第二千七百五十九話 愛の虜囚(一)
それが夢だということに気がついたのは、いつのことか。
よくわからないまま、土砂降りの雨の中を駆け抜けていた。
頭上は、幾重にも積み重なった雨雲によって覆われ、そこから黒い雨が降り注いでいた。豪雨だ。傘もなければ合羽もなく、全身が黒く凍てつくような雨に包まれ、体の芯まで冷えていくような感覚があった。
(これが試練か?)
だとすれば、どういう意図の試練なのかがわからない。
いやそもそも、これまでの試練だってそうだった。最初は、意図がまったくわからず、最後までわからないままだったりすることもあった。ランスオブデザイアの試練も、ロッドオブエンヴィーの試練も、アックスオブアンビションの試練も、よくわからないままだ。
地獄における最終試練。
その四つ目が、これなのだ。
凍てつくような黒い雨が降り注ぐ中を走り続けている。
最初、周囲にはなにもなかった。見渡す限りの荒野であり、どこに向かって進めばいいのか、それすらわからなかった。故に当てずっぽうで走り出したのが最初だ。まずは、この雨をしのげる場所を探さなければならない気がした。でなければ、寒さで死んでしまうのではないか。無論、試練に死という概念はないが、死を体感することはある。そして、死ねば途中からやり直しだ。何度も死に、何度も繰り返し、ようやく突破できるのが試練の数々だった。この試練もそうなのだろう。どこかで死が待ち構えている。
この黒い雨すら、死を運んでいるのかもしれない。
全身が雨に濡れ、水滴が装束の間から入り込む。体温が急激に奪われ、体力も失われていく。それでもかけ続けているうちに、前方に建物が見えてきた。空は雨雲に覆われている。暗闇の中を走っているようなものであり、前後左右、どこもかしこも暗黒に閉ざされているのと同じだ。なのになぜ前方に建物があるのかがわかったのかといえば、その荒野の中に佇む一件の巨大な建造物が、煌々たる光を発していたからだ。
建物の壁から突き出た電飾付きの看板に、建物の上部に輝く桃色の電飾。いずれも、どこかで見たことがあるような、懐かしい光景であり、セツナは、足を止めた。
「なんだよ……それ」
思わず口を吐いて出た言葉がそれだ。呆然とするのも無理のない話だろう。建物を彩る電飾の数々は、建物そのものをいかがわしく演出しており、どうにも淫靡な雰囲気を漂わせていた。なぜ、そういう風に考えてしまうのかといえば、彼の生まれ育った世界に存在するそういう宿泊施設とあまりにも似ているからであり、それ以外には受け取れなかったからだ。
電飾さえなければ、ただの宿泊所として認識できたのだろうが。
(あそこに向かうしかないのか)
嫌な予感しかせず、彼は周囲を見回した。しかし、どこを見ても無人の荒野が広がるだけであり、目を凝らしても、なにが見当たるわけもなかった。
これは、試練だ。
目の前になにかが存在するのであれば、それには必ず意味があり、価値があるのだ。
つまり、目の前のいかがわしい建物にも意味があり、価値があるということだ。
雨脚が急に強くなった。ただでさえ豪雨だったというのにさらに激しさを増し、降り注ぐ雨粒が痛いほどだった。このまま雨脚が強くなれば、雨に打たれる痛みだけで死ぬこともあるのではないか。そう想えるほどの
雨脚の急激な変化は、セツナを宿泊施設に誘おうという意図を感じずにはいられなかった。
(わかったよ! 行けばいいんだろ、行けば!)
胸中で叫び、彼は、いかがわしい電飾に彩られた建物に向かって全速力で駆け抜けた。なんにせよ、雨は冷たく、我慢できないくらいに痛かった。雨をしのげるのであれば、そこがどのような施設であろうと構ってはいられないくらいに激しく、凍てついてる。このままでは体が凍り付き、打ち砕かれるのではないかと想うほどだ。
やがて宿泊施設の軒先に辿り着くと、硝子張りの扉が自動的に開いた。
(この世界に自動扉はねえだろ)
胸中口汚く毒づきながらも、目の前で起きた出来事を否定することもできず、彼は頭を振った。全身、土砂降りの冷雨に打たれ、冷え切っている。凍てついているといってもいい。とにかく、一刻も早く体を温めたかった。無論、これが試練で、そんなことすらも一筋縄ではいかないことはわかっている。この扉を潜れば最後、予期せぬ試練が待ち構えていることはわかりきっているのだ。
それでも潜らなければならない。
でなければ始まらないのだ。
(しかし、こういうの、ひとりで潜るのはどうなんだ?)
疑問を抱きつつ、硝子扉を通過し、進む。施設内に入ると、外の凍てついた空気とは真逆の暖かさが待ち受けていて、むしろ拍子抜けせざるを得なかった。暖房が効いているようであり、部屋の片隅をみれば、大型の暖房機が接地されているのがわかった。どう見ても、機械だった。どこかで見たことがあるような気もするが、記憶違いかもしれないし、勘違いかもしれない。が、なんにせよ、イルス・ヴァレには存在しないものなのは間違いない。
ここは地獄という名の夢の世界。
なにがあってもおかしくはないし、イルス・ヴァレに存在しないものがあったとしても、問題も不思議もない。疑問を抱くほうが間違っている。
これまでがそうだった。
死人が立ちはだかり、セツナ自身、何度となく死んできた。死ぬ度に蘇り、生き返る度に殺されてきた。現実にはあり得ないことが起こりうるのがこの地獄なのだ。
そこまで考えて、ようやく理解する。
このなにが起きても不思議ではない理不尽さを超克することこそが、最終試練なのではないか。
(とはいえ……だ)
セツナは、暖房機に歩み寄りつつ、周囲を見回した。天井から壁から桃色を基調とした壁紙が張り巡らされていて、なんともいえない雰囲気を醸し出しており、壁際には長椅子が置かれている。硝子張りの、しかし内側の見えない窓口らしきものがあり、その脇から奥へ進むための通路があった。ほかにめぼしいものが見当たらない以上、奥へ進め、ということなのだろうが。
(いったいなにがしたいんだ?)
それは、試練の主に聞くべきなのだろうが、そのためには、提示されている道を進むしかない。その道順を進めば、必ずや試練の主が待っていることだろう。
そしてその主は随分と優しいらしいことが、なんとはなしにわかってくる。これまでの試練に比べると、だが。
なぜならば、暖房機の温風で、凍てついた体を温めきるだけの猶予があったからだ。これまでの試練ならば、そういった時間は与えられなかった。常に試練の連続であり、困難の連続だったのだ。
(まあ、それもいまだけかもしれないが)
こんな建物を用意する試練の主だ。どのような趣味の悪い試練を用意して待ち受けているのか、わかったものではない。
体を温めきったセツナは、静かに覚悟を決めた。
窓口に近づき、中を覗き込むも、人影もなければ人気もない。通路の奥へ進めば、呼び止めるものもいなかった。そして、しばらく進むと、音がした。ふと見れば、扉が開いている。昇降機の扉だ。自動的に開くことなどありえない。呼ばれているのだ。
(乗り込めってか?)
ここで拒否しても進まないことはわかりきっている。
嫌々ながらも昇降機に乗り込むと、扉が閉じ、勝手に動き出した。昇降機には、階層を示す電光の表示板があり、電光表示板は、見る見るうちに数字を変動させる。二、三、四……十、二十、三十と急速上昇を続けていく。
(は……?)
セツナは、思わず呆然とした。
外観からはせいぜい三階建てから四階建ての建物にしか見えなかったのだ。
それがいまや百階に至ろうとしていた。




