第二千六百八十四話 極北からの声
「無事に戻ってなによりだ」
機関室に足を踏み入れるなり降ってきたマユラ神の第一声が、それだった。ウルクナクト号の動力といっても過言ではない神は、定位置たる水晶体の上に鎮座し、セツナたちを見下ろしている。そのまなざしには、安堵の光があった。その安堵は、半神たるマユリ神の眠っている間にセツナたちが傷つくことがなくてよかった、というようなものかもしれない。マユラ神にしてみれば、半神に役割を押しつけられているようなものなのだが、それでも、相応の責任感を持っているのだろう。
そんなマユラ神に対し、セツナの中の嫌悪感が薄れつつあるのは、彼がミリュウたちを懸命になって押し止めようとしていたという話を彼女たちの口から聞いたからだ。マユラ神は、ミリュウたちが束になってもセツナを救出することなど不可能であり、無駄死にするだけだと警告したという。そうしているときにラムレシアが大量の援軍を連れてきたものだから、マユラ神も折れざるを得なかった、ということのようだ。
そして、飛竜たちやウルクナクト号を陽動とするセツナ救出作戦が決行されたのだが、その作戦の中核を担ったのもまた、マユラ神だ。ウルクナクト号を全速力で飛ばして大船団の注意を集めたことが、ラムレシアによるシウスクラウド突入を成功に導いたのだ。無論、数多の飛竜の犠牲や、真躯ワールドガーディアンと化したフェイルリングの活躍も忘れてはならないが。
「謝罪も済んだようだしな?」
マユラ神は、一同を見回した。
ミリュウはセツナにべったりとくっついていて、ファリアも隣に立っている。エリナがいて、シーラ、レム、ウルクがいる。エスクも、ダルクスも、非戦闘員の三名も一緒だ。そこに銀獅子レイオーンとレオナ姫、エリルアルムが加わり、広いはずの機関室が狭く感じられた。ちなみに、船内にはエリルアルムの部下たちも乗船しており、大所帯となっている。
「……あなたには、まだ謝ってもいませんが」
「わたしのことはいい。マユリには謝っておくべきだがな」
「マユラ様が皆を引き留めてくださったと聞いております」
「そうだが、当然のことをしたまでだ。このものらを失った挙げ句、その責任を問われては敵わぬ」
マユラ神が苦笑すると、ミリュウが口を挟んできた。
「そういいながら、あたしたちのことを気遣ってくれたんだもん。なんだかんだいって、マユラんもマユリん同様、優しいよね」
「そうでございますね」
にこにこと同意するレムやシーラたちだったが、マユラ神は、怪訝な顔をした。人間の感性は理解できないとでもいいたげだ。
「マユラん?」
「マユリんだから、マユラん。可愛いでしょ」
「そう……か?」
「いいと想います!」
「……そうか」
エリナに元気いっぱい肯定されると、マユラ神もどうしたらいいものかと困り果てたようだった。ミリュウやエリナの勢いには、神も翻弄されるのだろう。
そんなやり取りを見ていると、親近感が湧くのだから不思議なものだ。
「それで、これからどうするつもりだ? 一先ずネア・ガンディアの勢力圏からは逃れることに成功したが……目的もなくさまようわけにも行くまい」
マユラ神が方針を問いかけてくるのは、わかりきっていたことだ。
元々は、帝国の問題が解決すれば、一度ザルワーン島の龍府に戻り、そこで仮政府首脳陣と今後の方針について話し合う予定だった。だが、その予定がネア・ガンディアの侵攻と制圧によって崩れ去ったいま、新たな方針が必要となっていたのだ。
その方針について、セツナにはひとつの考えがあった。
「北へ、向かってください」
「北? 北になにがある?」
「……ラムレシアがいうには――」
セツナは、つい先程、甲板上でラムレシア本人から聞いたことを思い浮かべた。
蒼白衣の狂女王ことラムレシア=ユーファ・ドラースは、ウルクナクト号に付き従うように飛翔する数多の飛竜たちを見遣りながら、今後の方針に関わることをいったのだ。
『この世には、原初より理を司る存在がいた。神ならぬそれらは、いつ頃からか三界の竜王と呼ばれ、畏れられていた。この世界が聖皇によって改変される五百年前までは……』
『蒼衣の狂王ラムレス=サイファ・ドラース、緑衣の女皇ラグナシア=エルム・ドラース、銀衣の霊帝ラングウィン=シルフェ・ドラース……だったっけ』
