第二千六百三十六話 風の中の兄弟(五)
「そんなこと、どうでもよくない? ぼくはここにいて、人間なんだよ。なんの問題があるのさ」
ロナンは、笑い飛ばすようにいった。まるではぐらかすように。まるで、その話題に触れることを拒むように。
「本当にただの人間なら、普通の人間なら、そんなことを強調する必要がない」
「……そうだね」
「本当に……ごく普通の人間なら、入山許可を取って登ってくるしかないんだよ」
「武装召喚術があるよ」
「たった数年で使えるようになるものかよ」
ルウファは、心の奥のざわつきに吐き気を催しながら、告げた。ロナンの疑惑を晴らしたいと想う一方、その疑惑が深まっていく事実に胃が引き攣るような気がした。
「そういうのは一握りの天才だけの特権なんだ」
天才といって思いつくのは、やはりエリナ=カローヌだろう。父親の影響で古代言語に明るかったがため、古代言語を学ぶ時間をすべて修練と研鑽に費やすことができたとはいえ、たった数年でいっぱしの武装召喚師になることができたのは、エリナ自身の才能というほかない。ミリュウ=リヴァイアが天才と褒めそやし、溺愛するのも無理はなかったし、ルウファから見ても、彼女は才能の塊だった。そんな彼女でも、ミリュウに師事し、数年間みっちりと修行したからこそ武装召喚師になれたのであり、学校で習い始めたばかりだったロナンが扱えるほど、武装召喚術は簡単なものではない。
「召喚武装なら」
「だとしても、結界が検知するさ」
マリク神の守護結界を素通りできるのは、生身の人間だけだ。召喚武装を身につけていれば、マリク神によって検知され、その情報はすぐさま護峰侍団や六大天侍に通知される。通信器の改良と量産により、リョハンにはマリク神の情報通信網が構築されていた。
「じゃあ、山登りしてきたってことで」
「じゃあってなんだよ、じゃあって!」
「だって、面倒だし」
「なにがだよ、真面目な話をしているんだぞ、こっちは!」
「どうでもいいことじゃない」
「どうでもいいことじゃあない!」
「なんでさ」
ロナンが憮然とする。
「ぼくはここにいて、ぼくは人間で、生きている。それだけがわかれば、十分じゃないの? これ以上、なにを証明すればいい? ぼくのなにを」
「おまえがここに来た方法を教えてくれればいいだけなんだよ……。ただ、それだけなんだ……」
「……うーん」
彼は、腕を組み、考え込んだ。
「困ったな」
本当に困り果てたように、彼はいう。
「困った」
「なんで困るんだよ」
「それをいったら、兄さんがこっちに来てくれないかもしれないじゃん?」
「どういうことだよ。なんで、そうなるんだよ」
ロナンの困ったような表情を見つめながら、ルウファは、歯がゆい想いでいっぱいだった。ロナンがそうやって回答をはぐらかしている時点で、答えは出ているも同然だ。正規の方法で入山せず、守護結界にも検知されず、ここに至っている。そんなことができるのは、人間業ではない。ただの人間に、普通の人間にできることではないのだ。
つまり、ロナンは、常人ではない。
「兄さん、さ。一緒にガンディアに戻ろうよ、義姉さんと一緒に、ね。そうしたら、また皆と一緒になって、ガンディアのために戦えるんだよ。陛下のために。それに比べたら、ぼくがどうやってここに来たかなんてどうだっていいことじゃない」
「もう、いい」
ルウファが椅子から立ち上がると、ロナンはなぜか目を輝かせた。きっと彼にはルウファの心情が理解できないのだ。だから、先程からルウファの質問からずれたことばかりいってきている。無論、いえば、決定的になるからだ。決定的な決別となる。
「やっと、わかってくれた?」
「ああ、わかったよ」
告げて、ルウファは自分の胃が軋む音を聞いた気がした。きっとそれは気のせいで、本当はそんな音はしていないのだろう。だが、心情としては、似たようなものだ。胃が捩れ、胸が痛む。せっかくロナンと逢えたのに。最愛の弟と、再会できたというのに。
(どうして)
ルウファは、ロナンを一瞥し、ついてくるように促した。するとロナンはどこか嬉しそうに飛び上がるような勢いで立ち上がった。その反応、一挙手一投足がロナンそのものなのがやるせない。彼は、やはり、ロナンそのひとなのだろう。
