第二千七百二十五話 獅徒レミリオン(六)
その少女は、彼が最初に目にしたときからほとんど同じ姿をしていた。不思議なことに瞳の色こそ変化しているものの、外見に変化がないのだ。時を経、年を取っているという印象がない。それが彼女が死神と呼ばれる所以のひとつであることは、彼もよく知っていた。
死神レム。
ガンディアの英雄セツナ=カミヤが従僕のひとりであり、セツナとともにガンディアの躍進に多大なる貢献を果たした英雄豪傑のひとり。少女のような外見と常に微笑を湛えていることでよく知られ、ファリアやミリュウ=リヴァイアらとともに英雄セツナの物語を彩る花の一輪に数えられたものだ。
あの輝かしい時代、ガンディアの少年少女は、英雄セツナの活躍に興奮し、その物語に耳を傾け、あるいは目を輝かせた。王都では英雄を讃える詩が聞こえない日はなかったし、だれもがセツナを褒めそやし、彼や彼とともに戦野をかける女性たちの話題が絶えることはなかった。
いつか、セツナとともに戦場に立つことこそ、血気盛んな少年たちの夢だっただろうし、そんな夢物語を公言するものも決して少なくなかった。
彼も、そのひとりだった。
武装召喚術を学ぼうと想ったのも、そのためだ。武装召喚師として一流となれば、《獅子の尾》が拾ってくれるかもしれない。淡い期待が希望となって彼を突き動かし、彼の人生を変えた。いつか超一流の武装召喚師となって、セツナとともに、兄とともに戦場に立ち、ガンディアのために戦う。
それが彼のすべてとなった。
それはいまや取り戻せない、遠い遠い昔の出来事。
彼は拳を握ると、門の上に立つ少女を改めて確認した。その少女が死神レムなのは間違いない。闇色の髪に十代前半の少女にしか見えない外見、可憐な容貌。いつからか紅くなった瞳も、彼女の特徴と合致する。常日頃から女給の格好をしているのがレムのもっとも有名な特徴のひとつだったが、切羽詰まった戦場ということもあってか、いまはそんな格好をしてはいなかった。黒衣の上から漆黒の軽鎧を身につけている。頭の上には黒い仮面を乗せていて、右手には漆黒の矛が握られていた。
その漆黒の矛の禍々しさたるや、黒き矛に引けを取らない。もしや黒き矛カオスブリンガーそのものなのではないか、と思わずにはいられないほどに凶悪な気配を感じ取り、彼は目を細めた。だとすれば、自信たっぷりに彼女が立ちはだかるのも無理はないが、そんなことはありえない、という結論に至る。
黒き矛――魔王の杖は、杖自身が選んだ護持者にしか扱えない代物であり、護持者以外が強引に使おうとすれば、身の破滅を招くだけだ。セツナがみずからの従者にそのような真似をさせるわけもない。つまり、黒き矛そのものではない、ということになるが、だとすれば、なんなのか。
彼は、漆黒の矛から感じる異様さが気になって仕方がなかった。
とはいえ、そこにばかり注目していても始まらない。
目的を果たせない。
目的は、戦女神ファリアと守護神マリクの打倒であり、それさえ完遂することができれば、リョハンの瓦解は目前だ。ルウファを手にかける必要も、ルウファを必要以上に傷つけることもなく、彼は自身に与えられた任務を完了させることができるのだ。
そのためにも、まずは目の前の障害物を排除するしかない。
それがたとえ、かつて憧れの彼方にいた英雄の従僕であろうとも、だ。
「ぼくを通すつもりはない、ということかな」
「そう聞こえませんでしたか?」
「いいや」
彼は地を蹴った。一瞬にして達する最高速度が彼の体を死神の頭上へと運ぶ。
「聞こえたから、疑問なんだよ」
告げ、彼は戦宮を眼下に捉えることに成功した。つまり、死神の定めた境界線を突破したということだ。
「ほら――」
越えた。
