第二百七十話 魔女は囁く
北進軍がマルウェールを制圧して、三日目。
九月二十一日である。
マルウェールに駐屯していた戦力は、第五龍鱗軍の千人だけであり、第五龍鱗軍が壊滅したことで、ガンディアに抵抗するものはいなくなったといってよかった。
マルウェール市民は、当初こそ反抗的な面を見せてきたものの、ほぼ無傷といっていいような状態で勝利を手にした北進軍の陣容を前にすれば、沈黙せざるを得なかった。もちろん、それで人心を掌握したとは考えようがないものの、制圧に抵抗した挙句、暴動を起こされるよりは遥かにましだといえる。
市民が沈黙した理由のひとつは、マルウェールの庁舎で務めていた役人たちが全面的に降伏したことも大きいのかもしれない。彼らは、抵抗が無意味だということを知っており、市民の身の安全と、生活の安定を約束してくれるなら、ガンディアに従うといってきていた。デイオン=ホークロウ左眼将軍はそれを受け入れ、庁舎の役人たちに人心の慰撫を任せたようだ。
北進軍は、マルウェール攻略戦での損害が軽微だったということもあり、二十一日の早朝には軍を整え、マルウェールを出発している。つまり、いまは行軍中なのだ。
マルウェールには、シギルとかいう剃髪の軍団長を残してきたらしい。割いた兵数は五百。都市を守るには少ないと思うのだが、北進軍としてはこれ以上割くことはできなかったのだろう。
つぎは五方防護陣ファブルネイア砦であり、その先にザルワーンの首都・龍府がある。決戦が近づいている。龍府での決戦のために戦力を温存しておきたいというのは、デイオンが何度もいっていたことだ。軍議に興味のないウルですら覚えている。
そのために、カイン=ヴィーヴルが策を弄したのだ。マルウェールの守将である翼将ハーレン=ケノックをウルの異能によって支配し、開城させる。そこに三千人に及ぶガンディア軍が乗り込んでいけば、通常ならば、敵兵は戦意を失い、小競り合いさえ起きなかったかもしれない。
兵数差は三倍。いくら複雑な市街地を熟知し、地の利があるとはいえ、城壁を突破され、丸裸となった彼らに勝ち目などはなかった。普通ならば、そこで諦めるものだ。兵力差に絶望こそすれ、希望を見出すことなどできないはずだ。
ウルであっても、それだけの敵兵に囲まれれば、生きた心地はしない。が、彼女は生き延びることができるだろう。彼女には異能がある。兵士を支配し、護ってもらえばいいだけだ。
しかし、そんな能力も持たないはずの兵士たちは、なぜか抵抗した。死ぬことを微塵も恐れていないかのように、立ち向かってきた。
ウルは、馬車の荷台で揺られながら、生と死の狭間でのたうち回る兵士たちのことを思い浮かべていた。彼らは、エイス=カザーンという老人を熱烈に信奉していたらしい。エイスの一声で、彼らは死地へ赴いた。死をも恐れぬ勇気を得、生をも捨てる覚悟を手にしたという。
「死ねばなにもかも無駄になるって、いっていたわよね」
視線の先で寝転がっている仮面の男に話しかける。マルウェールの戦いで無数の矢を浴びた男は、たった三日あまりで完治に近く回復していた。化け物じみた回復力だと、軍医が驚くほどだったし、ウルも驚かされたものだ。もっとも、それほどの回復力だったからこそ、彼は龍府行きを認められたのだが。
あのままなら、彼はマルウェールの病院に取り残されただろう。
いくらカインが使い捨ての武装召喚師とはいっても、重傷のまま戦場に放り込むことはしないはずだ。まだまだ使い道はある。彼は、戦力として十分以上に機能しているのだ。傷が重いなら、回復を待てばいいだけのことだ。
もっとも、武装召喚師のみによる部隊《獅子の尾》が圧倒的な戦果を上げ始めている以上、彼は用済みと思われているかもしれず、それならば、彼に召喚武装を持たせて特攻させるという考えがでてきてもおかしくはないが。
レオンガンドは善人ではないし、むしろ悪人に分類されるべき人間だ。そんな男が考えることなど、ウルにはわかるはずもないのだが、彼がガンディアの勝利のためならばどんな手段も使う男だということはわかりすぎるくらいにわかっていた。
「それがどうした?」
「じゃあ、マルウェールの兵士たちは、なんのために戦ったのかしら?」
「死ぬためだろう」
「無駄なのに?」
ウルは笑った。矛盾している。死ねば無駄になるというのならば、死のうとするのはおかしいことだ。死ぬために戦うなど、無駄になるために戦うのと同じことではないのか。
「生きるためならば、降伏すればよかった。万に一つも勝ち目はないというのは、だれの目にも明らかだったはずだ。たとえ、最初の斉射でデイオン将軍を殺せていたとしても、だ。彼らに勝機は生じ得なかった。物量差を覆すには、武装召喚師を投入するしかなかったのさ」
カインのいうことは、もっともだったが。
「敵に武装召喚師がいたら、あなたでも苦戦したのかしら?」
「相手によるな。ザルワーンの武装召喚師など、多かれ少なかれ、俺と同じようなものだ」
「あなたと同じ?」
ウルは、カインが何人もいるところを想像して、苦笑した。仮面の男が群れを為して襲いかかってくる様は、あまりに暑苦しい。とはいえ、笑えるようなものでもないのも事実だ。カインの武装召喚師としての力は、三日前に目の当たりにしたばかりだった。
「同じ教育を受け、同じ訓練を課され、同じ地獄を越えてきた連中だ。少なくとも弱くはない」
「……でしょうね」
