第二千六百八十九話 竜になるということ
目的地は、決まった。
目指すは、三界の竜王の一翼にして、銀衣の霊帝ことラングウィン=シルフェ・ドラースが待つ“竜の庭”だ。ラムレシアにより、ラングウィンがセツナを待っているという話を聞けば、向かわずにはいられないのは当然といえば当然だった。イルス・ヴァレにおける神々とも呼べる存在が三界の竜王であり、その一柱が指名し、待っているというのだから、なにかしら、重要な問題なりなんなりを抱えていると見るべきだろう。
しかし、まずはその前にリョハンに立ち寄ることが、当面の目標となった。リョハンに立ち寄り、そこでレオナ姫らを降ろしたり、リョハンのひとびとと情報交換を行うためだった。ミリアに託したリョハンの現状を知っておく必要もある。それは、ファリアにとっても重要なことであり、セツナがリョハンへの迂回路を提案してくれたことには感謝していた。
無論、セツナは、レオナ姫を戦いに巻き込まないことを第一に考えていて、ファリアがリョハンのことを心配しているなど、深くは考えていないかもしれない。だが、彼のことだ。心のどこかにでもファリアやリョハンのことを考えてくれているだろうことは、間違いない。
セツナなのだ。
想っていることのすべてをわざわざ口には出さないし、口に出さなくとも伝わってくるものだ。
それはうぬぼれなのかもしれないし、思い違いや勘違いだったりするのかもしれないが、ファリアは、彼がそういう人間であると知っていたし、信じてもいた。
夜。
星の海を泳ぐように、方舟ウルクナクト号はファリアたちを乗せ、空を飛んでいる。ネア・ガンディアによれば飛翔船。光の翼を広げ、空を飛翔する船という意味だろう。ファリアたちは方舟と呼んだが、それは、ドラゴンたちがそう言い表していたからであり、いうなればドラゴンたちの受け売りだった。それをそのままいまも使っている。
ドラゴンたち。
蒼衣の狂王ラムレス=サイファ・ドラースについて、考えなければならない。
ラムレスは、ファリアの同盟者という位置づけに在った。同盟という約定により、彼とその眷属はリョハンを護り、ともに戦ってくれていた。ラムレス率いる数多の飛竜たちが、その力を貸してくれたのは、それが理由なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。約定がなければ、彼らがリョハンを護ってくれる理由などはないのだ。
もっとも、その約定とは、ラムレスが愛娘可愛さに結んでくれたものであり、ユフィーリア=サーラインがいなければ、彼女がファリアに友情を感じてくれていなければ、約定を結ぶこともあり得なかっただろう。
狂王と呼ばれた竜王が、実際には血の繋がりも種族の繋がりもない我が子のためだけに存在理由さえねじ曲げるほどの愛情深い存在であるという事実には、考え込まざるを得ない。
ラムレスは、ユフィーリアを溺愛していた。彼と彼女の間には、まさに実の親子といっても構わないような情愛があり、その間に入り込めるものなど、眷属にもなかったようだ。それは、部外者たるファリアの目から見ても明らかだったし、ラムレスがユフィーリアに対してのみは極端に甘くなるのは、だれの目にも明らかだった。
ユフィーリアのためならばみずからの命を捧げることも厭わないほどの愛情が、あったのだ。
ラムレスは、ユフィーリアを助けるために命を燃やした。
ユフィーリアは、蒼衣の狂王の命と力を受け継ぐことで、竜王への転生を果たすことで、神化を免れることができたという。
(ユフィ……)
ファリアは、月下、甲板上に佇む彼女を見つけ、その心情を想わずにはいられなかった。
そのどこか寂しげな背中は、もはや人間のそれではない。一対の翼を生やした背中は一部、竜の鱗に覆われ、臀部からは長い尾が伸びていた。人間時代のユフィーリアの肉体とラムレスの蒼い龍鱗が混じったような、そんな体。人外の異形。だが、極めて人間に近くもあり、竜属と人間、双方の特徴を併せ持つ存在といってもよかった。強靱な龍の鱗は、体の至る所に生えていて、まるで装甲のようだ。腕や太ももは人間のそれなのに、手や足は龍鱗に覆われ、指先からは鋭い爪が生えていることがよくわかる。頭髪は白く、月光を浴びてきらきらと輝いていた。夜風がその長い髪を夜空に浮かべるようだ。
ため息が出るほどに美しく、そして、もの悲しい。
