第二百六十八話 セツナとミリュウ
ミリュウ=リバイエンは、魔晶灯の光の中で戸惑っている様子だった。
東の森で戦ったときとは、彼女から受ける印象は明らかに異なっている。あのときは、戦闘狂の片鱗さえ感じたものだが、いまは戦場の匂いさえ纏っていない。戦いから一日が経過しているのだ。当然といえば当然なのかもしれない。鎧は脱がされ、衣服も改められている。武器でも隠し持っていたら厄介なことになるからだろう。手も足も自由に扱えないように縛られていて、特に手の拘束は厳重だった。召喚武装を扱うとすれば手なのだ。両手さえ封じておけば、基本的には無力だ。
ただ、ルウファのシルフィードフェザーのような防具形式の召喚武装に対しては、それでは不十分だろう。そういった召喚武装を使わせないようにするには、呪文を唱えさせなければいい。喉を潰すか、猿轡でも噛ませておくか。捕虜に対して暴力を働いてはいけないというのなら、後者以外にはありえない。のだが、彼女には猿轡さえされていなかった。
理由は、ミリュウの憑き物が落ちたような顔を見ていればなんとなくわかるといものだ。彼女に戦意はなく、脱出を計画しているようにも見えなかった。もちろん、表情だけを頼りに判断していては痛い目を見るのだが、エインたちが、彼女の顔つきだけで判断するとは思えない。尋問なりなんなりの結果、なのだ。
セツナは、寝台の脇に置いてあった椅子を手元に引き寄せると、静かに腰を下ろした。ミリュウは、さっきから一言も発さず、まじまじとこちらの顔を眺めている。呆然とした表情は、予期せぬ事態に戸惑っているといったものだろうか。
彼女の髪は、紅かった。どうやら、東の森で対面したとき、炎のせいで赤く見えたわけではなさそうだった。血のような紅さは、見方を変えれば炎のような赤さにも変わる。あの魔人を思い出させるが、顔の造作はまるで違う。アズマリアが完全無欠の美女だとすれば、ミリュウはなにか不均衡を抱えた美女という感じがあった。どこか猫の目を思わせる大きな眼に、蒼玉のような虹彩が浮かんでいる。濡れたような唇が印象的だった。
(ミリュウ=リバイエン……か)
セツナは、荷台に上がり込んで以来、一言も口を開いていない。なにから話せばいいのかわからないのだ。彼は昨夜の戦いで、危うく彼女に殺されるところだった。その記憶は苦さを伴って脳裏に蘇る。殺意に満ちたまなざし、烈しい言葉、重い斬撃、一撃。セツナがいま、生きていられるのは、彼女が突如として意識を失ったからに他ならない。もし、ミリュウの意識が後少しでも保っていれば、セツナは死んでいただろう。ぞくりとする。
セツナが死んでいたら、戦況はどうなっていたのだろう。その場合でも、二通りの未来が考えられた。ミリュウが意識を失わず、二本の黒き矛を手にして西進軍を殲滅する未来。ミリュウが意識を失い、結果的に西進軍が勝利する未来。後者ならばまだ救いはあるのかもしれないが、そこに自分がいないというのは寂しいものかもしれない。
胸中で首を振る。可能性の話をしても仕方がない。
いまは、目の前の女に話を聞くべきだった。
「あなた、セツナよね? セツナ=カミヤ」
不意にミリュウが尋ねてくる。そういえば、まだ名乗っていなかった。戦闘中は甲冑を身につけていたし、兜を目深に被っていた。彼女に素顔を見せるのはこれが初めてだったはずだ。
「ああ」
セツナが肯定すると、ミリュウは黙り込んだ。セツナの表情からなにかを読み取ろうとでもしているかのようなまなざしだったが、諦めたように口を開く。
「……運良く生き延びられた黒き矛くんが、あたしになにか用事? 惨めなあたしの姿を見て溜飲を下げにでも来たのかしら?」
ミリュウは自嘲気味に笑ったが、セツナは取り合わなかった。
「そんな趣味はねえよ」
「怒らなくてもいいんじゃなくて? あなたは絶対的に優位な立ち位置にいるのよ。いま、あなたがあたしに対してなにをしても、だれも見て見ぬふりをするんじゃないの?」
まるで自棄になったかのような口ぶりではあったが、彼女の目には余裕があった。こちらの反応を見て楽しんでいるのかもしれない。
「そうかもな」
