第二千六百三十三話 風の中の兄弟(二)
「ロナン……おまえ、ロナンなのか?」
ルウファは、ただただ呆然とした。せざるを得なかった。ロナン。ロナン=バルガザール。ルウファの実の弟である彼とは、もう二度と逢えないものと思っていたのだ。諦めていた。諦めざるを得なかった、というべきだろう。
最終戦争末期、ルウファは、ガンディオンから離れることを選択したが、ロナンはガンディオンの地下に避難していたはずだ。その後、ガンディオンに起きた事象を鑑みるに、無事で済むわけがなかったし、父も兄もふくめ、親類縁者ともども、その生存を諦めなければならなかった。
諦めなければ、思考の外に追いやらなければ、常に意識に絡みつき、考え込んでしまうからだ。
リョハンでの新しい生活が始まった。この新生活に慣れ、混沌とした時代を生きていくためには、過去を振り切らなければならなかったのだ。
だから、彼の笑顔の中にロナンを見出したとき、ルウファは、魂が震えるような想いがした。実の弟だ。愛する家族。中でもロナンは、厳格な父や兄に比べ、仲が良かった。よくふたりで遊んだものだったし、《獅子の尾》に入ってからも、弟の相手をする時間だけは確保したものだ。
「うん」
彼は、うなずき、ルウファの言葉を肯定した。
金髪碧眼、貴公子然とした容貌は、バルガザール家の血によるものだろう。バルガザール家は、ガンディアにおいて名門中の名門だった。武門の筆頭、などといわれていたこともある。そんな家柄にあって、ルウファは武に長じず、故に武装召喚術に逃げたのだが、ロナンはそんな彼の後を追った。つまり、武装召喚師を目指したのだ。故に、彼の体は鍛え上げられているようだった。いまも武装召喚術の訓練を受けているのかもしれない。
身の丈は、ロナンのほうがわずかに低い。ルウファ自体長身というほどではないが、ロナンの身長はごく普通といったところだろうか。身につけているのは白基調の長衣だが、防寒対策が出来ているようには見えなかった。そのことに気づくと、ルウファは、ロナンとの再会の感動を味わうよりも先に彼を屋敷内に招き入れた。午前中。日の光があるとはいえ、外は寒い。防寒対策をしなければ、凍えてしまう。
疑いは、持たなかった。
彼がロナンを偽る赤の他人である、などとは、想像もしなかった。
ルウファを騙すことになんの意味があるのか、という話もあれば、ロナンのことを知っているものがどれだけいるのか、ということもある。そして、成長したロナンの姿を想像し、変身するような能力を持つものなど、そういるものではあるまい。
ただひとつ、大きな疑問を除いて。
「寒かったろう」
「まあ、ね。でも、こうして兄さんと逢えたから」
「そりゃあ……俺も嬉しいけどさ」
玄関の扉を閉めながら、ルウファは素直にいった。ロナンが生きていて、逢いに来てくれた。その事実は、この上なく嬉しい。目頭が熱いのは、いまにも涙が零れそうだからだ。それはそうだろう。死に別れたと思っていた実の弟が生きていて、目の前にいるのだ。これほど嬉しいことはあるまい。
「ここが兄さんの家?」
「ああ。立派なもんだろう」
ルウファは、自慢するでもなく答えて、彼を奥へ案内した。決して広くはない屋敷だが、防寒対策はばっちりで、どんなに気温が低くなろうとも、屋敷の中にいる限りは安全だった。もちろん、暖炉は必須だし、室内であっても厚着していなければならないのは、どこの家も変わらない。
広間に先に入り、エミルに声をかける。きっと、驚くだろう。
「エミル、暖かいものを用意してやってくれ。弟が、ロナンが来たんだ」
「え……?」
エミルは、編み物をしていた手を止め、こちらを見た。ロナンを認識したからだろう。彼女の手から編み物が落ちた。
「ロナン君?」
「やあ、義姉さん。お久しぶり。元気だった?」
「ロナン君こそ……!」
