第二千六百三十七話 風の中の兄弟(六)
「……兄さん。話を聞いてよ」
「聞いたさ」
告げ、シルフィードフェザーを展開する。白の外套から白き一対の翼へ。シルフィードフェザーは形状を変化することのできる希有な召喚武装であり、外套から変形した翼を広げるルウファの姿は、想像上の天使に近い。
「ネア・ガンディアだって? 陛下や父上、兄上がそこにいるって? それがたとえ本当だとしても、あの方舟の軍勢がネア・ガンディアだっていうなら、俺がついていけるわけがないじゃないか!」
「どうして? どうしてさ……なんで……」
ロナンは、懇願するような泣き顔になる。その表情には心を揺さぶられかけるが、胸中で頭を振る。ネア・ガンディアが方舟の軍勢ならば、思い止まらざるを得ない。方舟の軍勢は、これまで二度に渡ってリョハンを襲い、ただいな被害をもたらしている。ネア・ガンディアは、ひとをひととも想っていない連中でもあった。元々ネア・ガンディアに属していた兵士たちでさえ、捨て駒にされたという事実がある。たとえガンディアの名を掲げ、そこにバルガザール家の人間が所属し、レオンガンドが率いているのだとしても、そんなことは関係がなかった。
それに、総攻撃が予定されている、と、ロナン自身がいってきたのだ。つまり、ここでロナンに靡くことなど、ありえない。ここでロナンに靡くということは、ロナンとともにリョハンを去るということは、リョハンを見捨て、自分たちだけ助かるという選択にほかならない。
リョハンのひとびとを見殺しにするなど、論外も論外、言語道断だ。
ルウファは、この都市が気に入っていたし、ここに住むひとたちが好きだった。
ファリアやセツナとの約束もある。
六大天侍のひとりとして、リョハンを護ると約束したのだ。
「俺はリョハンの人間なんだよ、ロナン。おまえがネア・ガンディアの人間であり、ネア・ガンディアの先触れとしてここにいるように、俺は六大天侍のひとりとして、ここにいる」
「……どうしても、来てくれないんだね?」
「リョハンは、おまえたちの好きにはさせない」
「そう……残念だよ」
ロナンが口惜しげに告げてくる。その表情は酷く痛ましい。
「兄さんと義姉さんだけでも、救いたかったのに」
「それが傲慢なんだよ、ロナン」
「傲慢?」
ロナンが頭を振る。
「違うよ、兄さん。ネア・ガンディアはついに本腰を入れたんだ。陛下がお目覚めになられた。そして、この世界に覇を唱えるべく動き出されたんだ。これまでのような生半可な攻撃とは次元が違うんだよ。リョハンは……跡形もなくなるかもしれない」
「どうかな」
「兄さんだって、知っているはずだろ。ネア・ガンディアの軍事力がどれだけのものか。リョハンだけじゃ相手にならない……!」
「そうやって、二度、生き延びた」
「それは……偶然や奇跡が重なったおかげでしょ」
「……そうだな」
一度目は、ラムレス=サイファ・ドラースの救援があり、二度目は、セツナの救援があった。だからこそ、リョハンは方舟の軍勢から生き延びることができたのは紛れもない事実だ。今度、同じようなことがあれば、つぎこそは滅びを免れ得ないのではないか。そういう心配や不安は、常にリョハン上層部を苦悩させている。
実際問題、リョハンの現有戦力では、どうしようもないのは事実だろう。戦女神代行率いる六大天侍と護峰侍団だけでは、方舟の軍勢ことネア・ガンディアには太刀打ちできまい。しかも総攻撃という言葉通りの大攻勢を受ければ、一溜まりもないに違いなかった。
「だが、つぎも奇跡が起きないとは限らない」
「奇跡を期待して絶望的な戦いを挑むのは、愚かだよ」
「それでも、これまで散々世話になったリョハンを見捨て、ネア・ガンディアに寝返るよりは遙かに増しさ」
「義姉さんが可哀想だ」
「エミルなら、喜んで俺と死んでくれるだろうさ」
