第二千六百七十四話 矛と盾(二)
(そうだ。これでいい。これでいいんだ)
彼は、全身をのたうち回るような激痛に顔をしかめながら、去りゆくセツナの背中を見ていた。幾重にも光が瞬いたのは、つぎつぎと召喚が行われているからだ。セツナは、複数の召喚武装を同時併用する。それにより、神々とも渡り合う力を発揮できるのだが、それだけの負担と消耗に耐えられるのは並大抵の精神力ではない。
セツナがレオンガンドの成れの果てとの対面を経て、すぐさま自分を取り戻せたのも、その並外れた精神力の賜物なのだろう。
喜ばしいことだったし、嬉しい誤算でもあった。彼がこの約三年あまりでこれほどまでに成長しているというのは、想定外の出来事だった。たった三年でしかない。三年で成長できる範疇を遙かに凌駕しているのがいまのセツナだった。通常、あれほどまでに鍛え上げることなど不可能だ。それを為し得た理由こそわからないが、セツナがそれを為し、成長したという事実には、歓喜以外のなにものもなかった。
だから、彼は、見届けるのだ。
(君は、ここに留まっているわけにはいかない。君だけなんだ)
セツナの進路上、閃光が走り、白理の間の神霊防壁に巨大な穴が空く。セツナお得意の黒き矛による“破壊光線”だろう。セツナは爆風の中を突っ切り、さらに前進し続ける。声が聞こえた。いくつもの声。セツナはその声の中を駆け抜けつつ、なにやら問答を繰り返した。すると、彼の目の前まで何人もの白い人影が飛んできて、床に尻餅をついたり、背中から叩きつけられたりした。
ミズトリス、ウェゼルニル、ファルネリアの三名は、白理の間の外で彼の退出を待っていたのだが、そこへセツナが現れたものだから対応しおうとしたのだ。その結果、どういう風にか投げ飛ばされた、らしい。セツナのことだ。ミズトリスたちを傷つけないでいてくれたのは、クオンへの借りを返したとでもいうのだろう。
「いたたた……」
「あの野郎! なんてこと――」
ミズトリスとウェゼルニルがもはや見えなくなったセツナの姿を探す中、ファルネリアが真っ先にヴィシュタルの様子に気づいた。
「ヴィシュタル様! これはいったい……!?」
ファルネリアが血相を変えて駆け寄ってきたのも無理はない。ヴィシュタルは、右半身を消し飛ばされるという重傷を負っていたのだ。人間ならば即死しているだろうが、仮にヴィシュタルが人間であれば、セツナも相応に手加減してくれたことは想像するまでもない。とはいえ、いくらヴィシュタルが非人間であり、神皇の獅徒とはいえ、躊躇なく半身を消し飛ばすのは、覚悟が決まっているにもほどがあるといえなくもない。もちろん、それくらいのことをしてくれなければ、彼の立場が悪くなるのは間違いないのだが。
「陛下の命に従い、セツナの説得を試みたんだけどね……してやられた」
ヴィシュタルは、痛みに耐えながら、わざと損傷箇所の復元を遅らせていた。神の使いたるもの、この程度の傷、容易く復元できるのだ。たとえ首を切り落とされたとしても、一瞬にして元通りに回復してしまうのが獅徒だ。それでは、セツナに滅ぼされない限り、彼と戦い続けなければならなくなる。
いまは、そんなことをしている場合ではない。
ミズトリスが唇を噛んだ。
「くっ……ファルネリア、ヴィシュタル様を頼む。わたしは――」
「いや、追わなくていい」
「なぜだ?」
「追っても、無駄だ」
「無駄?」
ミズトリスとウェゼルニルが怪訝な顔をする一方、ファルネリアがヴィシュタルの傷口に手を翳した。ファルネリアは、獅徒の中でも最大の癒やしの力を持っている。実際、損傷箇所が見る見るうちに復元しており、すぐにでも動き出せるようになるだろう。
「いや……ここを出た以上、陛下がお気づきになられないはずがない。神将の方々もね。ぼくたちが心配する必要はなにもないということさ」
「しかし……獅徒の名が泣きますな」
「そんなもの、いくらでも泣かせておけばいいさ」
