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第二千六百五十一話 魂、燃え尽きるまで(四)

 空間転移の直前、腿を切り裂いたときに生じたはずの痛みが瞬時に感じられなくなったのは、激情が肉体を突き動かしていたからだろう。

 怒りだ。

 怒りしかなかった。

 マユラ神からの通信を聞いたときから、嫌な予感はしていた。胸騒ぎ。悪いことが起こる前触れ。虫の報せ。なんでもいいが、とにかく、異様な感覚に包まれたのを覚えている。そして、機関室に飛び込み、それを目の当たりにしたとき、頭の中が真っ白になった。

 ザルワーン島上空を覆い尽くす無数の飛翔船。その光景が示すのは、ネア・ガンディアによる再侵攻であり、獅徒ミズトリス率いる軍勢を撃退したことが、最悪の事態を招いたことは想像に難くない。これだけの戦力を投入すれば、再度、島の制圧に失敗することはないだろう、というネア・ガンディアの考えが透けて見える。そして、それは正しい考えでもあった。

 ネア・ガンディアは、ザルワーン島の再侵攻に際し、三百隻を越える飛翔船に二百を超える神属を投入したのだ。これほどの戦力に対抗できる軍勢など、この世のどこにも存在しない。リョハンだろうと、統一ザイオン帝国だろうと、瞬く間に制圧されるだろう。軍事力の低い仮政府ならば、なおさらだ。抵抗らしい抵抗もできなかったか、しなかったのではないか。龍神ハサカラウが敗れ去るのも、当たり前の話だ。多勢に無勢。圧倒的な戦力差。これでハサカラウを責めるのは、お門違いも甚だしい。

 では、だれが悪いのか。

 ザルワーン島からネア・ガンディアの軍勢を追い払ったセツナたちか。

 あのとき、ネア・ガンディアに素直に降伏しておくべきだったのか。

 いや、違う。

 ザルワーンの空を覆う船団を見るたび、彼の心が激しく揺れた。抑えきれないほどの怒りが烈火の如く猛り狂い、意識を塗り潰していく。怒り。心の奥底から限りなく沸き上がってくるどす黒い感情の奔流は、もはや彼の意思ではどうすることもできなくなっていた。鼓動が高鳴り、血が激しく巡る。

 箍が、外れている。

 おそらく、あのときからだ。すべてを目の前で奪われ、憤怒と絶望の奈落に堕ちたあのとき、心の箍が外れてしまった。元に戻り、失われた事実さえなかったことになったというのに、そこだけは、戻らなかった。

 そう認識したところで、どうなるものでもない。一度、外れてしまった感情の枷を戻すことはできない。

 激情が、彼を支配した。

 冷静には、なれなかった。

 ネア・ガンディアの軍勢が、船団がザルワーン島を覆い尽くしている。ザルワーンのひとびとがいまどのような目に遭っているのかを想えば、荒れ狂う激情の奔流に歯止めなど効くはずもなかった。皆が制止しようとする声の冷静さにさえ、苛立ちを覚えた。どうして、平気なのか。相手はネア・ガンディアだぞ、と、叫びたかった。ネア・ガンディアがひとをひととも想っていないことくらい、周知の事実のはずだ。降伏したからといって、無事に生きられる保証はないのだ。安息など、あろうはずがない。平穏など、約束されるわけもない。あるのは絶望的な未来だけだ。

 そう思い至ったとき、彼は、呪文を唱え、黒き矛を手にしていた。そして、その瞬間、黒き矛から流れ込んできた凄まじい熱量を帯びた敵意に同調し、空間転移を起こした。ウルクナクト号の屋根の上に転移すると、すかさず呪文を唱える。六度に及ぶ武装召喚術の行使。それによって黒き矛のすべての眷属を召喚し、完全武装状態となる。

 黒き軽鎧を纏い、黒き仮面を被り、闇の手で大斧、長槍、杖を持ち、双刃を鎧に同化させる。翅は飛竜の翼の如く変化し、一度の羽撃きでセツナの肉体を遙か前方へ飛ばした。ザルワーン島南東の空を漂うウルクナクト号を置き去りにして、蒼穹を翔る。完全武装状態かつメイルオブドーターを強化したことで、普段の何倍もの飛行速度が出ていた。