そう、言い切れなかったのは、凄まじい衝撃が彼の胴体を貫き、彼自身を空高く吹き飛ばしたからだ。急速に遠ざかっていく戦宮と彼の間には、死神の悠然たる姿があった。
矛を振り抜き、彼女は笑う。
「通しませぬ、と、申し上げました」
笑みの中に隠れた冷徹さは、物語に聞く死神レムの印象とはまったく異なるものだった。
(死神……か)
彼は、空中で静止すると、態勢を整えながら、腹に空いた穴に触れた。矛に貫かれたらしい。いまのいままで一切傷を負ったことのない彼の肉体が、あまりにもあっさりと損傷した事実には驚きを禁じ得なかった。彼は愕然としつつも、その傷口を塞ぎ、痛みを消し飛ばした。
死神レムは、どうやら斃さなければならないようだ。
斃さなければ、戦宮には入れない。
そうとわかれば、覚悟を決めるしかなかった。
それは、過去との決別でもある。
ガンディアの黄金時代を象徴する英雄伝説への挑戦にして、みずからの想い出や憧れを己が手で穢し、否定する行為なのだ。心が震えた。魂が、揺れた。遠い遠い過去。もはや取り戻せない時代。記憶の中にしか存在しないものについて思い悩むなど、馬鹿げている。彼は胸中、頭を振った。
(なにを考えているんだ、ぼくは)
もうとっくに決めたことではないか、と、彼は拳を握り締めた。
それもこれもネア・ガンディアのため。
獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアのため。
彼は、覚悟を決めた。
レムは、獅徒レミリオンと呼ばれる存在と対峙しながら、なんともいえない充足感に満たされていた。普段から満たされていることの多いレムではあるが、いまは格別としか言い様がないだろう。
満ち溢れる力は、彼の命、彼の魂との同期であり、同調を意味している。
手には黒き矛、頭には闇黒の仮面、体には純黒の鎧を纏い、深黒の双刃、漆黒の槍、紫黒の斧、蒼黒の杖をも内包している。いずれもセツナの召喚武装であり、魔王の杖こと黒き矛とその眷属たち、その投影といってもよかった。つまり、影だ。セツナの命の影たるレムだからこそできることといっても過言ではあるまい。レム以外のだれにも真似の出来ないことであり、だからこその特別感や充実感、優越感があるといっていい。
実際、ほかのだれが同じことをできるというのか。
ファリアにもミリュウにもシーラにも、ウルクであっても、これだけは真似の出来ないことだ。
セツナの従僕となることならウルクにだってできる。セツナの話し相手になることなら、セツナとともに戦うことならば、だれにだってできる。だが、セツナの影になることは、彼から命をもらっているレムにしかできない。セツナの影たる彼女だけに許された行為だ。
だからこその充足感。
満ち足り、いまにも溢れそうな想いが全身を燃え上がらせている。
命が燃え、魂が灼かれていく。
この焦がれる想いこそ、セツナから流れ込んでくる感情の奔流そのものであり、彼の激情そのものだ。彼のどこにこれほどまでに強烈な想いが隠されていたのかは知らない。凄まじいとしかいえない怒りの炎。哀しみの渦。底なしの欲望――数多の感情が怒濤の如く押し寄せ、彼女の心を飲み込んでいく。まるで自分が自分でなくなるような、そんな感覚。逆流現象とやらに似ているのではないかと想う一方、明確に違うと言い切れもする。なぜならば、その流れ込んでくる感情の奔流は、彼女の自我を塗り潰すことはなく、むしろ尊重してくれるからだ。
まるでセツナ自身がそうであるように。
それだから、愛おしさが何倍にも膨れ上がるのかもしれない。
そんなことを想っていると、空高く吹き飛ばした相手が空中で体勢を整えるのを完了していた。
レムは、その様子を見て、静かに矛を構えた。負ける要素など、どこにもない。
彼女はそれを完全武装・影式と呼ぶ。




