第二千七百五十三話 風の行く果て(十四)
「こんなことが……こんなことが許されていいはずがない……!」
ルノウが吼えるように紡いだのは、呪詛だったのかもしれない。
「五百年待ち続けたというのに――」
セツナは、黒き矛に貫かれ、滅びゆくルノウを見つめながら、その呪詛の如き叫びを聞いていた。神々との戦いは激化の一途を辿るが、その多対一の激戦も、いまのセツナにしてみればたいしたことではない。深化した完全武装は、神々をも翻弄するほどの力をセツナに授けてくれていた。故に数の上で圧倒しているはずの神々が、セツナに掠り傷ひとつつけることもできないまま敗れ去っていくのだ。
ルノウの姿が虚空に溶けるようにして消滅した。余韻すら残さない完全な消滅。神威も消え去り、ルノウの神威によって神化したものたちも尽く消え去っただろう。使徒がいたとすれば、同様に消滅しているはずだ。
本来ならば不老不滅にして無尽の力を持つ存在たる神も、神をも滅ぼす魔王の杖の前では、命あるものと同じなのだ。無論、神を凌駕するのは簡単なことではないし、いまこうして圧倒できるのは、黒き矛と六眷属のおかげというほかはないのだが、だからといって、セツナがまったくなにもしていないかといえば、そうではない。
黒き矛と六眷属を召喚し、操っているのは、セツナ自身なのだ。セツナ自身に武装召喚師としての技量が備わっていなければ、完全武装状態を制御するにたる実力が伴っていなければ、神々と対峙することすら適わない。普通、優秀な武装召喚師ですら、複数の召喚武装を同時に運用しようとはしないものだ。セツナは、七つの召喚武装を同時併用している。その消耗、負担足るや尋常ではなく、常に全身全霊で戦っているようなものだった。
命を削っている。
「つぎはどいつだ? だれから滅びたい?」
セツナは、五柱の神の猛攻を捌きながら、問うた。神々は、というと、ルノウが消滅しても冷静だった。元々それぞれ異なる世界から召喚された神々だ。合一し、至高神ヴァシュタラとして五百年に渡って君臨し、“大破壊”以降は仲良くネア・ガンディアに属しているとはいえ、友誼や親愛を結んでいたわけでもなかったのだろう。ただ、目的を同じくする味方の一員でしかない、という程度の薄い繋がりだったのかもしれない。だからこそ、神々は、徹底的に冷徹かつ理性的であり続けることができたのだろうし、セツナに飽和攻撃を繰り出して時間を稼ぐと、強力な一柱の神へと合一してみせることだってできたのだろう。
鳥、獣、龍、鋼、虹――多様な要素を持つそれは、しかし、六神合体したレミリオンに比べればあまりにもか弱く想えた。
故にセツナは、ルウファに視線を向けたのだ。
弱らせたとはいえ、レミリオンは獅徒だ。場合によっては、セツナが手助けをしなければならない。
そう、想った。
“核”。
レミリオンのそれは、さながら翡翠のような美しい結晶体だった。深い緑の半透明の結晶体は淡く輝き、力を発している。拳よりも小さく、掌に収まるほどの大きさだ。
ルウファがそれを目の当たりにしただけで“核”に違いないと結論づけたのは、そうとしか思えなかったからにほかならない。
“核”は、神人や神獣といった神威を浴び、神化した生物の生命力の源、心臓といってもいいものだ。“核”がある限り、無限に動き、永久に生き続けるともいわれており、実際、神人も神獣も神鳥も、どれだけ肉体を傷つけられ、損壊したとしても、“核”が有る限り、あっという間に復元し、元通りに回復することができた。それは、“核”を通じて供給される神の力によるものであり、逆をいえば、“核”を破壊することができれば、神の力の供給が途絶え、回復することはおろか、生命活動も停止するということだった。
使徒も同じだ。
神の加護によって圧倒的な力を誇る使徒も、“核”を破壊されれば命を落とす。
結局のところ、神人と使徒を別つのは、神に選ばれたか選ばれていないかの違いに過ぎず、その点では獅徒も同じなのだろう。
