第二千六百六十九話 魂を灼け、我が怒り(五)
「俺は弱い。あんたに比べりゃ雑魚同然だ。返す言葉もねえよ」
認め、告げる。
黒き剣を握ったとて、相手には届かない。アックスオブアンビションの居場所まで辿り着くことすら至難の業で、たとえ到達できたとして、刃を突きつけることすら敵わない。人間の身では、悪魔には敵わないというのは道理なのかもしれないが、だとしても不甲斐ないことこの上なく、口惜しさに心が震えた。
己の弱さが腹立たしい。
「でも、だからって諦めるわけにはいかねえんだよ。こんなところで足止めを食らってる場合じゃねえんだ」「だったら、足掻いて見せろよ」
彼は、大斧を肩に担ぎ、告げてきた。その両目は、燃え盛る炎のように紅く、禍々しく輝いている。
「できるだろ、おまえなら」
思わぬ一言にセツナははっとなった。彼は続ける。
「俺たちの主が選んだおまえならな」
男が大斧を薙ぐように振り下ろした。斧刃が大地に突き刺さり、破壊の波動が地を伝う。セツナは、飛んでかわした。男が笑う。二撃目は来ない。これはただのお遊び。余興のようなものだ。セツナの覚悟を試すための。
「あんたらの主が選んだの選ばないだの、関係ねえ。俺は俺だ。俺は俺としてここにいる。セツナ=カミヤとして、ここに立っているんだ!」
着地したときには、飛び出している。前へ。剣を構え、まっすぐに突き進む。燃えている。心が燃えて、肉体が躍動する。だが、呼吸が荒れているわけではない。ルクスから学んだ竜の呼吸法を維持したまま、全身をさらに加速させる。限界まで、突き動かす。
「そうだ……その目だ」
アックスオブアンビションが目を細めた。まるで待ち望んだ光景を目の当たりにできたかのような、そんな表情。しかし、そんなことはセツナには関係がない。
「その怒りに満ちたまなざし。それでこそだ」
なにがそれでこそなのか、セツナにはまったく理解できなかったし、わかろうとも思わなかった。もはや、彼の言葉を聞いて考えているような時間はない。彼は、動いている。大斧が閃き、地を抉る。破壊の波動が大地を粉々に打ち砕く中を跳躍し、肉薄する。目前。拳が飛んできた。剣で受け止めるもそのまま吹き飛ばされ、距離が空いた。そして、受け身を取った瞬間、地を這う破壊の波動に貫かれ、全身が粉砕された。
「だが、足りない。まだ足りない。もっとだ、もっと」
アックスオブアンビションの煽るような言葉を聞きながら、意識の復活を認める。肉体そのものが完全に再構築され、なにもかもが元通りになる。相手との距離も、無手であることも、元の通りだ。呪文を唱え、黒き剣を召喚する。歯噛みした。足りない。相手のいうとおりだ。なにもかもが足りない。圧倒的に足りない。
これでは、この試練を乗り越えられない。
「怒れよ。もっと激しく、もっと速く、もっと深く、もっと猛々しく。怒りは大いなる力の源だ。怒りこそが魂を灼き、命を燃やす。血を沸き立たせ、肉を躍らせる。怒りを燃やせ。怒りの炎を灯せ」
それは扇動であり挑発であり、あるいは手がかりなのかもしれないが、セツナは、彼の言葉に耳を貸そうとも思わなかった。自身の無力さへの怒りで、それどころではない。どうしてここまで弱いのか。強くなったはずではないのか。現世において、数多の鍛錬、実戦を経、死線を潜り抜け、苦難に満ちた戦いの日々を越えてきた。地獄に堕ちてからもだ。さらなる苦難と苦闘の日々を越え、確かに強くなったはずだ。実感があったはずだ。
だのに、いまの自分はあまりにも不甲斐なく、情けない。
故にセツナは自分への腹立たしさのあまり、アックスオブアンビションのことなどどうでもよくなっていた。彼をどうこうする以前に、自分をどうにかしなければならない。無力で非力で脆弱な己を超克しなければ、どうしようもない。
「この煉獄の辺土には、燃えて盛る炎が必要だ。紅蓮の炎がな」
「さっきからいちいちうるせえってんだよ!」
セツナは叫び、雑音を撒き散らす男に飛びかかった。男は、大斧を軽々と振り回し、セツナが着地した瞬間に破壊の波動を伝播させる。彼はいった。
「その怒りは、軽いな」