セツナは、ミリュウの言い分を否定はしなかった。ガンディア軍の軍規は捕虜や投降兵への暴行や虐待を禁じているものの、セツナがそういった行動に至ったとしても、だれにも止められないかもしれない。だれもが後難を恐れ、見て見ぬふりをするかもしれない。王立親衛隊は、王直属という名誉と栄光だけを与えられており、それこそ特別な権力を持っているわけではないのだが、周囲のものはそうは見ない。王直属というだけで特別であり、権力者なのだ。荷台に入る直前、エイン隊の兵士たちが姿勢を正したように、王立親衛隊の権威というのは厳然として存在する。
とはいえ、セツナにそんなことをして喜ぶような下衆な趣味はなかったし、発想もなかった。
「ふうん……」
ミリュウの値踏みするようなまなざしに、セツナは口を尖らせた。
「なんだよ」
「あなたって、お子様ね」
「悪いかよ」
言い返したのは、図星を指されたからに他ならない。痛感しているところでもあった。
ミリュウは、別段面白がるでもなく、いってくる。
「悪くはないわよ。ガンディアがお子様に頼っているのが面白かっただけよ。エイン=ラジャールだっけ? あの軍団長さんもお子様だし」
「エインは俺より年下だったかな」
セツナは、少年軍団長の顔を思い浮かべながらつぶやいた。確かに、エインとセツナは、彼女からすればお子様といえるかもしれない。しかし、エインは、セツナよりも余程大人びていると思うのだが、捕虜である彼女にわかるはずもない。
「そんなことはどうだっていいのよ」
「あんたがいってきたんだろ」
「そうよ。でも、いいの。どうでもね」
「そりゃそうかもしれないけどさ」
不承不承に同意したのは、彼女のいうこともわからないではなかったからだ。確かに、エインやセツナの年齢なんてどうだっていいことだ。特に、彼女からしてみれば興味もないだろう。そのくせ、お子様だのといってきたのは、ただの挑発なのかもしれない。そして、セツナの反応が特に面白くもなかったのかもしれない。
「あたしが知りたいのは、なんであなたがここに来たのかってことよ。あたしに用事なんてあるはずないわよね?」
「用事は、ない」
話を戻してきた彼女に対し、セツナは素直に告げた。偶然、この馬車が目に入ったから立ち寄っただけなのだ。用事と呼べるようなものがあるはずもない。そもそも、関わることさえないはずだった。クルードに頼まれこそしたが、セツナにはどうすることもできない問題でもある。
彼女の処遇について、彼が関与できることなどないのだ。
「でしょ?」
ミリュウが少し残念そうに表情を曇らせた理由は、セツナにはわからない。彼女がなにを期待していたのかなど知る由もないのだ。
「でも、話をしてみたかった……かな」
「え?」
ミリュウはびっくりしたように目を見開いたが、すぐに目を細めた。怪訝そうな表情は、セツナを疑っているというよりも、納得出来ないといったものだ。そして、ため息を吐く。
「あたしと話しても、何の役にも立たないわよ。あたしの知ってることは、ほとんど話したもの。あんたたちガンディア軍の勝利に貢献できるような情報なんて持っていないのよ。残念だけど」
ミリュウはまくし立てるようにいってきたが、セツナは構わず問いかけた。
「あんたは、あのときどうして気を失ったんだ?」
「は?」
予期せぬ問いかけだったのか、彼女は、呆気に取られたようだった。
「あんたは俺を殺せたはずだ。その一歩手前まで来ていたんだ。あのとき、意識を失ったりさえしなければ、俺はあんたに殺されていた」
「……そうね。あたしが黒き矛の力を制御できていれば、間違いなくあなたを殺していたわ。でも、それができなかった」
「どうして?」
「簡単な話よ。黒き矛に内包される力がとてつもなく膨大だったからよ。もちろん、あたしはそのすべてを引き出すつもりなんてなかったわ。そこまでしなくとも、あなたには勝てたもの。でも、抑えられなかった」
彼女は、震えを抑えるように両手で自分の体を抱いた。手のひらこそきつく縛られていたが、腕は自由に動かせる。足は、彼女に歩き回れないように縛られているのだが。
「黒き矛を手にした瞬間から、あたしはあたしではなくなっていたのかもしれない。複製品とはいっても、本物とまったく同じものといっても過言ではないのよ。それが幻竜卿の能力だから。なにもかもまったく同じように再現してしまう」
