第二千七百五十話 風の行く果て(十一)
手甲がそのまま膨張したかのような黒き掌でレミリオンを掴み、握り締めると、地上に向かって降下し始めた。翼で大気を叩き、加速する。レミリオンは掌の中で藻掻き、抗うが、カオスブリンガーと完全に同期したロッドオブエンヴィーの握力には敵わないようだった。
レミリオンとの激戦によって荒れ放題に荒れ果てた大地の亀裂が視界に飛び込んでくると、その遠くからこちらを見つめる視線に気づいた。防備のため、空中都に引き上げていく武装召喚師たちの中、ただひとり、戦場に残り、こちらを見上げる人物。金髪碧眼の天使のような男。ルウファ=バルガザール。その目は、この戦いの成り行きを心配で見守っているという風には見えなかった。もっと別のなにかを訴えているような、そんなまなざし。セツナを心配してなどいない。セツナへの全幅の信頼が、その態度に表れている。
では、なぜ、その場に留まり、こちらを見ているのか。
やがて、その視線の先には、セツナではなく、レミリオンがいることを認める。
ルウファの顔は、遠く離れたセツナにもはっきりと見える。耐え難い苦しみを噛み殺したような、そんな表情を浮かべる彼の顔は、ついさっき、目の当たりにしたような気がした。
気のせいなどでは、ない。
どこかのだれかが、彼とそっくりな表情をして見せたのだ。
そしてそれが目の前の男だということに気づいたとき、セツナは、唖然とした。
(そうか……そういうことか。そういうことかよ)
深化した“闇撫”の中で足掻くレミリオンに視線を移し、吐き捨てるようにつぶやく。レミリオンの顔には、見覚えがあると思っていた。声には、聞き覚えがあると思っていた。どこかで会っただれかなのだろう、ということには気づいていたが、はっきりと思い出せない以上、深く考えるべきではなかったし、考えても致し方のないことだと思い、割り切っていた。
相手は、獅徒だ。
ネア・ガンディアの指導者にして神々の王、獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアの使徒であり、斃すべき敵なのだ。どこかで会っただれかなのかもしれないからといって、そのことについて深く考えている時間など、あろうはずもない。故に彼は割り切り、レミリオンの撃破にすべてを費やそうとした。
なのに。
「なんで君なんだ、ロナン」
叫んだとき、大地が眼前に迫っていた。レミリオンを“闇撫”ごと大地に叩きつける。地面が大きく陥没するほどの圧力と衝撃が加わり、余波として舞い散った衝撃波が土砂を巻き上げていく。だが、そんなものでは獅徒の肉体に痛撃を与えられないことはわかりきっている。大地に叩きつけるよりも、“闇撫”による握撃のほうが遙かに効率的だ。
ではなぜセツナがレミリオンを地面に叩きつけたのかといえば、彼を地面に縛り付け、そこからの追撃でもって彼を斃しきるつもりだったからだ。
「ロナン=バルガザール!」
「なんだ、いま、ようやく思い出してくれたんですか、セツナ様」
少し残念そうな、それでいてどこか嬉しげな声音は、確かにロナン=バルガザールのものだった。思い出してしまえば、記憶の中の声と合致する。
ロナンは、ルウファの実弟であり、セツナがバルガザール家に世話になっていたころから親しくしていた間柄だった。王立親衛隊《獅子の尾》が結成され、隊舎を構えるようになってからも、彼との親交は続いた。ロナンは暇を見つけては隊舎を訪れ、隊の面々と関わり合ったのだ。だから、なのだろうか。彼は、《獅子の尾》の武装召喚師たちに憧れ、武装召喚術を学び始めたことを覚えている。
そして最終戦争が起きた。彼は、王都の地下に避難したはずだった。だがおそらく、地下に逃げようとも関係なかったのだろう。“大破壊”が起きた。獅子神皇が降臨し、クオンたちが獅徒に転生したのとときを同じくして、彼もまた、獅徒に選ばれた――ということなのだろう。