カインの言葉を肯定したのは、彼が他人を持ち上げる理由がないからだ。
「しかし、苛烈な選別だ。十人も生き残ってはいまい。多くて五、六人といったところか」
「魔龍窟……ねえ」
ウルは、小さくつぶやきながら、馬車が停止するのを感じていた。北進軍は、朝から走り続けていたのだ。休憩でもするのだろう。
(外法機関とどちらが酷いのかしらね)
魔龍窟と外法機関。
どちらも、人間としての尊厳を奪い尽くしたという点では同じなのだろう。魔龍窟はその中で優れた武装召喚師を作り出そうとし、外法機関は異能の化け物を創出しようとした。
どちらも、成果を上げたといえるのだ。魔龍窟はカインや、中央軍と戦ったというジナーヴィのような武装召喚師を生み出した。外法機関は、ウルやアーリア、レルガ兄弟といった怪人たちを誕生させた。
結果、歴史は動いたといえるのかもしれない。怪人たちがいなければ、ガンディアがここまで簡単に躍進することはなかったように思える。カインがいなければ、黒き矛のセツナがガンディアの武装召喚師になるということもなかったかもしれないのだ。
無数の現象が複雑に絡み合い、現状を描き出している。その事実を認識しながら、息を吐く。自分もまた、現状を構成する一要素に過ぎない。その立場が苦々しいというわけでもないが、快いというわけでもない。複雑な心境だった。
「ふたり、死んだ」
カインが独り言のように告げてきたのは、魔龍窟の武装召喚師のことだろう。マルウェール滞在中、中央軍から届いた勝報に含まれていた情報だった。中央軍は、ゼオルへの行軍中、ロンギ川で聖龍軍と名乗るザルワーンの軍勢と衝突、戦闘になったというのだ。その聖龍軍を率いていたのが天将ジナーヴィ=ワイバーンであり、フェイ=ワイバーンだったらしい。戦いは熾烈を極めたものの、ジナーヴィらの戦死によって幕を閉じたのだという。さすがは武装召喚師だけあって、中央軍は勝利のために多大な犠牲を払わなければならなかった。
「それだけ、ガンディアの勝利に近づいたということかしら」
ウルは、カインの戯言に付き合うようにつぶやきながら、指折り数えた。彼は、多くて五、六人だと断定していた。どこからそのような自信が出てくるのかはわからない。ランカイン=ビューネルは五竜氏族の末席に名を連ねていたそうだが、魔龍窟に関する情報に精通していたのだろうか。そこのところは彼ならぬウルにわかるはずもない。彼女は、荷台に寝転んだまま動こうともしない男を見ていることしかできないのだ。
仮面の武装召喚師が、身動ぎひとつしないのは体力を温存しているかららしい。傷は完治したが、体力は回復しきっていないという彼の発言はにわかには信じられないのだが、疑う理由もなかった。だから、ウルは彼のなすことを見ているだけなのだ。それはひどくつまらないことなのだが、かといって、カインに楽しみを見出すのは不可能に近い。それならば、軍団長たちと戯れているほうがまだましだ。
「そういうことだ。魔龍窟は、大量の武装召喚師を育成するのではなく、少数の精鋭を生み出そうとした。俺のような人間とも化け物ともつかない存在を作り上げて、南進するつもりだったのさ」
彼の嘲笑は、だれに対してのものだったのか。自分を笑ったのか、それとも、ザルワーンを笑ったのだろうか。
ザルワーンが南進の意図を持っていたのは、明白だった。属国ログナーにガンディアを攻撃させていたのが何よりの証左だろう。ログナーの戦力を用いてガンディアを疲弊させ、あわよくばガンディアの領土を削り取ってしまおうという魂胆があったに違いない。そして、美味しいところをザルワーンが持っていくという算段だったのだろうが。
ナーレス=ラグナホルンという猛毒が、ザルワーンの南進を阻止し続けていた。おそらく、ログナーによるバルサー要塞の制圧は、ナーレスとしても予定外だったのだ。あの戦いに《白き盾》のクオン=カミヤが関わっていなければ、落ちることはなかったのだ。そして、バルサー要塞が落ちていなければ、黒き矛の鮮烈で衝撃的な初陣はなかった。
白き盾と黒き矛。
相反するふたつの力を有したいま、ガンディア軍に敵はいないのかもしれない。
「失礼、ウルさんはおられますか?」
「ん?」
突如馬車の外から聞こえてきた声にカインが反応するのは妙に面白かったが、ウルは、彼を一瞥して立ち上がった。数時間、座りっぱなしだったのだ。異様な疲労感が沸き上がるように足腰を襲った。が、構わず外へ向かう。寝たままの男が、仮面の奥から視線だけを送ってくるが、黙殺する。カインに付き合ってあげる道理はない。
「どちら様? わたしがなにか?」
問い返しながら、ウルは、どちらが来たのだろうと思考を巡らせた。マルウェール滞在中の数日間で、彼女はふたりの軍団長と親密な関係を築いていた。
「ああ、これは失礼しました! ぼ、ぼくです! ロック=フォックスです!」
若干上ずったような若い男の声が聞こえてくる。ロック=フォックスといえばマルウェールの戦いで敵将撃破に貢献した軍団長だ。彼は、ウルが甘えると、簡単に落ちた。もうひとり、レノ=ギルバースは難攻不落の要塞を思わせるくらいだったのだが。もっとも、彼女としてはどちらでもよかった。彼らとの関係など、暇潰しに過ぎない。
「あら、ロック軍団長でしたか」
わざとらしく嬌声を上げると、背後から呪詛のような声が聞こえてきた。
「魔女め」
ウルは彼を振り返ると、小さく舌を出した。