第二千六百八十三話 王家のさだめ
「これでよかったのですね? 母上」
リノンクレアは、ようやく静まりかえった夜の空を見上げながら、囁くようにいった。
天輪宮の中庭から見上げる夜空。ここしばらく、龍府の上空には巨大な天蓋があり、まともに空を見たことがなかった。常に影に隠されているようなものであり、星空を見ることも叶わなければ、真昼の太陽を拝むことも許されない日々が続いている。彼女の父の名がつけられた超巨大飛翔船が、龍府の空を覆っているからだ。
それに対し、意見を述べたり、抗議をしたところで意味はない。
ネア・ガンディアによるザルワーン島の支配が完了するまで、彼らはそこを動くことはなく、そしてそれはいましばらく続くだろうことは明白だった。
戦闘が起きたのだ。
それもこの短時間に二度に渡る戦闘は、ザルワーン島の上空を巡る規模のものであり、ネア・ガンディアがザルワーン島の空に浮かべた無数の飛翔船が何隻も沈んだ。その戦いがなにものによるものなのかは、リノンクレアですら想像がついたし、エリルアルムに確認を取ったことで確証を得ている。
セツナだ。
セツナがザルワーン島をネア・ガンディアから奪還するべく、ネア・ガンディアの大船団を撃退するべく、戦いを挑んだのだろう。戦力差は圧倒的というよりは絶望的なものであり、たとえセツナが神殺しの力を持っていたとしても敵わないだろうことは明白だった。それでも彼は、ネア・ガンディアが許せなかったに違いない。彼は、ネア・ガンディアを敵と断定し、獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアを偽者であると決めつけていた。そのことが彼を駆り立て、突き動かしたのは想像に難くない。
彼ほどレオンガンドを尊敬し、忠誠を尽くしていたものはそういないのだ。
それこそ、命を賭して、想っていた。
そんな彼にとって、レオンガンドの名を騙るものの存在ほど許せないものはなく、ましてやそれが新生ガンディアを名乗り、仮政府の領土を荒らしているとなれば、彼が怒り狂うのもわからなくはない。敵う敵わないの問題ではなく、感情が彼を戦いに赴かせ、そして敗れさせた。
セツナが敗れ、ネア・ガンディアに捕まったということは、彼の起こした戦いがあっという間に終わったことからわかった。ネア・ガンディアの王たるレオンガンドがセツナを殺すことなどありえないし、なんとしてでも捕縛したはずだ。そういう意味でセツナの命の無事に疑いようはなかったものの、心配したのは事実だ。
セツナがレオンガンドと対面したときのことを考えれば、心配もしよう。
レオンガンドが本人であることは、リノンクレアも認めるところだった。実の妹であり、長年近くで見てきた彼女には、あれがレオンガンド以外のなにものにも見えなかったし、それは彼女だけではなかった。実の母親であるグレイシアも、伴侶であるナージュも、彼をレオンガンドと認識し、受け入れてしまった。姿形だけではない。声、表情、仕草に現れる心の形、魂の波形までもが、レオンガンドそのものだった。だからこそナージュはすぐさまレオンガンドの元へ行き、グレイシアは仮政府指導者として、ネア・ガンディアとの合流を認めざるを得なかったのだ。
仮政府は、ガンディアの再興もしくはガンディアとの合流を目的に成立している。ネア・ガンディアがガンディアの継承者であるのならば、その支配者がガンディア国王レオンガンドそのひとだというのであれば、合流する以外の道はない。
だが、それでも、グレイシアやリノンクレアには腑に落ちないことがあった。彼がレオンガンド本人ならば、マルウェールを薙ぎ払い、自国民に犠牲を強いたのも彼だということにほかならないからだ。レオンガンドは、自国民に犠牲を強いるようなやり方を極端に嫌った。国民は、国の宝である、というような考えをシウスクラウドから受け継いだのがレオンガンドなのだ。
最終戦争、“大破壊”を経て、考え方が変わったというのであれば、そういうこともあるのかもしれないとも想うのだが、しかし、納得できることではない。
レオンガンドだが、レオンガンドではない。