ラムレシア=ユーファ・ドラース。蒼白衣の狂女王という意味の名前らしい。ラムレスの力を受け継いだ以上、そう名乗るのが自然だろう、というのが彼女の見解だが、彼女は、ファリアが以前のように呼ぶことを拒絶していなかった。むしろ、そう呼ばれることを喜んでくれているような、そんな雰囲気がある。それが、少しばかり救いだった。
「ファリアか」
彼女は、こちらを振り向いた。ところどころ龍鱗の生えた彼女の容貌は、やはり、美しいものだった。人間時代とそう大差ない。竜属らしく角などが生えているが、そのことが彼女の美しさを阻害することはなかった。
「どうした?」
「あなたのことが気になって、ね」
「なにを気にすることがある。わたしはわたしだ。依然、変わりなく、な」
ラムレシアは、ユフィーリアとして振る舞うようにいった。その言葉遣い、態度は、彼女らしいといえば彼女らしい。ファリアを心配させまいとするあまり、どこか突き放すような言い方になるのがいかにもユフィーリアという、竜属の人間なのだ。
「それなら、いいのだけれど……」
ファリアも、彼女の言に抗わない。それでも歩み寄り、並び立つ。並べば、ユフィーリアのほうが上背があることに気づく。以前は、それほど大きな差はなかったはずだが、いまでは、ユフィーリアのほうが頭ひとつ分くらい、背が高かった。竜王への転生は、彼女の体格を変えたらしい。そういえば、胸の辺りも大きくなっているような気がするし、腰はより細くなっているような、そんな感じがある。
「なんの心配もいらないさ。わたしはわたしだ」
また、彼女はいった。
(わたしは、わたし……か)
まるで自分に言い聞かせているみたいだ、と、想わずにはいられなかった。
そうしなければ自分を見失ってしまうとでもいうのだろうか。まさかそんなことはあるまいが、そのような痛ましさが、再会以来、彼女にはあった。
「ユフィ……」
「だいじょうぶ」
彼女は、静かにいった。甲板の外、ウルクナクト号とともに夜空を舞うように飛翔する数多の飛竜たちを見遣りながら、穏やかに。ラムレスの眷属であり、ラムレシアの眷属でもある飛竜たちは、ザルワーン島の戦い以来、休むことなく飛び続けている。そのことが多少なりとも不安を駆り立てたが、もしなんらかの問題があれば、竜王がなにかいってくれるだろうと信じるしかない
「竜になれたんだ」
その一言は、本心ではあったのだろうが。
「念願だった。悲願だった。ずっと、なりたかった。なりたかったんだ」
「ええ……そうよね。そうだったのよね」
ファリアは、彼女の独白を聞きながら、相槌を打つしかなかった。
それは、確かにユフィーリアの夢だった。彼女自身の口から何度も聞いた、夢。彼女はそれが実現不可能であると知りながら、叶えてみせると豪語していた。もちろん、人間は生涯人間でしかない。そんな圧倒的事実を前にしながらも、彼女は夢を追い続けた。
召喚武装を用いれば、擬似的に翼を生やし、竜の真似事をすることも可能かもしれない、と知れば、ファリアたちに武装召喚術の教授を願った。どれだけ時間がかかってでも武装召喚術を習得し、竜の翼を手に入れてみせると息巻いていたのだ。
ファリアも、そんな彼女のために労苦を惜しまなかった。
ユフィーリアの肉体は、戦士として完成されている。頑強な肉体に膨大な体力、しなやかさに俊敏性と、人間が持ちうる最高峰の肉体を手に入れていた。武装召喚師には強靱な肉体が不可欠だが、彼女はその点ではなんの問題もなかったのだ。しかも、彼女は、古代言語の習得に時間を要さなかった。それには理由がある。彼女が竜たちとの会話に用いる竜語と、古代言語が極めて近いものだったからだ。
大陸共通語が生まれる以前に用いられていたという古代言語は、どうやら竜語を元にして作られたものであり、故にユフィーリアはあっという間に古代言語を習得することができたのだ。
あとは、武装召喚術の基礎から叩き込むだけで良かった。
ただ、そのためにはそれなりの時間が必要であり、世界中を飛び回る彼女からそのような時間を捻出するのは極めて困難だったのだ。
そんな彼女の夢追う日々は、唐突に終わりを告げた。
彼女が竜王への転生を果たし、竜属そのものに生まれ変わったからだ。
夢は、叶えられた。
だが――。
ファリアは、なにもいわず、彼女を抱きしめた。彼女も、抗わなかった。ただ、ファリアの腕の中で涙した。
失ったものはあまりに大きく、もう二度と取り戻せないという事実は、彼女をどれほど苦しめているのか、想像するに余りあった。
ラムレスとともに空を飛ぶという夢は、もはや失われてしまったのだから。