第二千六百七十話 減らず口
(ここは……どこだ)
目が覚めるなり、真っ先に思ったことはそれだった。
天井、床、壁、すべてが完全な白で覆われた空間に、ひとり囚われている。狭くはない。むしろ、広い。広すぎるといっていい。少なくとも、ひとひとり閉じ込めておくにはもったいなさ過ぎる広さがあった。ただ、その広さを完全には把握できない。床も壁も天井も真っ白で、境目がわからないからだ。どこまでも続いているように見えなくもないし、そこそこの広さのようにも見える。ただし、いずれにせよ、人間ひとり拘禁しておくには広すぎる空間であることには間違いない。
しかも、だ。
(なにもない空間だな)
セツナが周囲を見回して抱いた感想がそれだ。なにもないのだ。捕虜――というべきかどうかわからないが――を閉じ込めておくための部屋にしたって、寝台くらいはあってもいいはずだ。だが、セツナが寝かされていたのはなにも置かれていない真っ白な床の上であり、寝心地は決していいものではなかった。無論、配慮をしろといっているのではない。どんな理由で拘禁されているのであれ、扱いが悪すぎるのではないか、と思ったまでのことだ。
(俺は……どうなった?)
上体を起こし、座り直す。
全身、節々が痛んだ。それもこれも怒りに任せて暴れ回ったせいだ。完全武装状態で暴走した結果、力を使い過ぎた。その消耗と反動が全身に現れている。肉体的、精神的消耗が回復しきっていないということは、眠っていた時間も短いということだろうが、それにしても、こういうときに限ってあのような夢を見るのはどういうことなのか。
(怒りか)
怒りは力の源だという。
確かにその通りだ。
魂をも灼き焦がす怒りの炎は、セツナにこれまでにない力を引き出させ、完全武装状態をさらなる段階へと進化させた。だが、怒りによって自分を見失い、我を忘れた結果、絶体絶命の窮地に陥ったのは頂けない。これでは命がいくらあっても足りない。
殺されていてもおかしくはないのだ。
(怒り……)
拳を握り、力を込める。怒りは、いまもなお心の奥底で燻っている。いつか身を焦がした炎は、もしかすると一生、消え去ることなく燻り続けるのかもしれない。そして、ふとした瞬間、思い出したように噴き上がり、命を燃やす。そうなれば、自分自身でも手の施しようがなくなるのは、困りものとしかいえないが。
改めて、自分の置かれている状況を確認する。
なにもない真っ白な空間に放置されているとでもいうような状況。身ぐるみ剥がされているわけでもなければ、拘束されているわけでもない。呪文が唱えられないように口が封じられていることもなく、ほとんど自由といってもよかった。たとえば黒き矛を召喚し、空間転移を発動すればすぐにでも脱出できるだろう。それくらい、なんの不自由もない。
(どういうつもりだ)
と、疑問に想うまでもない。
セツナをこの空間に放置したのは、まず間違いなくレオンガンドの意向だろう。それ以外考えられない。レオンガンド以外のだれがネア・ガンディアにあれだけの被害をもたらした敵対者を自由にするのか。レオンガンドは、おそらくセツナが自分の敵になることはないと踏んでいるのだ。だから、自由にしてもなんの問題もないと想っている。
かつて交わした君臣の契りがいまもなお、彼の中で生きている。
いや、彼の中だけではない。
セツナの中にも、レオンガンドへの想いは強く息づいていて、だからこそ、彼は頭を抱えるしかないのだ。
(俺はどうすればいい? どうすれば……)
苦悩の原因は、あの男だ。
レオンガンド・レイグナス=ガンディアと名乗った人物。ネア・ガンディアの支配者にして、獅子神皇を名乗るもの。その圧倒的な力は、確かに神々の王に相応しいものだった。
(あれは……レオンガンド陛下だ。それは間違いない)
なにものかがレオンガンド・レイ=ガンディアを演じているというのでは、断じてない。それだけは確信を持っていえる。彼がいったとおり、死に、蘇ったのだろう。だからこそここにいて、神々の王として君臨している。神々をも支配し、世界に覇を唱えている。
夢、と彼はいった。