 前方、数多の飛翔船が翼を広げ、ザルワーン島の上空を覆っているのが肉眼で確認できる距離へと至る。

 あれだけの数の船だ。搭載している戦力は、第一次ザルワーン島侵攻時とは比較になるまい。仮政府軍と帝国軍、龍神が力を合わせても敵わなかったのは当然のことだったし、龍神が無事なのかどうかも不明だ。神は不滅の存在であり、神同士の争いは不毛かつ無意味なものだというが、ナリアの例がある。極限まで力を使い果たせば、他の神に取り込まれる可能性がるのだ。龍神がネア・ガンディアの神に取り込まれている可能性も捨てきれない。それならば、より一層絶望的だが、構いはしなかった。

(ふざけんな……ふざけんなよ……!)

 セツナのネア・ガンディアへの怒りは、留まるところをしらない。

 ネア・ガンディアという呼称自体、彼の感情を逆撫でにするものだった。ネア・ガンディアとはつまり新生ガンディアという意味だが、ガンディアとはセツナたちが属した国であり、祖国といっても過言ではなかった。この世界における故郷。様々な、そして大切な想い出があり、セツナにとってこの上なく大事な国だった。“大破壊”によって失われたと思いきや、仮政府として生き延びていたことを知ったとき、彼は、涙を流すほどに喜んだものだったし、グレイシアたちのためになんだってしようと想った。ガンディアの再興が望みならば、そのために骨を砕くのも悪くない。それくらい、セツナは、ガンディアという国に思い入れがあった。

 そんな気持ちに泥を塗る存在だった。

 ネア・ガンディアを名乗り、神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアなる存在を主君に仰ぐものたちは、セツナの逆鱗に触れ続け、激情を呼び起こし続けている。

 彼は、征く。

 完全武装状態によって鋭敏化した五感が遙か彼方の大船団を精確に捉え、それらがセツナの急接近に気づき、反応していることを認識したとき、彼は、喉が張り裂けるほどに吼えていた。

 無数の飛翔船が船首をこちらに向けた。船首に格納された砲塔が姿を見せる。

 神威砲だ。

 火線が走った。


「セツナ……?」

 ファリアは、伸ばした手が空を切るのを認めて、茫然とした。セツナが、黒き矛の空間転移能力によって姿を消したのだ。激情に駆られ、冷静さを失った彼を説得することなどできなかったということであり、その事実はファリアの頭の中を真っ白にした。その場に座り込み、いなくなったはずのセツナを探して、虚空を見ている。

「ちょっと、待ってよ……待って」

「なんで、なんでだよ!」

 ミリュウが声に涙を混じらせれば、シーラが行き場のない怒りをぶつけるように叫ぶ。彼女たちも、ファリアと同じ気持ちに違いない。だれもが、セツナの感情を理解しながら、引き留められなかった。暴発を食い止められなかった。甘く見ていた。彼がそこまで激しい怒りを抱いているとは、想いも寄らなかったのだ。

「御主人様……」

「お兄ちゃん……」

「なにをしているのですか。いますぐ追いかけましょう」

「ウルク殿のいうとおりだ。追いかけましょう。いまならまだ間に合う」

 ウルクとエスクの意見にファリアははっとなった。立ち上がり、ミリュウを見る。彼女も、希望を見出したといわんばかりに目を輝かせていた。そうだ。こんなところで我を失い、立ち止まっている場合ではない。

「そ、そうね。すぐにでも追いかけて、連れ戻すのよ。それでセツナに嫌われたって構わないわ。セツナを失うより、ずっとましよ!」

 ミリュウの決然たる叫びには、ファリアも同意だった。怒り、昂ぶる人間を強引に連れ戻すのは、その怒りをぶつけられる対象になる可能性がある。だが、そんなことよりも、セツナを失うことのほうが辛い。たとえセツナに嫌われたとしても、彼が生きていることのほうが重要だ。セツナとは彼女たちの光であり、生きる希望そのものといっても過言ではないのだ。

 シーラもレムもうなずき、エリナはミリュウの手を強く握った。機関室にいるだれもが同じ気持ちだった。だが。

「いや、それはできない」

「は? どういうことよ?」

「マユラ様?」

「おまえたちを危険に曝すことはできない、といっているのだ」

 マユラ神は、冷酷なまでの静けさを帯びていた。



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