第二千六百五十話 魂、燃え尽きるまで(三)
「なんだってんだ……!」
セツナの叫び声が聞こえたのは、偶然の産物に過ぎない。
機関室に飛び込んだとき、ファリアたちを待ち受けていたのは難しい顔をしたレムであり、無表情のウルクだった。マユラ神もいたが、その表情から感情を読み取ることは出来ない。そしてセツナとエスク。エスクはこちらを見て、厳しい表情をしたが、セツナは、食い入るように映写光幕を見ていた。いや、睨んでいるといったほうが近い。それも凄まじい形相だった。鬼気迫る表情。ここまで怒りに満ちた表情を見せたのは、ナリアに一度敗れ去ったあとに見て以来だった。
「いったい、なにがあったの……?」
「そうよセツナ、落ち着いて?」
「これが落ち着いていられるかってんだ!」
セツナは、宥めようとするミリュウに対し、虚空に浮かぶ映写光幕を指し示した。船外の風景を投影する映写光幕はいくつも浮かんでいるのだが、そのひとつ、マユラ神の頭上に浮かべられた光の幕の中には、想像を絶する光景が映し出されていた。
「なによ、あれ……」
「なんなの……? どういうことよ!」
「なんの冗談だよ、これは……!」
ファリアが愕然とつぶやけば、ミリュウは叫び、シーラが拳を握る。
「冗談でも悪夢でもないぞ。絶望的ではあるがな」
マユラ神の冷徹な声のおかげで多少なりとも冷静さを取り戻せたものの、ファリアは、自分の目で見ているものを信じられなかった。
映写光幕には、ひとつの島が映し出されている。遙か遠方、海上に浮かぶ島の形は、ザルワーン島として記憶されているものだ。広大な海の上に広がる黒々とした大地、それだけを見ればなんの変哲もないように思えるのは、やはり荒れ果てた世界を見慣れてしまったからだろう。ザルワーン島は、必ずしも美しい大地ではなかったし、以前に比べれば変わり果てていた。しかし、ファリアが愕然としたのは、そこではない。そんなことは、映写光幕上に提示された問題に比べれば、些細なことだ。
ザルワーン島上空に無数の飛翔船が浮かんでいたのだ。小型のものから大型、超大型の飛翔船がザルワーン島の空に蓋をするように留まっている。十隻や二十隻どころではない。百を優に越える数の飛翔船が密集しているようなのだ。地上は、沈黙している。戦闘が行われているような様子もなければ、飛翔船からの攻撃も、見受けられない。天も地も、時が止まったように動かなかった。
その光景を見た瞬間、ファリアは息を呑むほかなかったし、あまりの光景に頭の中が真っ白になった。
それは、ネア・ガンディア軍の再侵攻を示し、また、その再侵攻が間違いなく成功していることを示していた。天地に動きが見えないのだ。仮政府も、帝国軍も、もはや抵抗しようがないと諦め、降伏してしまったのではないか。それ以外、考えられなかった。
だとすれば、ザルワーン島のひとびとが心配だ。ネア・ガンディアは、ザルワーン島を制圧するためならばマルウェールを住民もろとも亡き者にするくらいなんとも想わないような連中なのだ。仮政府が降伏したとして、降伏するまでなにをされたのか、想像もできなかった。
ザルワーン島には、龍神ハサカラウがいた。皇神とは異なる方法で現出した異世界の神は、シーラを気に入ったがためにザルワーン島の守護神となることを約束してくれていた。その実力は、並の皇神よりも強大であり、頼もしいことこの上なかった。だが、そんな龍神も、多勢に無勢ではどうしようもなかったのだろう。ハサカラウが悪いわけではない。
ネア・ガンディアは、おそらく、どんな敵が相手でも力でねじ伏せるべく、全戦力を投入してきたのではないか。
「絶望的?」
セツナがマユラ神を睨み付けたのを認めて、ファリアは茫然とした。彼の言動が、おかしい。機関室に入ったときからそうだったが、室内の空気が張り詰めていて、その原因がセツナの昂ぶりにあることは明らかだった。
マユラ神は、そんなセツナのまなざしを受けても、涼しい顔をしている。
「飛翔船といったか。ザルワーン島上空の船の数は三百二十二隻。このうち百隻に神属が搭乗している。つまり、神の助力がなくとも動かせる船を新たに開発し、量産しているということだが……まあ、それはいい。問題は、ネア・ガンディアの戦力だ」
「百隻の飛翔船の動力が神ということは、百はいるってことだろ、神が」
「そうだ。だが、当然の話だが、百どころでは済まないだろう。探知できる限りではその倍はいる」
マユラ神が発言するたびに増大するのは絶望感だ。さすがは絶望を司る神ところかもしれないが、もちろん、笑い話にもならない。