ロナンなのだ。
実弟の。
だのに、彼は、決断しなければならなかった。
エミルにはなにもいわず、広間を出て、廊下を進む。
そして玄関から外へ出ると、さすがのルウファもロナンの意図に感づいたようだった。
「なるほどね。義姉さんを巻き込みたくないってことか」
「家を壊したくないんだよ。年代物なんだ。それも何百年単位のさ」
無論、エミルに見せたくないということのほうが遙かに大きい。家は、壊れても立て直せばいい。どれくらい歴史があり、価値があろうが、エミルの存在意義に比べれば安いものだ。なればこそ、エミルのことを大切にしなければならず、故に彼は、ロナンを外に導いた。
「ものの価値も知らないひとがいうようなことではないと想うけど」
「おまえよりはわかってる」
「つもりだよね」
「うるさいな」
軽口の応酬は、そこまでだった。
ルウファは、屋敷の敷地外に出ると、ロナンも庭から出るように促した。晴れ渡る空の下、吹き抜ける風は冷たく、凍てついている。太陽はある。が、その暖かさも微々たるものだ。むしろ、心の奥底に寒風が吹き荒んでいた。
「ねえ、考え直そうよ。ぼくと一緒に、ネア・ガンディアに行こう? そこには永遠の幸福があるんだ。老いることも病むことも失うことも忘れることもない、約束された永遠の幸福」
「……いうことが段々怪しくなってきたな」
「本当のことさ。本当のことなんだよ。本当の」
「だとしても、おまえがここにいる理由を話せない以上、ついていく道理はない」
「なんでさ。なんでそんなことに拘るの。ぼくと一緒にガンディアに戻ればいいじゃん。父上も、大兄さんも、陛下だって待ってる。兄さんは、ガンディア王家より、リョハンを取るの?」
「……そう聞かれると困るな」
「困らないでよ。ガンディア王家への忠誠を誓ったんでしょ」
「ああ、誓ったよ」
ルウファはうなずき、ロナンが寒空の下で微塵も震えていないことに気づき、目を細める。彼は、長衣を脱いだままなのだ。白ずくめの上下。防寒着などではない。常人ならば凍えるほどの寒さであるはずだが、ロナンはなにも感じていないかのようだった。防寒着を着込んでいるルウファですら辟易するほどの寒さだというのにだ。
一言で言えば、異様だった。
拳を握る。
「誓ったんだ」
ガンディア王家への忠誠。
それに嘘偽りはない。
バルガザール家の二男として、ルウファ=バルガザールとして、レオンガンド・レイ=ガンディアに立てた忠誠は、終生変わらないものであるはずだ。
いまも、想っている。
だからこそ、悔しいし、哀しいし、辛いのだ。
もし、ロナンのいうことがすべて真実で、ガンディアがネア・ガンディアとして再興したというのであれば、その指導者がレオンガンドであり、アルガザードやラクサスがいるというのであれば、それらとも決別しなければならないということだからだ。
「だったら……!」
「だから、辛いんだろ……武装召喚」
呪文は、廊下を進むときに唱え終えていた。故に結語の四字が術式の完成を告げ、彼の周囲に光が乱舞する。異世界とこの世界を結ぶ光が彼の全身に纏い付き、純白の外套を具現化していく。シルフィードフェザー。彼の愛用召喚武装であるそれは、顕現とともに彼に警戒するよう伝えてきていた。つまり、シルフィードフェザーは、ロナンを明確に敵視しているということ。
「兄さん!」
ロナンが悲痛な表情で叫んできたが、ルウファは、そんな顔をしたいのは自分だと想った。
「なんで!」
「それはこっちの台詞だ、ロナン! なんで、なんでおまえはここにいるんだよ!」
「兄さんたちを連れ戻しにきたんだろ!」
ロナンは必死だった。その必死さがルウファを躊躇わさせる。ロナンは、本物だ。本当のロナンなのだ。それは紛れもない事実であり、だからこそ、彼は心を鬼にしなければならない。
「じきに総攻撃が始まるんだ。だからその前に……!」
「総攻撃? ネア・ガンディアのか……?」
そう聞いて、ルウファの脳裏に閃くものがあった。リョハンを二度に渡って侵攻してきた軍勢。
「そうだよ、だから、一緒に……」
「……そうか、ネア・ガンディアか」
「なに?」
「方舟の軍勢が、ネア・ガンディアだったんだな?」
ルウファは、ロナンを睨み据えた。
「そうなんだな、ロナン!」