ヴィシュタルが本音を漏らせば、ウェゼルニルとミズトリスが顔を見合わせた。ヴィシュタルの発言の意図が読めないからだろうが、いまは、彼らに本音を伝えることはできなかった。
(君だけが、君と魔王の杖だけがそれを為す)
彼が想うのは、セツナの無事だけだ。
獅徒たちは、いい。ヴィシュタルの命令にこそ従う彼らがセツナの行く手を阻むことはない。だが、獅子神皇の腹心たる神将たちや神々は、そういうわけにはいかないのだ。
特に神々は、黒き矛の使い手たるセツナを排除したがっている。神皇の手前、拘束前提で動くだろうが、そのためならばどのような手も使おうとするだろう。そして、多少傷つけても構わないと考えたとしても、なんら不思議ではない。
セツナが無事にこの空域から脱出できるかどうか、それが問題だ。
どこへ向かえばいいのかなど、まったくわからなかった。
わからなかったが、クオンが立ちはだかった方向こそ脱出への最短経路なのだろうと想うほかなく、それだけを信じて、セツナは全力で駆けた。駆けながら呪文を唱え、完全武装状態に移行する。肉体的、精神的消耗は激しく、とてもではないが全力を出せる状況ではなかったが、そんなことをいっている場合でもないのだ。ここは敵地。それも、敵の最高戦力が集中する旗艦の真っ只中だという。そこから脱出するためには、様々な妨害を突破しなければならないだろうし、それには黒き矛だけで対処できるとは思えなかった。
クオンことヴィシュタルを退けることそのものは、なんら難しくなかった。
(あいつ……)
セツナは、背後を一瞥し、“破壊光線”によって生じた爆煙の向こう側にいるだろうクオンのことを思った。彼は、紛れもなく手加減していた。彼が本気ならば、黒き矛の攻撃を防ぐことも捌くことも難しくはあるまい。完全武装状態ならばいざしらず、そうでもないのに一方的に退けることができたのは、彼の温情以外のなにものでもなかった。
(クオン、おまえは……)
半身を消し飛ばすほどの大打撃を与えたが、彼は獅徒だ。人間ではない以上、容易く回復し、元に戻るだろう。本来ならば時間稼ぎにもならないが、現状はというと、完全に時間稼ぎとして機能している。それもこれも、クオンがセツナを逃がすための芝居を打っているからだ。“闇撫”で纏めて放り投げたミズトリスたちが追いかけてこないのも、彼が制止してくれたからだろう。クオンは、なんとしてでもセツナをここから逃そうとしている。
彼は、獅徒として、獅子神皇の使徒として生まれ変わりながら、その本質はなんら変わっていなかった。
(おまえはそれでいいのかよ)
そう問いたかった。
問うたところで、彼はあざやかに笑ってうなずくのだろうが、それでも、という想いがある。
(おまえはそれで――)
そのとき、セツナが進行方向に視線を戻したのは、偶然ではない。進行方向に突如として巨大な気配が現れ、その圧力を肌で感じたからだ。そして、それが空間転移の兆候であることに気づいたとき、セツナは立ち止まり、黒き矛を構えていた。先程の広間を脱出し、だだっ広い通路を真っ直ぐに突き進んできたが、船内のどの辺りかはまったく想像が付かない。
通路の床や壁、天井も白いが、あの空間のような継ぎ目さえ見えないような白塗りではない。様々な模様があり、起伏もある。そんな白い空間をねじ曲げ、染み出すようにして出現したのは銀の甲冑だった。それも二体。セツナより遙かに上背のある二体のうち、片方は大型の盾と直剣を手にしており、もう片方は両手剣を床に突き立てるようにした。いずれも全身を甲冑で覆っているため、素顔はわからない。
「白理の間を脱出し、どこへ行こうというのだ? セツナ」
「我らとの約定を切り捨て、陛下の敵になるつもりか」
「約定……?」
兜を通して聞こえてきた詰るような発言と声音に、セツナは、愕然とした。
「ラクサス殿にミシェル殿か!」
王立親衛隊の隊長として陛下のために尽くすことを誓い合ったふたりの記憶が脳裏を過ぎった。
やりきれない。