それは、惚気でも戯れでもなんでもない。本当のことだ。ルウファはそう信じていたし、エミルに聞いたとしてもそう答えてくれるだろう。
「……そうだろうね」
ロナンは否定もせず、小さく告げてきた。
「本当に残念だよ、兄さん」
「俺もだよ、ロナン。おまえが生きてくれていて、嬉しかったのに。なんで……」
「……ごめんね、兄さん」
ロナンが心の底から謝罪の言葉を浮かべてきたことは想定外であり、ルウファは、茫然とするほかなかった。そしてそのまま、ロナンの姿が光の如く掻き消えていく様を目の当たりにする。素早く手を伸ばしたが、当然、空を切った。
ロナンは、空間転移によってこの空中都に入り込み、また、空間転移によって守護結界の中から脱出していったのだ。
その事実をぼんやりと考えながら、拳を握る。爪が手のひらに食い込むが、気にしない。
「ルウファ!」
不意に頭上から聞こえてきたのは、グロリア=オウレリアの声だった。見上げれば、光の翼を羽撃かせながら滑空してきているところだった。ルウファの師匠であり、六大天侍のひとり。身に纏うは召喚武装メイルケルビムであり、背部から発生させた光の翼はこの世のものとは思えないほどに美しい。
「師匠……?」
「いま、異様な気配を感じたが……なにかあったのか?」
「……ええ」
ルウファは、心配性の師の形相を見つめながら、静かにうなずいた。
「ネア・ガンディアの総攻撃……か」
マリク神は、ルウファの報告を受けて、つぶやいた。
ルウファは、ロナンが姿を消したあと、すぐさまグロリアとともにマリク神の元を訪れたのだ。ロナンのもたらした情報が正しければ、一刻も早く行動を起こさなければ、大変なことになる。そして、ロナンが嘘の情報を流してきたようには見えなかった。彼も必死だった。必死にルウファを説得し、ネア・ガンディアの一員に引き入れようとしていた。そこに一切の偽りはなかったのだ。だからこそ、心が重い。苦しい。
ロナンが、ルウファとエミルだけでも助けたいという気持ちは、本物だった。
だが、ルウファがロナンに告げたこともまた、事実だ。ルウファは、リョハンのひとびとを裏切ってまで、ネア・ガンディアとやらに荷担することなどできなかった。これまで散々リョハンを攻撃してきた組織に寝返るなど、考えられもしない。しかも、ネア・ガンディアがまともな組織ではないことは、これまでの戦いからも明らかだ。
人間を神人化させ、兵器の如く運用している事実からも、ネア・ガンディアが人命を軽く見ていることは明白だった。そんな組織に組みすることなど、できるわけがない。
それなら、リョハンの人間として、最後まで戦ったほうが遙かに増しだ。
「総攻撃開始までどれだけの時間的猶予があるかはわからないんだよね?」
「はい。残念ながら」
「残念ってわけでもないけど」
「はい?」
「まあ、ともかく、報告感謝するよ。おかげでリョハンは救われる」
マリク神は、ルウファに労いの言葉をかけると、手元の構造物に目をやった。複雑な形をした小さな柱のようなそれは、ところどころがわずかに明滅している。
マリク神は、ここのところ、空中都の中心にある監視塔ではなく、空中都の地下に入り浸っており、ルウファたちには理解できない作業に没頭していた。以前、ルウファが見つけ出した装置と関係のあることのようだが、それがなにを意味するのかは、説明されてもいない。マリク神が説明しないということは、ルウファたちが知る必要のないことだということであり、そのため、ルウファたちも特には説明を求めなかった。
それでリョハンは上手く回っている。
だが、存亡の危機が迫っているというこの状況で、マリク神の態度はあまりにも余裕がありすぎる気がして、ルウファはなんだか拍子抜けするほかなかった。
リョハンは、本当に救われるのだろうか。