「くそが!」
「軽い」
「てめえ」
「だから、軽いんだよ、おまえの怒りは」
軽いといわれるたびに破壊され、そのたびに再挑戦しては破壊される。
同じことの繰り返し。
だが、無意味ではない。
破壊されるたび、意識が飛ぶたび、復活するたび、駆け出すたび、セツナの怒りは増大し、魂の炎が燃え上がっていった。そして、まるでセツナの怒りの激しさに呼応するが如く、大地に刻まれた亀裂から突如として炎が噴き出し、辺り一面、火の海と化していった。
「な、なんだ……?」
セツナが驚いている間にも紅蓮の炎が戦場を染め上げ、凄まじい熱量が渦を巻く。気温の上昇は大量の汗を流させ、体力を消耗させるはずなのだが、セツナはむしろ、良い気分だった。なぜかはわからない。気分が昂揚し、体が軽くなっていくような、そんな感覚があった。まるで炎がセツナの力を引き出してくれているような、そんな気配。
「いいぞ、いい。燃えてきたじゃあないか。やはり、我らが主が見込んだだけのことはある」
轟然と燃え盛る炎に包まれる戦場で、アックスオブアンビションはむしろ嬉しそうな顔をした。待ち望んだ瞬間が訪れたとでもいいたげな表情であり、態度。さっきまでのセツナならば、すぐさま飛びかかっていたかもしれないが、いまは、そうはならない。
怒りを制御している。
「なにがなんだかよくわかんねえけど、いまならあんたに勝てそうな気がするぜ」
「そいつは気のせいだ」
「どうかな」
「やってみろ」
「応!」
セツナは、うなずき、アックスオブアンビションの挑発に乗るようにして、地を蹴った。怒りがある。無力で非力で脆弱な己への抑えきれない怒り。自分の弱さに痛感したからこそ地獄に堕ちたというのに、その地獄でも負け続け、殺され続けている。ずっと、ずっとだ。それこそ、勝った回数のほうが圧倒的に少なく、それが自信に繋がらないのも当然といえば当然だった。だからこそ、己の弱さを自覚し、越えなければならないのだと理解している。
故に、怒りが生まれる。
怒りが炎となって魂を灼き、命を燃やす。
肉体が躍動し、大地が呼応する。地中から噴き出した炎がセツナの全身を飲み込み、空高く吹き飛ばしたのだ。当然、アックスオブアンビションの一撃は、大地に叩きつけられただけで意味をなさない。大地にこそさらなる破壊をもたらすものの、当のセツナは上空、燃え盛る炎に包まれ、火球となって、アックスオブアンビションに向かっていた。全身が燃えている。皮膚が灼け、肉が焼け、骨までも燃えていくような感覚の中で、それでもセツナの落下は止まらない。口から炎を取り込み、喉も肺も胃も焼き尽くされながら、猛然と突っ込んでいく。
アックスオブアンビションが、笑った。
待ち焦がれていた瞬間がついに訪れたとでもいわんばかりの満足げな表情がセツナの燃え盛る網膜に焼き付いたのは、偶然だったのか、幸運だったのか。
いずれにせよ、セツナは、アックスオブアンビションが振り上げた大斧を炎と燃える黒き剣で叩き割り、その勢いのまま、男を切り裂いたのだ。
「そうだ。それでいい。怒りこそが力の源。怒りある限り、おまえの力が尽きることはない」
炎の塊となって着地したセツナは、全身を激痛に苛まれながら振り返った。アックスオブアンビションの満ち足りたまなざしは、セツナを見据えていた。
「だが、忘れるな。怒りの炎は、ときに己の命をも焼き尽くすもの……」
アックスオブアンビションの全身が炎に包まれたのは、その直後だった。曇天を貫くほどの火柱が立ち上り、その中から鍵が飛んできた。鍵は、これで三つ目。
(……ああ、忘れない)
セツナは、そう答えたかったが、結局、声は出せなかった。全身を怒りの炎に灼かれた結果がそれだ。怒りに身を焦がし、敵を打ち倒すことができたとして、その結果、自分自身の命をも失うようなことがあったとしても、満足できるものだろうか。
時と場合によるとしかいえないが、少なくともいまは、死ぬわけにはいかない。
(――忘れようがないさ)
夢の淵で、セツナは自嘲した。
怒りに我を忘れた結果、自分自身を絶体絶命の窮地に招くなど、言語道断にもほどがある。