「はっ……上等じゃねえか」
「え?」
「なにいってるの? セツナ」
「そうだぜ、いま、なんて……?」
ファリアもミリュウもシーラも、だれもかれも、セツナの発言に耳を疑った。
彼の発言は、まるでこれから戦いに赴くもののようであり、そのことがファリアたちには信じられなかったのだ。それはそうだろう。冷静に考えればわかることだ。戦力差は、あまりにも圧倒的だった。飛翔船が三百二十二隻、最低でも二百もの神がいて、それに加え、数え切れない神人や神獣が控えているだろう。とても、このウルクナクト号の戦力でどうにかできるものではない。
完全武装状態のセツナならば神々とも戦えるかもしれない。いや、並の神々ならば、並の皇神ならば、完全武装状態のセツナが負けることはないのだ。それはわかっている。だが、しかし、数が違う。敵の数が、圧倒的に多いのだ。一体や二体ならば問題なく斃せても、十、二十どころか百や二百の神々を相手に戦い抜けるとは思えないのだ。
セツナに無尽蔵の力があるならば話は別だ。が、そうではない。
「決まってるだろ、行くんだよ。助けに」
「なにを――」
「ザルワーン島には、龍府には、グレイシア殿下やナージュ殿下、レオナ様もいるんだぞ!」
セツナが拳を握り締めて、叫んだ。だれもが不安げな表情をする中で、セツナの顔つきだけは猛々しい獣のようだった。
「みんな、助けを待ってる……!」
「そりゃあ……そうかもしれないけど……さ」
「でも、無茶だろ」
ミリュウに続き、シーラもセツナを引き留めようとした。いや、セツナだけではない。この場にいるだれもが、セツナの行動の無謀さに気づいていたし、セツナが冷静ではないことも理解していた。セツナの目が血走っている。怒り狂い、理性を失っているのではないか。だとしても、なぜ、ここまで彼が感情を暴走させているのか、ファリアには、わからない。ファリアだけではない。セツナただひとり興奮し、激昂しているのだから、置き去りにされたものたちは、冷静にならざるを得ない。
そして、冷静になれば冷静になるほど、セツナの怒りについていけなくなる。
わかっている。彼の気持ちも、十二分に理解できるのだ。ファリアだって、グレイシアやナージュ、レオナを始め、ザルワーン島にいるはずのひとたちを救いたいと想っているし、だからこそ、無力感に苛まれ、口惜しい。自分たちに力があれば、悩むことなく突撃し、皆を救い出してみせるのに、と。
だが、現状、どう足掻いてもそれは不可能だということはわかっていたし、だから、ファリアは必死になってセツナを引き留めようとした。一時の感情に流された挙げ句、最悪の事態に陥ってはならない。
「そうよ、ミリュウとシーラのいうとおりよ、セツナ。いまのわたしたちじゃ、どうしようもないわ」
「大将、少し頭を冷やしたほうがいい。あの船団相手じゃ命がいくらあっても足りねえ」
「そうでございます、御主人様。グレイシア様や皆様を一刻も早く救いたいという御主人様のお気持ちは、痛いほどわかります。しかし、現状、わたくしどもの戦力ではいかんともしがたく」
「戦力を整え、出直すべきではないかと」
「お兄ちゃん……」
セツナを引き留めようとしたのは、ファリアだけではない。エスクもレムもウルク、エリナさえ、セツナが激情に駆られ、冷静さを失っていることに気づいていた。そして、大船団に挑むということの無謀さ、愚かしさを理解している。
勝てる戦力差ではない。
普段のセツナならば、真っ先に想像し、熟考することだ。彼は、度重なる戦闘の経験によって、考えなしに突撃するような愚か者ではなくなっていたはずだ。それなのに、いまのセツナは、視野が狭窄しているようだった。
かくなる上は、強引にでも引き留めなければならないのではないか――などと彼女が物騒なことを考えていると、彼は自分を落ち着かせるようにゆっくりと息を吐いた。
「そうだな……まったくその通りだ」
そういった彼の表情は、憑き物が落ちたようにすっきりしていて、だからファリアはほっと胸を撫で下ろしたのだが。
「皆を巻き込むわけにはいかねえよな」
その言葉がなにを意味するのか、ファリアが察したときには、彼は呪文を口走っていた。
「武装召喚」
術式を完成させる結語が聞こえ、爆発的な光が視界を染める。そして、光の中から出現した黒き矛を手にしたセツナは、切っ先を翻してみずからの右足を切りつけ、ファリアたちの目の前から姿を消した。
「セツナ……!?」
おそらく、その場にいただれもが似たような言葉を叫び、彼のいなくなった虚空に手を伸ばしていた。