第二百七十三話 反魂
夢を見ていた。
いつ終わるともしれない長雨の鬱陶しさに辟易するかのように、覚めない夢の長さに絶望さえしかけていた。いや、実際、絶望していたのかもしれない。そこに希望などなかった。
幸福な夢ならば、いつまでもたゆたっていたいと思うかもしれない。ぬるま湯に浸り続け、身も心も溶けてしまいたくなるのかもしれない。だが、その夢が悪夢ならば話は別だろう。すぐにでも現実に回帰したいと懇願し、泣き叫びたくなったほどだ。ぬるま湯ではなく、熱湯であり、冷水だったのだ。
夢の中で、彼は何度となく仲間を失った。
たったふたりの仲間は、彼にとっては半身に近かった。そんな仲間を失うのは、半身をもがれるのも同じことであり、激しい苦痛を伴うものだ。肉体的な苦痛ならば堪えることもできたかもしれない。しかし、夢の中での出来事は、彼の肉体に直接作用するようなものではなかった。ただいたずらに精神を蝕んでいくのだ。狂いそうになる。壊れたままの心が、さらにばらばらに砕け散っていくのがわかる。
悪夢の中、仲間を失う理由は様々だった。その中でもっとも多いのは、ガンディア軍との戦いの最中、敵の武装召喚師に殺されるというものだ。ミリュウ=リバイエンは黒き矛に貫かれて死亡し、ザイン=ヴリディアは雷霆の射手に雷撃を浴びせられて死ぬ。逆の場合もあれば、雲霞のような敵兵に飲み込まれていったこともある。
彼だけは、死ななかった。いつだって傍観者で、ふたりの死に様を見届け、悲鳴を上げるのが彼の仕事のようなものだった。混濁する夢の中で、それだけは不変的なものとしてあり続けた。彼はふたりを助けることもできなければ、関わることもできなかった。手を伸ばすことさえ許されない。なぜか、手も足も動かなかった。声も出なければ、呪怨を唱えることもできない。武装召喚術さえ使えられれば、ふたりの元へ向かうこともできたのに。
どうしてなにもできないのか、彼にはわからなかった。
まるで死人のように、ふたりの最期を見ていることしかできないのだ。
死人のように。
死。
(そうだ。俺は死んだのだ……)
彼は、死の間際に見た光景を思い出した。
違う。死の寸前よりも少し前の情景だ。
闇に抱かれた森の中で、彼はミリュウの姿を探していた。ミリュウは黒き矛と戦っていたはずであり、森に到着すればすぐにでも発見できるものと思っていたのだが、彼の推測は外れた。ミリュウは黒き矛に敗れ、捕縛された後だったのだ。彼はミリュウが生きていることに安堵こそしたものの、彼女を取り戻すことは自分にはできないのだということを悟り、絶望した。ファリアに刺された傷口から流れ落ちた命は、あのとき、もはや拾い集めることも叶わない状態だったのだ。だから、黒き矛に襲いかかろうとも思わなかった。複製の矛をも手にした彼に敵うとは考えもしなかった。
死は。受け入れるしかない。
ファリアを侮った報いだ。油断した結果なのだ。慢心が身を滅ぼした。致命傷さえ受けなければ、彼は、ミリュウの救出に飛んでいっただろう。光化すれば、黒き矛であってもすり抜けることができたのだから。
しかし、それもできない。命数が尽きようとしている。その実感の中で、彼は黒き矛にミリュウのことを頼んだ。悔しいが、それ以外の手はなかった。黒き矛が信用に値する男かどうかはわからない。だが、ミリュウを生かしたまま捕縛したような男なのだ。彼には、そこが付け入る隙のように思えてならなかった。だから、頼み込んだのだ。
そして、彼は死んだ。
死の間際、黒き矛の少年の赤い目が、死そのもののように輝いて見えた。
浮上するような感覚とともに、眼前を覆っていた闇が次第に取り除かれていくのがわかる。全身に神経が通っていくような感触。熱を感じる。痛みもだ。体中が重量を感じている。押し潰されそうになっている。圧迫されているのだ。うめく。が。
(え?)
