第二千七百四十五話 風の行く果て(六)
「これでいい」
彼は、もはや身動きひとつ取れなくなった死神を見つめ、告げた。
六柱の神との合一により、より精度が増した“無色世界”は、死神レムをその場に固定し、拘束することに成功したのだ。大気の圧縮による拘束は、レムに表情ひとつ変えさせない。微笑を浮かべたまま、まったく動けないことの理不尽さを感じていることだろう。
殺し続けても死なないのであれば、心が折れることさえないのであれば、その場に封じ込めておくほうが遙かに効果的だろう。
最初からこうしておけばよかった、とは、想わない。なぜならば、マハヴァのみとの合一による“無色世界”では、レムを封殺することができなかったからだ。だから、レムを殺し続ける神威の檻を作り出したのだが、それも力を見誤ったがために抜け出された。いまならばあのとき以上に強力な神威の檻を作り出すことも可能だが、そこに意味は見いだせない。殺し続けるよりは、“無色世界”で封殺するほうが余程単純で、気分的にも楽だった。
ひとを殺すのは、相手がだれであれ嫌なものだ。
だから、というのもある。
だから、できる限り血を流さない方法でリョハンを壊滅させたいのだ。
最優先事項は、ルウファを傷つけないことであり、彼の心の傷をできる限り少なくするためだったが、それだけではない。
レミリオン自身、人殺しが好きではないのだ。
獅徒に転生するまで実戦経験すらなかったものがいきなり戦場に駆り出され、か弱いひとびとを一方的に殺して回るというのは、ただひたすらに心苦しく、虚しいものだった。いつからか彼は、ひとを殺さずに勝利する方法を模索するようになったが、しかし、獅子神皇の命に従うことこそが最優先事項である以上、そればかりを追求しているわけにもいかなかった。
数え切れないくらいのひとを殺して、この手は血塗られた。
ならばこそ、殺さずに済む相手をむざむざ殺そうとは想わないのだ。
レムの眼前を悠然と通り過ぎ、リョハンに目を向ける。強力な防御障壁に覆われた空中都市は、山中の大空洞に音もなく鎮座している。目的は、その空飛ぶ都市の破壊ではない。リョハンが二度と立ち直れなくなれば、それでいいのだ。そのためには、戦女神を殺し、守護神を封印するだけでいい。それならば、余計な血は流れない。無用な殺しをせずに済む。
リョハンを覆う防御障壁は、人間のみを通過させる。レミリオンも人間態にならなければ通過できないのだが、いまの彼ならば、あの防御障壁を打ち破ることも不可能ではなかった。なにせ、六柱の神と合一を果たしたのだ。その力は、何十倍にも引き上げられている。
もはや、向かうところに敵はいない。
そう、想った。
しかし、彼は突如異様な気配を感じて、立ち止まり、振り返った。本来背後にはレムだけがいるはずだった。ルウファを始めとするリョハンの武装召喚師たちはひとりとして、周辺にはいない。“無色世界”で拘束したままなのだから、動けるはずもない。それはレムも同じことだ。レムが動けるほどか弱い力で拘束しているわけもない。
振り向いた先、レムのすぐ目の前に立っていたのは、黒い男だった。闇そのものがひとの形をしたような、そんな印象を受けたのは、その真っ黒な背中を見たからだろう。闇の翼に闇の鎧、背部から伸びた闇の腕――いずれも、レムのそれとよく似ている。レムが元にしたのだから似ていて当たり前といえば、当たり前だ。その男は、こちらに背を向けたまま、いった。
「レム、だいじょうぶか?」
するとどうだろう。どういうわけかレムが“無色世界”の拘束から解放され、口を開いた。
「ご、御主人様!? いったい、どうしてここに?」
「おまえに任せていられるのもここまでだ。ここから先は俺の役目」