夢の続き。
小国家群統一の夢の続き。
それが世界統一だというのか。
そのために蘇り、ひとならざるものになったとでもいうのか。
「早いお目覚めだね」
不意に聞こえた声と現れた気配に、セツナは警戒心も露わにした。振り向けば、白い世界に溶け込むような白さの男がいた。真っ白な頭髪、白い肌、白い甲冑、大切そうに抱えた真円を描く白の盾。瞳だけが、碧い光を湛えている。クオン=カミヤ。いや、ヴィシュタルというべきか。
彼は、ひとりだった。たったひとり、セツナのいる空間にどうやってか忍び込んできた、とでもいいたげな雰囲気だった。
「眠り姫には口づけをと想っていたのだけれど」
「気持ち悪いこというんじゃねえよ」
冷ややかに告げれば、彼は、どこか嬉しそうに微笑んだ。その表情は、記憶の奥底にあるクオンのものと完全に一致する。その事実がセツナの感傷を誘った。そして、動揺を覚える。なぜ、クオンのことにこれほど感傷的にならなければならないというのか。
彼とは、決して仲が良かったわけではない。彼の庇護下に入ることは苦渋の選択だったのだし、彼がいなくなった半年間ほど開放的な日々はなかった。この世界での再会ほど嬉しくなかったこともない。ただ、そこからの積み重ねが彼への感情を大きく変えたのも事実だったし、クオンが世界を滅亡から救ったという事実に対し、並々ならぬ想いを持ったのも確かではある。
「よかった、減らず口が聞けて」
「……はあ? 喧嘩売ってんのか」
「いや……本当に安心したんだ。君が君のままでね」
「……なにがいいたいんだよ」
セツナが口先を尖らせるようにいうと、彼は真面目な顔になった。それだけで清廉な風が吹いたような感覚を抱くのは、彼の容貌が天使のように美しいからだろう。
「陛下と対面しただろう」
「……ああ」
彼がなにをいいたいのかを理解して、目を細める。
「それで、俺がへこんでんじゃねえかとか、想ったわけだ」
「そう。君は、陛下を盲信していたようだから」
「……盲信とか、そんなんじゃねえよ」
「どうだか。当時の君は、そう見えたよ」
「勝手にいってろ。俺と陛下の絆は、そんなちゃちなもんじゃなかったっての」
セツナは、彼から思い切り顔を背けて腕組みした。レオンガンドとの関係を馬鹿にされたような気がして、心底不愉快だった。確かにそういう一面もあったかもしれない。セツナにとってレオンガンドとは、自分を見出してくれたひとであり、居場所を与えてくれた人物でもある。
寄る辺なき異世界に見つけた光だった。
その光に照らされている限り、どんな苦難でも乗り越えられると想ったし、実際にそうだった。レオンガンドと信じ、戦い抜いたのだ。
それもこれも、ガンディア時代の話だが。
「なら、いまの陛下を見て、どう想った?」
「いまの陛下……?」
「君と陛下との間には、確かな絆があったんだろう? だったら、いまの陛下がどうなのか、わかるはずだ」
「なにがいいたいんだよ、さっきから」
セツナは、クオンを睨みつけた。彼は、至極真面目な顔でこちらを見ている。まっすぐなまなざし。目線を合わせるのも嫌になるくらいに澄んでいて、それが余計に混乱を生む。彼は、なんら変わっていないのだ。使徒になる前と、なにひとつ変わっていないような純粋さがそこにある。
「っていうか、おまえはいったいなんなんだよ。死んだんじゃなかったのかよ」
問うと、彼は虚を突かれたような表情を下。
「……驚いたな」
「あん?」
「ぼくたちが死んだこと、知っていたんだ」
「……ベノアに身を寄せていたときに、聞いたんだよ」
「ああ……そうか。十三騎士の方々には、わかったんだね」
彼が痛ましい顔をしたのは、きっと、十三騎士を巻き込まざるを得なかったことへの悔恨なのだろう。
「そうだよ、ぼくたちは死んだ。ぼくを含めた《白き盾》の皆、フェイルリング団長閣下を始めとする十三騎士の方々、グリフたち聖皇六将も皆、死んだ。でも、後悔はないよ。あのときは、それが最善だった。世界を救うためには、あのときはああするしかなかったんだ」
クオンは、確信に満ちた表情で告げた。
そこに一切の後悔はなかった。