獣の咆哮のような野太い声が聞こえて、彼は驚いた。視界に光が踊る。闇の底に沈んでいた所為なのかは知らないが、わずかな光ですら視神経が破壊されるかのような痛みをもたらし、彼は再び苦悶にうめいた。しかし、今度は、自分のうめき声が鼓膜を揺らす。確かに、聞き慣れた声だ。低い男声。そのことには安堵したのだが、同時に疑問が膨れ上がる。
(これはなんだ?)
光を感じたことによる痛みは収まったものの、全身の痛みは際限なく続いている。終わることのない悪夢が、未だに続いているかのように皮膚の内外でのたうち回っている。痺れるような痛みもあれば、刺すような痛みもある。多種多様な苦痛に苛まれながら、それでも意識を保っていられるのは、これが悪夢だからかもしれなかった。
光は、遥か前方にある。いくつもの小さな光が、天井に散りばめられている。魔晶灯だろう。光が小さく見えるのは、天井が高過ぎるからだ。半球形の広大な空間。その中心に、仰向けに寝かされているのがわかったのは、天井の形状のおかげだった。悪夢にしては、出来過ぎている気がしないでもない。
「どうやら成功したようだな。なかなか目覚めないので、失敗したのかと思ったぞ?」
足元の方向から響いてきた甲高い声は、いままでの悪夢には出てこなかった人物のものだ。その男のことはよく知っている。ミリュウが恨んでも恨みきれない、憎んでも憎みきれない男だ。それはそうだろう。その男がいくら魔龍窟の総帥であっても、彼女の実の父親なのだ。子供の頃から刷り込まれた記憶を消し去るのは難しいことだ。彼がザルワーンへの愛情を捨てきれないのと同じようなものだろう。
「オリアン=リバイエン……」
自分の声が聞こえて、ようやく、彼は声に出してつぶやいたのだと知った。無意識に言葉を紡いでしまっている。
「わたしの名前がどうかしたか? クルード=ファブルネイア」
嘲笑うかのような声とともに、靴音が反響していた。こちらに近づいてきているようだ。彼は、無理に起き上がろうとは思わなかった。全身を刺激する痛みを倍増させることになるかもしれないからだ。そして、この肉体的な痛みは、これが、悪夢ではなく現実であるという証明ではないかと思った。混乱する。
「クルード……」
自分の名をつぶやきながら、男の姿が視界に入り込んでくるのを見ている。白金の頭髪がミリュウとの血縁を嫌でも認識させる。痩せぎすの男は、研究者でも装っているのか、これみよがしに白衣を纏っていた。右手の小指がある。ザインが食いちぎったはずなのだが。
「自分の名前さえ思い出せないか? やはり、記憶に欠損があるのか……。完全な成功とは言い難いようだな」
なにやらぶつぶつと独り言を紡ぐ男の様子を眺めながら、彼は、やはり夢でも見ているのだと認識し始めていた。オリアンの指が無事なのがその証拠だ。食いちぎられた指をくっつけているわけでもなさそうなのだ。まるで新しく生えてきたかのようにきれいな小指だった。
「さて、クルード。調子はどうだね? 生まれ変わったような感覚なのか、それとも、なにも変わらないのか。地獄というのは実在するのかね?」
「なにをいっている……?」
わけのわからぬことをまくし立ててくるオリアンに対し、クルードは目を細めた。彼のいっていることは、さっきから要領を得ないことばかりだ。いや、理解できることもあるにはあるのだが、思考が正常に働いていないのか、頭に入ってこないのだ。全身の痛みのせいではあるまい。もっと根源的ななにかが、クルードの意識を狂わせている。それは確信に近い感覚だった。
オリアンが、その皮肉げな表情を殊更に歪めてみせた。
「君は、蘇ったのだよ」