「だから、制御できない……?」
セツナには、理解のできないことだった。が、同時に夢の黒竜の発言を裏付けるものでもある。彼女は、確かにセツナ以上に黒き矛の力を引き出すことはできていたのだ。それは黒竜も認めるところだ。
武装召喚師としての力量の差が、如実に現れていた。セツナが感じた拭いきれない敗北感は、そこに起因している。だからこそ、セツナには理解できないのだ。それほどの力量がありながら、どうして、セツナにできることができないのか。いや、それは正しくはない。彼女ほどの実力者が制御できないような代物を、どうして、セツナは扱うことができるのか。
「ええ。あたしは黒き矛の力に飲まれ、意識を失ったのよ。あなたこそ、どうして制御できているのかしら?」
「え……?」
問い返されて、セツナは頭の中が真っ白になった。答えようのない質問だった。カオスブリンガーを制御した、という意識はない。無意識に、黒き矛を振り回している。力の使い方も完全に把握しているわけではなかった。それを制御しているとはいえないだろう。
「あれほどの召喚武装を制御するのは並大抵のことではないのよ。多くの場合、召喚武装の大きすぎる力に押し潰されてしまう。あたしが意識を失う程度で済んだのは、それこそ運が良かったの」
ミリュウは、束縛された両手を見つめながら、言葉を続ける。
「意識を失ったまま、死んでいてもおかしくはなかった。自分を取り戻せたのだって、奇跡といってもいいのかもしれない。それもこれも、あなたのおかげなのよ。セツナ」
「俺の……?」
またしても、セツナにはわからないことだった。彼女になにかをしてあげたという記憶もなければ、クルードの遺言を叶えようとも考えてはいない。考えたとしても、実行には移せないという冷静な判断が働いている。捕虜となった彼女にしてあげられることなどなかった。
しかし、ミリュウは、こちらの考えなどどうでもいいのか、密やかに続けてくる。
「あなたの意識があたしを呼び起こしてくれたのよ。あなたは覚えていないかもしれないけど……」
「俺の意識……」
セツナは思考を巡らせたが、思い当たるふしはなかった。そして、ミリュウが勝手に思い込みをしている可能性が高いのではないかという考えに至るのだが、彼女のような人物にあってはそんなことはあり得なさそうでもあり、セツナは途方に暮れた。
当のミリュウは、なぜか気恥ずかしそうに頬を赤らめている。まるで少女のような態度に、彼は、妙な胸のざわめきを覚えた。ファリアと同年代か少し年上くらいに見えるのだが、時折見せるちょっとした仕草には、セツナと同い年くらいの少女のような可憐さがある。
「でも、どうしてかしらね。あなたがあたしを救う道理なんてないのに」
ミリュウの疑問を聞いて、セツナには思い当たることがあった。はっとなる。
「クルード……」
「ん? あいつがどうかしたの?」
「クルードに頼まれたんだ。あんたのことを」
瀕死の男は、みずからの命を省みず、ただ、ミリュウの無事だけを願っていた。敵であるセツナにすがるような真似までしたのだ。誇りなど捨て去った男の姿は、むしろ気高さを感じさせた。
まるで騎士のような男だった。
彼は死んでしまったが、その想いはセツナの胸の内で蠢いている。純粋にひとを想う気持ちは、敵味方関係なく、心を突き動かすものだ。
ミリュウのいう、セツナの意識が彼女を呼び起こしたという現象が事実ならば、原因として考えられるのはそれしかなかった。クルードがミリュウのことを頼んだりしてこなければ、セツナは彼女を敵以上の存在として認識することはなかったのだ。
などと考えてはみたものの、やはりセツナにはミリュウの意識を呼び起こした記憶はなく、半信半疑にならざるを得ないのだが。
「クルードが? どうして……?」
ミリュウが信じられないといった表情で問いかけてきたが、セツナには答えようもなかった。
「さあな」
セツナにはあの男の心情を察することしかできない。それだって、セツナの勝手な思い込みかもしれない。思い違いかもしれないのだ。迂闊なことをいいいたくはない。だから、彼はなにも言わなかった。
静寂があった。
魔晶灯の冷ややかな光だけが、ふたりの沈黙を照らしていた。