第二千六百九十六話 空中都市(七)
「やあ、待っていたよ」
およそ神に似つかわしくない気さくさでマリク神が挨拶してきたのは、セツナたちが昇降機を出て、ルウファたちに案内されるまま、道なりに進んだ先でのことだった。
昇降機を出ると、そこは広大な空間になっていて、まずそのことに驚かされた。あの昇降機の狭い空間から出た途端、待ち受けていたのが開放感のある空間だったのだ。磨き抜かれたかのように美しい床は鏡面のようでもあり、黒く輝いている用にも見える。壁も天井も黒いのは同様だが、鏡面のようではない。頭上からは光が降り注いでいるが、それは魔晶灯の光だ。その青く冷ややかな光には、ひとを冷静にさせる力があるように想えてならない。
その広い空間にも護峰侍団の隊士が何人もいて、それらはルウファやグロリアに敬礼したのち、ファリアの姿に気づき、最敬礼でもって迎え入れた。戦女神の無事の帰還は、やはり、リョハンのひとびとにとってこの上なく喜ばしいことであり、感動的な出来事なのだ。
そして、ルウファとグロリアに案内されるまま、昇降機の広間を出て、広い通路を進み、いくつかの空間を経て、大きな扉の前へ辿り着いたのだが、そこで待ち受けていたのは六大天侍の残り四名だった。つまり、シヴィル=ソードウィン、カート=タリスマ、ニュウ=ディー、アスラ=ビューネルの四人であり、彼らは、ファリアの姿を目の当たりにすると、途端に相好を崩した。それまで緊迫感に満ちていた大扉前の広間が、その瞬間、柔らかな空気に包まれる。
「ファリア様……よくぞ無事で戻られました」
「シヴィル殿、カート殿、ニュウ殿、アスラ殿……皆こそ、無事でなによりですよ」
ファリアが戦女神らしく振る舞えば、四人も最敬礼でもって彼女に応える。六大天侍は、戦女神直属の守護天使なのだ。彼らがファリアに対し、特別敬意を払うのは当然のことといえた。
しかしながら、アスラはファリア以上にミリュウのことが心配だったのだろう。彼女は、ファリアへの挨拶が終わると、ミリュウに駆け寄った。
「お姉様!」
「アスラ、元気だった?」
ミリュウも、アスラのことを心配してはいたのだ。ふたりは、五竜氏族というくくりでいえば、親族といっても過言ではない上、子供の頃からの仲なのだ。姉妹のような間柄だったとも聞く。
「まったくもって、元気ではありませんでしたわ」
「まあ、どうして?」
「お姉様がいないのに、どうして元気でいられましょう」
「そうだったわね、ごめんね、全然逢えなくて」
「いえ、いいのです。お姉様こそ、お元気でしたか?」
「あたしは元気いっぱいよ。セツナがいるもの」
「それはよかった……」
(いいのか、それで)
なんというか、どこか一方的ともいえる関係性に見えなくもないふたりの会話お聞きながら、セツナはなんともいえない顔になった。
「ファリア様、お帰りなさい」
「ただいま戻りました。ですが、ニュウさん。いつも通りでいいんですよ?」
「じゃあ、遠慮なく、ファリアちゃん、お帰りなさい」
ニュウは、言葉通りの遠慮のなさでファリアを抱きしめると、ファリアは心底嬉しそうな顔をした。ニュウはファリアにとっては、姉のような存在ということだったが、つまり、ミリュウとアスラのような関係だったのだろうか。あるいは、ファリアとミリュウのような。
女同士、そういう関係になりやすいというわけでもないだろうが。
と、ルウファが軽く咳払いをした。
「積もる話もあるでしょうが、ファリア様や皆さんには、まず我らが守護神様と逢って頂きたく」
「ああ、そうでしたね」
アスラがミリュウの両手を強く握ったまま、慌てていった。
「マリク様ならば、この先におられます」
と、大扉を示したのは、シヴィルだ。
ただひとり、カート=タリスマは終始無言だったが、柔らかな笑みを浮かべたままでもある。彼も、ファリアの帰還を心底喜んでいるのだろう。
「最初は驚かれるでしょうが……」
「驚く? どうして?」
