第二千七百六十話 愛の虜囚(二)
昇降機の上昇が止まったのは、電光表示板の数字が百十一になるのと同時だった。それとともに加速感とも浮遊感ともつかない違和感が消えて失せる。あっという間の出来事だったこともあり、セツナは、自動扉が勝手に開き、やはり桃色の壁紙に彩られた通路を示されてもなお、しばらくは昇降機の中から動けなかった。
そして、どれだけ時間が経過しても昇降機の自動扉が閉じるようなことはないことから、ここで降りろとなにものかに示唆されているのは明白であり、この百十一階から試練が始まるのだということがわかった。
(どんな試練だよ)
試練の主にいいたいことが山ほど浮かんでくるが、相手がどこにいるのかもわからない以上、腹の中に収め、飲み下す。
昇降機の外に出ると、自動扉が閉まった。振り返るが、電光表示板の数字に変動はない。上階に上がることもなければ、一階に戻る様子もないのだ。それがなにを意味するのか、セツナは嫌な予感を覚えずにはいられなかった。
つまり、試練は、この階が始まりに過ぎず、終わらないということだ。ここでの試練を終えれば、また昇降機から上階に向かわなければならないのだろう。
頭を振り、進路に向き直る。
通路は、桃色の壁紙に紅い絨毯、朱色の天井と、全体的に暖色で統一されているようだった。天井に設置された蛍光灯の発する光も赤みがかっている。通路は狭く、大人ふたり並んで通れるかどうかといった程度の広さしかない。が、この宿泊施設が想像通りの建物ならば、それで十分なのだろう。
通路は、昇降機前で左右に分かれているが、どちらに向かえばいいのかは一目でわかった。左手の通路には蛍光灯が灯っていないのだ。光に示された通路の先に試練が待ち受けている。
ふと、試練の主が示す道順に逆らいたい衝動に駆られたが、そんなことをしてもなんの意味もないことは明白だったし、時間の無駄だということもわかりきっていて、彼は、素直に指示に従った。つまり右手の通路に進み、蛍光灯の光の下を歩いて行ったのだ。
人気のない、静寂に包まれた通路を進む。不気味なほどの静けさは、これまでの試練とは異なる類の試練が待ち構えていることを示唆しているようでいて、事実、その通りなのだろうと想わざるを得なかった。まず、このような現代的な建物を用意して待ち受けていること、それ自体がこれまでの試練と大いに異なっている。
ランスオブデザイアにせよ、ロッドオブエンヴィーにせよ、アックスオブアンビションにせよ、わかりやすい試練ではあったのだ。いずれも簡単には突破できない試練ではあったし、苦難の連続ではあったが、明瞭だった。
その点、今回の試練は、いまのところ道順だけが明瞭で、どのような試練が待ち受けているのかは想像もつかない。
というより、想像したくもないというべきか。
(ラブホテルって奴だよな、ここ……)
セツナは、外観から内部構造までを脳裏に思い描きながら、胸中で唸った。近年では恋人たち以外が使うことも少なくないという、とある目的のための宿泊施設については、セツナも詳しくは知らない。利用したこともなければ、詳しく調べたことなどあろうはずもなかった。当時の年齢そのものが関係あるかないかといえば、あまりないだろう。同じ学校の学生の中には、そういった施設を利用したことがあると吹聴しているものもいないではなかった。単純に機会の有無に過ぎない。というより、発想の有無というべきか。恋人などいもしないセツナには、そういった施設を利用するという発想が存在しなかった。
が、なんとなくは知っている範囲のそれと、いま自分が歩いている建物の印象がほぼ完全に合致しているものだから、彼はなんともいえない気まずい気分の中にいた。
なぜかファリアたちに対し、悪いことをしている気持ちになる。
これは、試練だ。セツナが意図して入り込んだわけではないし、だれかと利用しようとしてもいない。なにものかがセツナを試すために用意した試練であり、それ以上でもそれ以下でもない。
(……なんか言い訳くせえな)
誰に対して自己弁護をしているのか。
なんともいえない感情を抱えたまま通路を進んでいるうちに、彼は、ふと、違和感を覚えた。立ち止まる。
(ん……?)
