第二千六百四十六話 経過(一)
時が流れ、季節も変わる。
春から夏へ、夏からを秋へ。
十月。
ときが過ぎるのは早いものだと想わざるを得ない。
しかし、それもこれも日々が充実しているおかげなのだろう。なにもやることがなければ、情熱を傾けるものがなければ、時間などただ虚しく、意味もなく過ぎていくだけで、満たされることもない。その点では、置かれている境遇に感謝するべきなのかどうか、迷いどころではあった。
自分に残された時間は、日々、失われ続けている。
命の摩耗。
人間の命には限りがあり、いつかは死ぬ。そんな当たり前なことが問題なのではない。彼女が直面している問題はもっと逼迫したものであり、寿命よりも早く、そして絶望的な形で現れるものだ。故にこそ彼女は、時間を惜しんだ。できる限りの時間を研究と実験に費やし、様々な方法を思案し、実行した。そうすることで少しでも無駄な時間を消し去り、有意義に命を燃やそうとしていたのだ。
それでも、人間たるもの、休まずにはいられない。
不眠不休で何十時間も働けるほど、人間の肉体も精神も頑強にはできていない。それどころか、そんなことをして心身に負担をかけ過ぎた結果、いらぬ失敗やしくじりを招きかねない。ときにはじっくり休み、心身の状態を整えることも重要だ。
ひとの命がかかっているのだ。
研究も実験も、慎重に慎重を重ねなければならない。
そんな当たり前のことを想うのは、やはり、多少なりとも疲れが出てきているからだろう。研究室の窓際、長椅子に腰掛けた彼女のまなざしは、硝子窓の外の森を捉えていた。秋。紅く色づいた木々の葉は、研究室に籠もりがちな彼女に季節の移り変わりを実感させるにたるものだが、特に彼女が気に留めているのは、その中でも結晶化した木々のほうだ。窓から見渡せる森はかなりの範囲が結晶化しており、生物の住処ではなくなっているのだ。その結晶化した森の中、数本の木が紅く色づき、生を主張している。それもまた、彼女の研究の一環であり、成果といっても過言ではなかった。
鉱物や植物の結晶化も、この世に満ちた神威の影響だということはわかっている。つまり、このままでは、世界中の植物や鉱物が結晶化し、人間のみならず、あらゆる生物にとって死の世界、地獄と化すということだ。彼女の実験が結晶化にまで及んだのは、当然の結果といえる。そしてその研究成果が目に見えた形に表れ始めていることがわかり、彼女は安堵した。
ふと、愛らしい寝息が聞こえ、彼女は自分の膝元に目線を落とした。草の冠を被った童女が、彼女の太ももを枕にして眠っている。その安心しきった表情は、見るだけで彼女の心を癒やした。アマラ。童女の姿をした草花の精霊は、いまも彼女の役に立っている。
アマラの髪を撫で、茶を口に含んだときだった。
「どうだ? 研究は上手くいっているか?」
「……驚かせないでくれるかい? 危うく飲み物をぶちまけるところだったじゃないか」
事実、危うく口の中のものを噴き出し、アマラの顔や周囲に吐きかけてしまいそうになり、彼女は不機嫌にそちらを見遣った。
はっとするほどに美しい少女が、いつの間にか部屋の片隅に立っていた。ついさっきまで彼女とアマラ以外だれひとりいなかったというのにだ。だが、そこに疑問は持ち得ない。その灰色の髪の少女ならば、それができる。音もなく、壁で隔てられた別空間に移動することが可能なのが、その魔人の強みだった。アズマリア=アルテマックス。絶世の美少女というに相応しい美貌の持ち主は、相も変わらぬ鉄面皮でこちらに歩み寄ってきた。
「勘弁しろ。転移先の様子まではわからんのでな」
「それは理解しているけどね」