「まあまあ、とにかく、中へ入りましょう。マリク様もお待ちでしょうし」
「そうだな」
シヴィルの言い様が気がかりだったが、セツナはルウファに急かされるまま大扉の前に進んだ。そして、大扉が滑るようにして左右に開くのを目の当たりにして、少しばかり驚く。昇降機の扉と同じではあるのだが、なんの前触れもなく開けば、そうもなるだろう。そして、大扉の向こう側に広がる空間の広さにも、驚きを禁じ得ない。ここに至るまでの通路も部屋もすべて広かったが、それにも増して、広大といっていい空間が待っていたのだ。
それになにより、それまでの部屋や通路とは異なる空間が広がっていて、それがセツナを多少尻込みさせた。まず床だが、そこは変わりない。磨き抜かれた黒曜石のように美しい黒く輝く床であり、その鏡面のような床には室内にあるものが映り込んでいる。無機的な壁に天井は、それまでの部屋と一線を画するものだが、それ以上に注目するべきは室内に置かれた無数の台座だろう。それら台座の上には青緑色の結晶体が設置されている。結晶体はわずかに光を発していて、結晶体同士が光の糸で結ばれていた。そして光の糸の中心にそれがある。
天井に届きそうなほど巨大な青緑色の結晶体は、ほかの結晶体以上に強い輝きを放っており、どうやら結晶体を輝かせているのも、巨大結晶体のようだった。
セツナは、思わず息を呑んだのは、そのあまりの巨大さと神々しさからだ。巨大結晶体は、幻想的かつ神秘的な存在であり、そこから発散される光もまた、同様に神秘性があった。
「なにこれ……綺麗」
「確かに美しい部屋でございますね」
「……これらは魔晶石に似たもののようですが」
「魔晶石?」
ウルクが近くにあった結晶体をじっと見つめる様は、それだけで神秘的な光景ではあったが。
「確かにこれらは黒色魔晶石と、原理としては似ているかもしれないね」
不意に聞こえてきた声は、マリク神のそれであり、セツナは慌てて室内を見回した。しかし、マリク神の姿は見当たらない。声のした方向を見定めようにも、彼の声は、室内に反響し、場所を特定することも難しかったのだ。
「黒色魔晶石は、特定の生命波動を何倍にも増幅し、力を放つ。魔晶人形の動力源、心核にするに足るくらいに。この室内……いや、この空中都市各所にある神通石は、神威を増幅し、力を放つんだ」
「神通石……」
「この結晶のことですね?」
「うん」
ファリアの問いに対し、マリク神はどこか嬉しそうに肯定した。そして、彼はいうのだ。
「やあ、待っていたよ。よく来てくれたね」
巨大結晶体――巨大神通石が発していた光が収まると、その青緑色の結晶の中になにかがあることに気づく。それがやがてひとの形を成していることを理解できれば、そこにマリク神がいるのだということもわかる。青緑色の結晶の中に、彼はいたのだ。最初から、ずっとそこに。
「マリク様!? どうしてそんなところに!?」
ファリアが悲鳴を上げると、巨大神通石のマリク神は、困ったような顔をした。相も変わらぬ美しい容貌は、神通石の中でより神秘性を帯びているようだ。
「こうするのが一番手っ取り早い上、安定性もあるんだよね。離れると、どうにも安定しなくてさ。特に戦闘中だったからね。なおさら安定させないといけなかった。いまは、そうでもないけれど……」
それだけで、彼がこの空中都を浮かせているらしいということがわかる。ある程度は、セツナの想像通りのようだった。つまり、飛翔船のように神の力で浮いていた、ということだ。
「まあしかし、いまはまだ出られないな。安易に抜け出して、空中都市ごと墜落なんてしたら大惨事もいいところだ。せっかく守り抜いたリョハンのひとたちを失うことになる。そんなのは嫌だろう?」
「それは……そうですが」
ファリアは、それでも納得できない、とでもいいたげにマリク神を見ていた。
彼女のことだ。マリク神から詳しく説明を受けても、納得は出来まい。
納得するしかないのだとしても、きっと。