振り返ると、いままで歩いてきた通路を照らしていた蛍光灯の光が消えてなくなっていた。どうやら来た道を戻ることは推奨されないということだろうが、セツナの感じた違和はそこではない。通路の長さだ。セツナは、この百十一階に辿り着いてからというもの、かなりの時間歩いていた。それこそ、考え込んだ末、だれとはなしに自己弁護を繰り広げるくらいの時間だ。
建物の外観からは、そこまでの広さはなかったはずだ。ここまで長時間歩かされることになるとは想いもしなかったが、それをいえば、百十一階以上の高層建造物だというのもありえないことだ。が、ここが地獄であり、なんでもありの最終試練であることを踏まえれば、どのようなことが起こったとしても不思議ではない。
この先、なにが待ち受けておかしくはないのだ。
セツナは、進路に向き直り、気を引き締め直すと、また歩き始めた。
通路は、何度か曲がっている。まるで迷路のような通路の左右には、部屋の存在を示す扉がいくつもあり、扉の上には部屋番号が記されていた。部屋番号は段々と小さくなっており、やがて通路の終着点が見えた。つまり通路の突き当たりの部屋が、試練の待ち受ける部屋だとでもいうのだろう。
百十一階の一号室。扉は、壁紙よりも濃い桃色で染められ、枠や取っ手などは金色だった。趣味がいいとはいえないだろう。
(さて……鬼が出るか、蛇が出るか)
覚悟を決め、扉の取っ手に触れた。引くと、開く。唾を飲み込んだのは、緊張からだろう。夢想の中に近いとはいえ、こういった施設を利用するのは初めてのことだ。緊張もする。しかも、なにが待ち受けているかもわからないのだから、なおさらだ。
扉の内側は、やはりどことなく艶やかな雰囲気を帯びた一室となっていた。ここがそういう目的のための施設なのは外観から明らかであり、内装によって確信を持ったものの、部屋の中を垣間見たことでさらに確信を深めるに至る。全体的に通路とはまるで雰囲気が違っている。通路が気分を高めるための色合いならば、室内の雰囲気は、むしろ落ち着かせるための色合いといった風に想えた。
青いのだ。壁から天井、床に至るまで青色をふんだんに使っており、通路とは雰囲気が一変していた。赤が興奮を促す色であり、青が沈静を促す色だということは、セツナも聞いたことがあるが、だとすればこの部屋の内装は施設の目的とは合致しない気がしないでもない。もっとも、だからどうした、という話でもある
ふと、足下を見下ろせば、女性ものの靴が一人分、綺麗に並べられていた。
先客がいる。
緊張をさらに高めつつ、セツナは、後ろ手に扉を閉じ、呼吸を整えた。室内には、気分を昂揚させるためか、落ち着かせるためか、なにがしかの効能を持ったものだろう香りがしており、それを思い切り吸い込んでしまったが、特にむせるようなこともなかった。ただ、落ち着きはしない。むしろ奇妙な焦りを覚えたのは、その香りに覚えがあったからだ。
(そんなわけ……ないよな?)
記憶違いだとだれかにいって欲しくて、彼はそんなことを内心口走ったものの、記憶の中の香りといま鼻腔を満たしている香りの一致具合を否定することはなにものにもできなかった。においは、ときに眠れる記憶を呼び覚ますものだが、その香りは、あまりにも嗅ぎ慣れたものであり、わざわざ古い記憶を掘り起こすまでもなかった。
ファリアがよく使っている香水の香りだったのだ。
(まさか……)
そんなことあるわけがない、と、彼は想いたかったが、そんなセツナの望みを断つようにして聞こえてきたのは、聞き知った水の音だった。
それは、どう聞いてもシャワーの流れる音だ。