エミルは、軽い口調で挨拶をしたロナンに駆け寄ると、全力で抱擁した。ロナンは少し照れくさそうに笑う。その笑顔の屈託のなさや、これまでの態度を見る限り、彼が偽者である可能性は消えた。彼は紛れもなく、ロナン=バルガザールであり、ルウファの実弟だった。だからこそ、ひとつの疑問は消えない。
ここは、リョハンだ。
空中都市リョハン。三層構造の都市の中で、最上部に位置する空中都に彼の屋敷はある。
ロナンは、いったい、どうやってここまで来たのか。
最大にして唯一の疑問が、それだ。
その疑問が解消されない限り、ルウファはロナンに心を許すつもりはなかった。
とはいえ、彼をすぐさま屋敷内に招き入れたのは、寒空の下ではまともに話し合うこともままならないだろうという配慮からだ。
「お茶でいいかしら?」
「ええ。義姉さんが作ってくれるものならなんでも」
「まあ、ロナン君ったらおだてるのが上手ね」
「おだてているつもりはありませんが」
「ふふふ、わかってるわ」
エミルが台所に向かうのを見届け、床に落ちた編み物を椅子の上に戻しておく。それから、広間の椅子をロナンに指し示した。ロナンはうなずき、長衣を脱ぐと、その椅子に腰を下ろした。長衣の下は、白ずくめの上下だった。ルウファは卓を挟んだ対面の席についた。
「なんていうか……義姉さんが元気そうで良かった。安心したよ」
「安心?」
「兄さんに泣かされていないか、心配だったんだ」
「冗談でもそんなことはいうなよな」
「ふふふ、ごめんごめん。兄さんと義姉さんの仲の良さに疑いなんて持ってないよ」
「だろ」
「ふふ」
「なんだよ」
ルウファは、ロナンの性格がなんら変わっていないことに安心しつつも、その他人を振り回すことになんら躊躇しない性質そのものは、やはり厄介なものと想わざるを得なかった。昔からそうだ。ロナンには、振り回されっぱなしだった。そしてそれが決して悪い想い出ではないことが厄介で、むしろ楽しく懐かしい日々だからこそ、ルウファは警戒する。
ロナンとの再会は、嬉しい。セツナとの再会に並ぶくらいに喜ばしい出来事だ。いまも涙が零れそうになるのを堪えなければならないくらいに、感情が揺さぶられている。
ただし、それには前提条件がある。
ロナンがただの人間である、ということだ。
そして、この空中都になんの前触れもなく現れたという時点で、彼はただものではないという確信を持たざるを得ない。
「兄さんは……いまの生活、どう想っているの? 幸せ?」
「なんなんだ、突然。そんなことを聞いてどうする」
「ただの好奇心からの質問だよ。答えて欲しいな」
「……見ればわかると想うけど、幸せだよ」
渋々答えたのは、彼の目的がどこにあるのかわからないからだ。目的どころか、彼がなにものなのかもわかっていない。ロナン=バルガザールなのは、間違いない。なにものかが、ロナンに化け、ルウファの心を乱そうとしているわけではないことは、明らかなのだ。
だからこそ、ルウファは、心苦しい。
成長したロナンの笑顔は相変わらず愛らしく、愛おしい。このまま、彼をこの家に迎え入れ、家族として暮らすのも悪くない。そう思えた。そう思いたかった。数少ない肉親なのだ。それも死に別れたと思っていたはずの弟。
生きていて、目の前にいる。
「やっぱり」
「うん」
「……良かった。兄さんが幸せなら、それでいいんだ」
ロナンは心底納得したようにうなずく。その仕草、言動のひとつひとつがロナン=バルガザールそのものだ。疑いようもない。やはり、彼はどうしたところでロナンなのだ。だからこそ、問わなければならない。ルウファは身を乗り出した。
「ひとつ、質問していいか?」
「うん。なんでも聞いてよ。こうしてようやく再会できたんだしさ」
「……おまえ、どうやってここまで来たんだ?」
「やっぱり、気になる?」
ロナンは、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた。
漠然とした不安がルウファの胸の内に広がった。