いったいなにが起こっているのかわからないまま、レミリオンは、こちらに向き直る男の姿に目を細めた。こちらを向くと、やはり想像通りの人物だということが明らかになる。真っ黒な頭髪の上には闇色の仮面を乗せており、どこか皮肉げにつり上がった両目には、血のように紅い瞳が輝いている。その狂暴そうな表情は、それこそ、英雄の戦場での姿なのだろう。日常の顔しかしらない彼にとってしてみれば、その凶悪といっても差し支えない表情を目の当たりにしただけで、興奮を禁じ得なかった。
セツナ=カミヤ。
最後に見たときから、外見上に大きな変化はない。最終戦争と世界崩壊を経験したことで、多少なりとも擦れているように見えなくもないが、それは結局、印象に過ぎない。体格に関しても、そうだ。あまり変わっている印象はない。漆黒の軽装鎧を纏い、闇の翼を広げ、三つの闇の腕には大斧、槍、杖が握られている。手には黒き矛だ。その姿は、少し前までのレムとよく似ている。この場合、レムがセツナに似ていた、というべきなのだろうが。
レムは、いまや同じ姿ではない。借り物の力が失われたのだろう。可憐な少女としかいいようのない姿に変化していた。
セツナ自身がいったことだ。ここから先は、自分の役目である、と。だからこそ、彼はレムに貸し与えていた力を取り戻したのだろう。
「そう判断したまでだよ。なあ、獅徒レミリオン」
「ぼくに同意を求められても、困るな」
レミリオンは、どういう表情をすればいいのか、困り果てた。笑うべきか、泣くべきか、怒るべきか、愉しむべきか。様々な感情が入り交じり、複雑な表情にならざるをえない。
目の前には、かつて憧れた英雄がいる。
ガンディアの青少年ならばだれもが憧れ、夢にまで見た英雄の姿だ。これほど心昂ぶることはなく、これほどまでに心苦しいこともない。
彼は、敵だ。
斃すべき敵として、目の前に立ちはだかった。
残念なことに彼を“無色世界”で封殺することはできないだろう。なぜならば、彼はレムを容易く“無色世界”から解放してしまったのだ。どういう方法なのかはわからないが、大気の拘束を解く術を持っている以上、“無色世界”で彼を拘束し、その間に目的を成し遂げるという方法は取れなくなった。
彼と戦わざるを得ない。
「ガンディアの英雄セツナ=カミヤさん」
「そういうあんたらは、ネア・ガンディアの英雄か?」
「どうだかね。ネア・ガンディアには、英雄なんて必要ないからね」
英雄などいなくとも、ネア・ガンディアには偉大にして唯一無二の絶対者が存在するのだ。
獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディア。
かつて英雄の主だった若き獅子王は、いまや神々の王となり、世界に覇を唱えている。その事実を知らないセツナではあるまい。セツナは、
「唯一、ヴィシュタルだけがそう呼ばれたとしてもおかしくはないけれど」
「ヴィシュタル……か」
彼が複雑な表情をした理由は、知っている。
獅徒ヴィシュタルは、クオン=カミヤの転生だ。クオン=カミヤは、セツナ=カミヤの友人だったという話を聞いたことがあったし、ザルワーン戦争では、ふたりで力を合わせ、ザルワーンの守護龍を撃退したという逸話もある。そんな人物が獅徒に生まれ変わり、敵対しているのだ。なにかしら、想うところもあるのだろう。
レミリオンとて、同じだ。
かつて、ともに戦うことを夢にまで見た英雄と敵対することは、人間時代の自分を全否定するのと同じだった。
胸中、頭を振る。
もはや人間ではない。
獅徒なのだ。
人間時代の記憶に振り回されている場合ではないはずだ。
「でもまあ、そんな話はどうでもいいことさ」
「……そうだな」
セツナが小さくうなずく。そして彼は、レムになにやら目配せをした。すると、レムの姿が影に溶けて消えていった。追うことはできない。セツナが視線で牽制してきていた。
「あなたは、ぼくを見逃してはくれないよね?」
「見逃す?」
「そう。ぼくが戦女神を殺し、守護神を封印するのを」
「……当たり前だろ」
そういった瞬間、セツナの目が凍てつくように輝いたのを、彼は見逃さなかった。