彼女は嘆息し、茶器を目の前の卓上に置いた。それから、再びアズマリアに視線を戻す。空間的制約から解放された人物は、いつものように唐突に、そして当然のように現れ、我が物顔でそこにいる。そうしているのがまるで当たり前のように、だ。いつだって彼女はそうだった。古代図書館でもそうだったし、ここを訪れてからもずっとそうだった。そのことがこの都市の支配者に不快感を覚えさせたようだが、こればかりは致し方がないのだろう。アズマリアに悪気はなく、たとえそこを直すように伝えたとして、彼女にそのような機微が理解できるとは思えない。
「……それで、先の質問の返事だが」
「ああ、研究だったね。経過は順調そのものといっていいよ。想像していた以上の結果にあたしも驚いてる」
「ほう……」
アズマリアの表情に変化が起きる。興味が湧いた、といわんばかりの変化。普段が無表情故に、彼女の感情というのは余計にわかりやすかった。わずかな変化が心の動きを示す。
「あれをご覧よ」
彼女――マリア=スコールは、窓の外、結晶化した森を指し示した。アズマリアは、窓に近寄ると、彼女の示した方角を見遣り、目を細める。
「ふむ。あの結晶化していない木々が、被験体なのだな」
「そうだよ」
「……だとすれば、ここに来たのはまったくの無意味ではなかった、ということか」
「無意味どころか」
マリアは、アズマリアの瞳を見つめ返した。淡く発光する瞳は、魔晶人形のそれだ。それもそのはずで、彼女は、魔晶人形の躯体を依り代としていた。表情の起伏が少ないのは、それが原因ではないようだが。そもそも、魔晶人形に表情など生まれ得ない。つまり、魔人は、魔晶人形の躯体に宿りながら、そこに変化をもたらすことのできる存在だということだ。
「意義しかないよ」
「それはなによりだ」
アズマリアは小さくいって、室内を見回した。広い研究室にマリアとアマラのふたりしかいないことが気になったのかもしれない。普段ならば多数の研究員が彼女とともに研究に従事しているのだが、いまは、休憩時間であり、出払っていた。
ここは、彼女が白化症の治療法を研究するために立ち上げた研究施設だ。生命科学研究所という名をつけたのは出資者であり、彼女の趣味ではないが、出資者の機嫌取りのため、その名で通していた。出資者の機嫌を損ねることは、ここでの研究ができなくなることを示している。出資者は、研究の資金源であるとともに研究材料の提供者でもあったからだ。出資者の協力がなければ、ここまで立派な研究施設も確保できなかっただろうし、こうも順調に研究を続けることもできなかっただろう。出資者は、マリアたちの研究の立役者といっていい。
そのことを考えるたびに想うのは、自分たちが幸運に恵まれていたということだ。
ここは、ワラルの首都ネア・ワレリア。
古代図書館で手がかりを得たマリアたちは、アズマリアの召喚武装ゲートオブヴァーミリオンの能力によって、この地に飛んだ。が、すぐさま研究を始められたわけではなかった。
当時、ワラルの首都ネア・ワレリアは、神聖ディール王国軍の残党によって支配されており、マリアたちは、転送直後、聖王国軍残党に包囲され、拘束された。もっとも、そのとき拘束に応じたのは、市街地の真っ只中であり、市民に危害が及ばないようにという判断からであり、アズマリアの実力を持ってすればなんの問題もなかったのはいうまでもない。実際、アズマリアは、その圧倒的な戦闘力で聖王国軍残党の拘束を解き、マリアたちを解放している。
その後の情報収集により、ワラルの置かれている状況を把握したマリアたちは、ナルガストに潜伏中だったワラルのかつての女王エリザ・レア=ワラルと接触に成功すると、交渉の末、ネア・ワレリアを奪還することを条件にマリアたちの研究への協力を取り付けたのだ。
とはいえ、ネア・ワレリアの奪還には多少の時間を要した。
なぜならば、聖王国軍残党が支配していたのはネア・ワレリアだけではなく、島全体だったからだ。ネア・ワレリアの奪還には、周囲の都市に配置された軍勢との連携を断つ必要があった。ネア・ワレリアのみの奪還に成功しても、四方から攻め立てられればいかんともしがたい。
アズマリアによるネア・ワレリア奪還作戦は、周辺の都市の奪還から始まった。