そんな違和感を後押ししたのは、レオナとレイオーンの反応だった。レオナは、レオンガンドを父とは認めなかった。それはおそらく、レオナがあまりレオンガンドのことを覚えていないこともあっただろうが、それだけではあるまい。なにかを感じ取ったのだ。そして、そんな彼女の考えを肯定したのがガンディアの守護者たるレイオーンだ。彼はレオンガンドの手からレオナを奪い取ると、姿を消した。
レオンガンドもナージュも、リノンクレアたちですらそのことには困惑したものの、ガンディアの守護者が断定したことに関しては、一考の余地があると彼女は想っていた。
そんなレイオーンがレオナを連れて姿を見せたのは、つい先頃のことだった。セツナが暴れ回っているとき、エリルアルムの前に姿を見せたのだ。セツナが、エリルアルムを救いに現れると考えたとのことだが、それは、必ずしも間違った考えではなかった。
なぜならば、ウルクナクト号が龍府の直上に現れたからだ。
戦闘は、二度、起きている。一度目はセツナが起こしたものだが、二度目は、どこからともなく現れた飛竜たちによるものであり、その戦闘のどさくさに紛れるようにして、ウルクナクト号が龍府上空に現れたのだ。そして、ウルクナクト号の中からファリアたちの呼びかけがあった。彼女たちは、リノンクレアたちを龍府から逃がすため、龍府に寄ったのだ。
そして、リノンクレアたちは、レオナとエリルアルムたちを託し、自分たちはここに残った。リノンクレアやグレイシアには、仮政府の首脳陣としての責務がある。おいそれと離れるわけにはいかなかった。
「ええ……これで、よかったのよ」
グレイシアが、沈黙の空から地上に視線を移しながら、いった。
「あの子をここに置いておけば、いずれ、レオンの手に渡ることになるわ。いくらレイオーンがあの子を隠そうとしても、虱潰しに探し回られれば、いつかは見つかる。そうなれば、あの子をだれも護れなくなる」
「兄上とともにいることが幸せとは、想えませんか」
「あの子が、レオンを拒絶したもの」
グレイシアが苦渋に満ちた表情を浮かべたのは、レオナの心情を想ってのことだろう。
「あの子は、聡明な子よ。だれよりもまっすぐで、だれよりも状況を理解している。もしかすると、わたしたち大人よりも理解しているかもしれないわ。レオンがレオンではないと拒絶したのも、そのためじゃないかしら」
「わたしがわたしではない、とは、母上には酷い言い方ではありませんか」
不意に聞こえたのは、だれあろうレオンガンドそのひとの声であり、リノンクレアはすかさず振り返った。そこには護衛ひとりつけず、獅子神皇がいた。きらびやかな装束が、夜の影を圧するように輝き、金色の頭髪がまばゆく燃えているようだった。神々しいとはまさにそのことだろう。
「レオン……」
「兄上」
「やあ、リノン。元気そうでなによりだ」
レオンガンドの表情に屈託がない。
「が、話を聞く限り、レオナの居場所を知っているのは、解せないな」
「なにが、解せないのです?」
「何度も聞いたはずだ。レオナは、どこにいる? あの子はわたしの娘だ。わたしとナージュの。ナージュも逢いたがっている。レオナも、ナージュとわたしとともにいるほうが幸せだろう?」
「そうですね」
グレイシアが静かに肯定する。否定できない事実ではある。
「あなたが真にレオンならば、あの子にとってはそれが最大の幸福でしょう」
「わたしは、レオンですよ。あなたと父上の愛によって紡がれた命です」
レオンガンドは多少芝居がかった口調と仕草でいった。
「その命の形が多少変わったとしても、わたしがわたしであることに変わりはない。だから、ナージュもわたしを受け入れた。レオナもいずれ理解するでしょう。すぐにはわからなくとも」
「そう……かもしれませんね」
「ええ。ですから、レオナを――」
「あの子は、もうここにはいませんよ」
「ここにはいない? では、どこへ……?」
「さて、どこでしょう? 目的地は、聞いていませんから」
グレイシアは、北の彼方を見遣り、告げた。
「なるほど……そういうことですか。まったく、困ったことをしてくれる」
レオンガンドは、そういいながらも、不機嫌でも不愉快でもなさそうだった。むしろ、どこか喜んでいるような節があり、そのことがリノンクレアには不可解極まりなかった。
レオンガンドの考えは、まったく読めない。
だが、だからこそ、リノンクレアは自分の役割を再認識した。
彼の正体を突き止めなければ、ならない。
そのためにこそ、ここに残ったのだから。