なぜ、彼なのか。
当時、ロナンは、武装召喚術を学び始めたばかりだった。ガンディアにおける武門の名門たるバルガザール家に生まれたこともあり、剣術などの戦闘技術は一般人に比べるべくもなく持っていたのだろうが、しかし、実戦経験もない人間を獅徒に生まれ変わらせることになんの意味があるのか。
まさか、いま、この瞬間の逡巡のためだけに、セツナたちの心に苦痛を与えるためだけに、彼が獅徒に転生したわけではあるまい。
そこまで悪趣味などではないと思いたいのだが、しかし、獅子神皇に生まれ変わったレオンガンドがかつてのレオンガンドとはまったく異なる主義主張をしていることも鑑みれば、そうとも言い切れない。
単純にバルガザール家の人間だから、という可能性のほうが強いが。
アルガザードもラクサスも獅徒の如く生まれ変わっていたのだ。やはり、ただ単純にバルガザール家の三男だから選ばれたと考えるべきなのだろうか。
いずれにせよ、レミリオンの正体を知ってしまったことで、セツナは、追撃の手を止めざるを得なかった。
やり切れない。
思い出すのはルウファの表情だ。耐え難い苦痛の中で、それでも未来を見据え、目の前の苦難を乗り越えようとする決然たる顔つき。彼は、獅徒レミリオンと化したロナンを自分の手で斃そうと考えていたのだ。きっと。しかし、獅徒の力があまりにも強大すぎて、ルウファ個人の力ではどうにもならなかった。故に彼は、なにもできない己の無力さに打ち拉がれ、いまにも泣き出しそうな表情でこちらを見ていたのだろう。
ふと、声が聞こえる。
「隊長……ロナンは、せめて俺の手で――」
(ああ……わかったよ。わかった……)
うなずきたくはないが、うなずかざるを得ない。認めざるを得ない。ルウファにとってロナンは最愛の弟だ。その弟が、リョハンの武装召喚師たちを殺戮し、破壊の限りを尽くさんとしている。リョハンそのものを終わらせようとしているのだ。
身内の落とし前は、身内がつけるもの。
それがこの世界の掟だった。
だから、セツナは、レミリオンを握り締めたまま、黒き矛を翻した。矛を右肩に突き刺し、彼が苦悶の表情を浮かべるのを見つめながら、柄から右手を離す。そして左手に右手を重ね、右手の“闇撫”も発動する。手甲から噴き出した闇の力が巨大な異形の掌を形取り、レミリオンをさらに包み込む。
「こんなもの……!」
レミリオンが苦痛の中で叫び声を上げるが、セツナは構わない。全霊の力を込め、“闇撫”を獅徒の体内に浸透させていく。
いくらルウファが決着をつけたいからといって、六柱の神と合一したレミリオンを任せることはできない。それはルウファを見殺しにするのと同じだ。ただの獅徒レミリオンにすら敵わなかったのが、ルウファなのだ。それでも彼がやるという。
弟の不始末は、兄がつけるものだ、とでもいわんばかりに。
(そこか)
セツナは、“闇撫”をレミリオンの精神世界の奥底に浸透させることで、彼と合一した存在に触れた。六柱の神だ。それら精神世界に眠る神々を一度にかっさらい、そのまま現実世界に引き上げていく。“闇撫”の巨大な掌をレミリオンの体内から引き抜いたとき、手の内には、六柱の神がいた。名も知らぬ鳥頭人身の神に、ナルヴァ、キーア・エ、ルノウ、デイシア、ニーリス。それらは、“闇撫”の中で目を覚ますと、愕然とした様子でこちらを見た。
一方、合一を強制的に解かれたレミリオンの姿は、獅徒本来の姿に変わっていた。
セツナは、ルウファを一瞥すると、レミリオンを解放し、左手に黒き矛を握り締めた。神々を握り締めたまま、天高く舞い上がる。
レミリオンがなにかを叫んだようだったが、セツナの耳には届かなかった。