“核”が心臓であり、“核”を失えば、死ぬのだ。
ルウファは、その翡翠のような小さな“核”を目前にしてそのように考えたとき、一瞬にしてなにもできなくなった。
やるべきことはわかっている。やらなければならないこともわかりきっている。自分だ。自分がやらなければならない。これは、バルガザール家の問題なのだ。バルガザール家の人間の、いや、彼の弟のしでかしたこと。
弟の不始末に蹴りをつけるのは、いつだって兄の役割だ。バルガザール家では、そう決まっている。
ラクサスがそうだった。
幼い頃から不出来であり、バルガザール家の面汚しのような人間だったルウファを陰に日向に見守り、間違いがあれば正し、失敗すれば成功するように導き、諫めてくれたのは、いつだってラクサスだった。兄とはそういうものであるという意識がルウファの中に刻まれたのは、当たり前といえば当たり前だろう。
兄とは、弟を見守り、導く存在であり、間違いがあれば、なんとしてでも正さなければならない。
だからこそ、ルウファは、獅徒レミリオンに生まれ変わったロナンをそれでも正そうとした。
しかし、獅徒として生まれ変わり、リョハンの未来に暗影となって立ちはだかるロナンを正すには、どうすればいいのか。神に忠誠を誓うからこその使徒ならば、彼を説得することなど不可能に近い。少なくとも、ルウファの声が届くような状態にないことは明らかだった。
戦う以外の道もなかった。
最初から、交渉の余地などなかったのだ。
だから戦い、ここまで来た。
セツナに滅ぼされるのも致し方ない、と、想った。でも、それでも、彼は、自分の手で決着をつけるべきだと想った。家族のことだ。しかも、弟のこと――。
『弟の面倒を見るのは、兄の仕事だぞ』
などと、ラクサスから何度となくいわれたのは、母がロナンを身籠もったからだ。
父アルガザードにとっては三人目の子ということもあり、落ち着いたものだったし、長兄ラクサスにとっても二人目の弟ということで、妙に慣れたところがあった。
しかし、ルウファは、母が身籠もったことがわかってからというもの、毎日、そわそわした。そして身籠もったのが男の子であるということが判明すると、さらに忙しなくなったことを覚えている。
ルウファにとっては、初めての弟だった。
それまで兄に頼り切りだったルウファは、そのときから兄としての自覚を持たなければならなくなったが、それはむしろ、彼にとっては喜ぶべきことだった。彼には自慢の兄がいる。だれに対しても自慢できる完璧な兄がいるのだ。そんな兄のようになることは、彼の目標だった。だから彼は、生まれてくる弟に対し、兄らしくあろうと必死だったのだ。
もっとも、その必死さは空転し、立派な兄になることなどできなかったが。
だからこそ、ルウファは、いま、ここで兄として最低限のことをしなければならないと想った。
「駄目だよ、兄さん。そこで躊躇っちゃ」
声が聞こえて、ルウファは、はっとした。レミリオンの双眸が輝きを増していた。風が唸りを上げ、ルウファの全身に無数の痛みが走った。本格的な攻撃の前触れ。そう悟ったつぎの瞬間、ルウファは、暴風に吹き飛ばされていた。レミリオンの咆哮が聞こえ、嵐が起こった。獅徒としての力のすべてを解放したかのような、そんな力の嵐。だが、ルウファは、その真っ只中を駆け抜ける一条の閃光を見た。その閃光がレミリオンの浮かんでいた場所を貫いた直後、声が聞こえた。
「良かった……これで兄さんを殺さずに済む……」
嵐の中をを駆け抜けた閃光が大地に突き刺さり、巨大な光の柱となって聳え立つ中、吹き荒ぼうとした力の嵐は突如として消えて失せ、渦巻いていたはずの強大な力も感じ取れなくなった。
「なにが……!」
ルウファは、思わず叫んでいた。
「なにが良かったっていうんだよ! なにがっ――」
呆然と立ち尽くし、理解する。
「なにが……」
それまで吹き荒れていた風が、止まった。
つまり、レミリオンが、死んだ。