と、口を挟んだのは、ミリュウだ。五百年以上昔のことについて詳しく知っているのは、ラムレシアを除いて彼女とレイオーンくらいのものだろう。
『そうだ。破壊と混沌を司るラムレス、平衡と維持を司るラグナシア、そして、法と秩序を司るラングウィン。それらは、古代よりイルス・ヴァレにおける神の如き存在だった。三界の竜王が存在する限り、イルス・ヴァレが崩壊することはない。どのような事態が訪れようと、三界の竜王ある限り終息する』
『創世回帰によって、でしょ?』
『そうだ。だがそれは最終手段に過ぎない。イルス・ヴァレが滅亡に瀕したときにのみ検討される最終手段。それが創世回帰。世界を原初の状態に戻し、すべてをやり直す暴挙。三界の竜王が古代の神たる所以だな』
『それで……それがいま俺たちにいったいなんの関係があるんだ?』
セツナが問うと、彼女は、予想だにしない方向に話を転がした。
『ネア・ガンディアの神がユフィーリアを神化させたのは、それによってラムレスを殺すためだった』
『はあ……?』
『話が飛びすぎて意味分かんねえ……』
『黙って聞いてなさいよ』
『ラムレスは、ユフィーリアを我が子同然に愛していた。人間でありながら竜となり、空を飛ぶことを夢見た子供を育てる内、持ち得なかった愛に目覚めたのだ』
同属殺しの狂王にとって、人間もまた、唾棄すべき存在だったということは、有名な話であるらしく、ラムレスが人間ユフィーリアを溺愛していた事実は、とても信じられないことではあるようだ。もっとも、竜と人間の関わりについていえば、ラグナという例外中の例外が身近過ぎて、なんともいえないところではある。ラグナほど人畜無害な竜もめずらしいのだろうが。
『ラムレスにとって、ユフィーリアは自分の命よりも大切な存在だった。ユフィーリアを神化から救うためならば、命を投げ出すことも惜しまなかった。そこを、ネア・ガンディアの神につけ込まれたのだ。それは、なぜか。ネア・ガンディアにとっても、獅子神皇にとっても、創世回帰が厄介だからだ』
『なるほど……創世回帰を防ぐために、ラムレスを殺そうとしたのね。でも、並の方法では殺せないから、ユフィーリアを利用した』
『でも、だとしたら、あなたはいったい……』
『わたしは、竜になったのだよ、ファリア。物心ついたときから夢見ていた竜になれたのだ。ようやくわたしは空を飛べる。皆とともに。父とともに』
彼女は、どこか寂しそうに笑った。哀しんでいるような、喜んでいるような、そのどちらでもないような、そんな曖昧で複雑な感情が、その表情の中に渦巻いている。彼女が語ったように、ユフィーリアは竜になりたかったのだろうし、姿こそ違えど、竜になれたことは喜ばしいことなのだろう。だが、ラムレスがいないという事実は、彼女を哀しませるだけなのだ。
ラムレスがユフィーリアを愛していたように、ユフィーリアもまた、ラムレスを愛していたのだ。父と娘として。
『そう、わたしは竜王への転生を果たした。つまり、彼奴らの思惑は失敗に終わったのだ』
『うん……? つまりなんだ、創世回帰とやらを起こそうってのか?』
『それには三界の竜王が揃わなければならないといっただろう』
シーラの質問に対するラムレシアの反応を見る限りでは、彼女がそんなことを考えているわけではないことは明白だった。創世回帰は、世界をやり直す最終手段だという。それによってネア・ガンディアを消し去ることはできるのだろうし、世界を元に戻すことも可能なのだろうが、その結果、この場にいるだれもかれも消滅することは想像に難くない。
だからこそ、創世回帰を用いない解決法を模索したのが、聖皇ミエンディアだということを思い出して、憮然とする。世界を救おうとしたものの力が、いま、この世を混乱に陥れている。皮肉というべきか、なんというべきか。
『三界の竜王のうち、消息が掴めていないのはラグナシアだけだ。ラングウィンの居場所はわかっている。北の地――“竜の庭”にて、彼女は、おまえを待っている』
『俺を……待っている? どういうことだ?』
『行けば、逢えばわかるだろう。ラングウィンは、三界の竜王の中でもっとも大人しく、そして聡明だ。人間に対しても慈しみ深い彼女に逢うならば、“竜の庭”の場所を教えるが、どうする?』
と問われれば、セツナとしては否やはなかった。
三界の竜王のうち、ラグナシア、ラムレス(ラムレシア)とも関わりを持ったのだ。ならば、残る竜王とも逢い、話を聞くべきだろう。