目を逸らした。
(そういうことかよ)
セツナが思わず目を背けたのは、寝台から見てテレビとは反対方向に硝子張りの浴室があり、浴室の内部が完璧に余すところなく覗き見ることが出来たからだ。そして、シャワーを浴びている女性の後ろ姿が目に飛び込んできたということも、彼を驚かせる一因となった。その後ろ姿だけでだれがシャワーを浴びているのかがわかる。それくらい見慣れた後ろ姿だった。もちろん、浴室の中の女性は全裸で、その点で見慣れているということではない。ただ、背格好に髪色からして、見間違いようがなかった。
ファリアだ。
ファリア・ベルファリア=アスラリアがシャワーを浴びていて、その後ろ姿を見てしまったのだ。一瞬のことだ。すぐさま目を背けた。なのに網膜に焼き付いて離れてくれないのは、どういうことか。
(くそ……)
己の欲求に忠実な反応ともいえる残像を振り払うことも出来ず、セツナは、胸中悪態を吐いた。こんな試練があって溜まるものか、と、怒りを撒き散らしたい気分だったが、怒鳴り散らしたところで状況が好転しないことはわかっている。むしろ、試練が失敗に終わり、最初からやり直しになるだけだろう。地獄の試練とは、そういうものだったし、ここも変わるまい。
そういう意味では、安心できることがある。
これが試練であり、これから起こることは、すべて、現実の人間とはなんら関係ないということだ。
いまシャワーを浴びているのはファリア本人ではなく、ファリアの幻影に過ぎない。本人ではないのだ。だから、その幻影がなにをどうしてこようと気にすることはない。とはいえ、その幻影に再び目を向けようとは想えないのは、幻影とはいえ、完璧に再現しているだろうというある種の信頼があるからだ。最終試練の主がそこで手抜きをするとは想いがたい。
これまでがそうだった。
いずれの試練も、セツナを試すため、全身全霊の力を込めて、殺しにかかってきていた。
今回も同じだろう。
ただ、この度の試練は、これまでの試練とは異なる方法で攻めてきた、というだけに過ぎない。
それがこの淫靡な宿泊施設であり、ファリアの幻影なのだ。
そうこうするうちにシャワーの蛇口を捻る音が聞こえ、水音が止まった。だからといってそちらに目を向けることはせず、セツナは、悶々とした時間を過ごす羽目になったが、致し方がない。そちらに目を向けたら最後、後悔することになるに違いないのだ。
硝子張りの浴室なのだ。振り向けば、シャワーを終えたばかりの彼女の幻影を目の当たりにすることになるそうなると、裸の後ろ姿だけでなく、全身くまなく網膜に焼き付いてしまうのではないか、という危惧があった。それは、現実のファリアに対して、どうにも失礼な気がしてならないのだ。本人の意思が介在しているのであれば話は別だが、そうではない以上、その姿を目に焼き付けるのは違うだろう。
そういう分別くらいは、セツナにもある。
と、つぎに浴室の扉が開く音と思しきものが聞こえた。目を背けつつも後方の浴室に神経を集中しているせいだろう。ちょっとした音すら精確に捉えることができている。たとえば、浴室から出た女が体についたままの水分を拭き取るような音ですら、セツナの耳朶をくすぐり、余計な想像を働かせようとした。セツナは、その想像に身を任せることはせず、まったく別のことを考えることで状況を打開しようとした。が、できなかった。想像は妄想によって膨れ上がり、体温が上昇していく。
膨張する妄想が脳裏に描き出すのは、裸のファリアがバスタオルで全身を拭っている光景だが、その光景が妙に克明なのが奇異だった。
(これも試練だな)
悟ると、セツナは閉じていた目を開いた。状況に変化はない。目の前に青ざめた寝台があり、寝台の先の壁にテレビがある。そして、背後からはファリアの鼻歌が聞こえてきていた。状況は好転するどころか悪化する一方のように想える。この試練がなにを為せばいいのか、未だ判明していないのだ。このままではずるずると試練の主の術中に嵌まり、深みに堕ちていくのではないか。そんな危惧に拳を握ると、足音が近づいてくるのが聞こえた。どうやら浴室と寝室を隔てるものはないらしい。
足音は、一歩一歩確実にセツナに近づいてきていた。振り向けば、バスタオル一枚のファリアがいるのはわかりきっている。故に彼はテレビを見据えたまま、身動ぎひとつ出来ないのだ。心音の高まりは、緊張か、興奮か。背後から歩み寄ってくるファリアが偽者だとわかっているにも関わらず、体が反応するのは、どういうことなのか。本物のファリアに申し訳が立たないと想わないのか。そんなことを考えているときだった。
「待った?」
甘い声とともに視界が空転した。
「ちょっ――」
焦りを覚えたのは、本格的な試練が始まったのではないかと想ったからだったし、まさかファリアに手を引っ張られた挙げ句、寝台の上に転ばされるとは想わなかったからだ。偽者だからこそだが、そんな強引な手を使ってくるとは考えてはいなかった。
「なーんて……うふふ」
青ざめた天井とそんな天井から降り注ぐ蛍光灯の、しかし決して眩しくない光が視界を埋める。そんな視界に入り込んでくる影がひとつ。ファリアだ。ファリアが、寝台に押し倒したセツナの上に覆い被さろうとしている。
「たまには、積極的なのもいいかと想って……ね」
体に巻き付けたバスタオルがずり落ち、豊満な胸が露わになる中、彼女は艶然と微笑んだ。
試練は、とっくに始まっている。




